2003年度 考古・民俗・文化財部会発表要旨

1.黄幡1号遺跡の発掘調査

(財)東広島市教育文化振興事業団文化財センター 鍜治 益生

 黄幡1号遺跡は、県道改良工事に伴って昨年度から発掘調査を実施しているもので、本年度は5月から発掘調査を実施した。調査の結果、弥生時代中期中ごろの木樋を伴った水路遺構を検出した。この水路遺構は自然流路に堆積した土層の上に設置されたもので、木樋の規模は長さ5m、幅50cm、深さ15cm、厚さ5cmである。木樋の設置にあたっては、堆積土の上に設置することからその沈降を防止する目的で樋の直下に板材を敷設し、さらに杭材を打ち込んで樋を受け止める状態となっていた。また、樋の外側の北側は多数の杭材を打ち込んで固定し、南側は穴を穿った板材を横方向に木樋に当て、杭をその穴に打ち込んで樋を固定していた。木樋は谷の奥側(東側)から西側に傾斜していることから、谷の湧水を水田に導水するために設置されたものと考えられる。このように今回の調査では、木樋の設置にあたって高度な土木技術が駆使されていたことが明らかになるとともに、それに支えられた当時の農業経営の一端を明らかにすることができた。

2.北本庄河床遺跡の発掘調査-国土交通省芦田川改修事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査-

福山市教育委員会 福島 政文

 北本庄河床遺跡は、福山市にある芦田川の河口から約9,4km上流の中洲に位置する南北100m、東西50mの遺跡である。2001年から2ヶ年にわたって発掘調査を行なった結果、約5000平方メートルの調査区全域で、弥生時代中期から後期の土器・石器を伴った円形竪穴住居跡、掘立柱住居跡、柱穴、土坑、大小の溝などの遺構を多数検出した。 集落内には、土地を区画するように溝が多数掘られていたことから、様々な使用目的を持った区画や建物があった可能性が考えられる。また、遺構密度が高いことや、土器・石器類の出土量が多く、その器種も豊富なことから、河口付近で長期間にわたり営まれた拠点的な集落であったと思われる。このほか上層で、近世の床止め・堤防・石組み井戸・木樋や、中世の井戸・溝を検出し、福山湾をめぐる地形や芦田川の変遷を窺う大きな手がかりを得ることができた。

3.石から鉄へ-古武士遺跡と中屋遺跡の石器製作を通して-

広島県立歴史民俗資料館 三枝 健二

 ここで取り上げる2遺跡は、世羅台地に源流をもつ沼田川上流(中屋遺跡)と芦田川上流(古武士遺跡)に位置し、直線で約10kmの距離にある。大和町古武士遺跡は、弥生時代中期後半に生産の最盛期を迎えると考えられる磨製石斧の生産遺跡である。一方、豊栄町中屋遺跡は弥生時代中期後半から古墳時代初頭までの集落遺跡で、弥生時代中期後半と考えられる蛤刃石斧未製品、後期後半から末葉にかけての砥石製作段階の未製品やハンマーストーン・同素材など多数と鉄斧などが出土した。両遺跡とも、研磨が均質に施されない石斧など、磨製石斧後退期の資料が見られる。古武士遺跡の石斧生産と中屋遺跡との具体的関係は不明であるが、磨製石斧生産の後退、砥石の生産つまり鉄の消費が時系列で捉えられる意味は大きい。今後、集落での砥石を通した鉄の消費実態から所有関係などを推定する方向性も必要と言える。

4.大町七九谷遺跡群出土鉄器の評価とその問題点

(財)広島市文化財団文化財課 若島 一則

 1997年5月から1998年3月に調査が実施された大町七九谷遺跡群は、隣接する3ヶ所の丘陵上に立地し、弥生時代後期後半から古墳時代前期にかけての遺跡群である。検出された遺構は住居跡19軒、土坑39基、墳墓117基を数え、多量の遺物の出土も含めて注目すべき遺跡群といえよう。特に出土鉄器は器種の明確なもの58点以上と多量に出土しており、時期のある程度推測可能なものを多く含んでいることから、当該時期の広島湾岸地域の鉄器の変遷およびその動向を把握するうえで、最適な資料と考えられた。そこで、大町七九谷遺跡群出土鉄器を中心として弥生時代後期に広島湾岸出土の鉄器の器種、形態等の時期的変遷について整理し、それを評価して、問題点を抽出することを試みた。

5.広島市・宇那木山第2号古墳の発掘調査

広島大学 古瀬 清秀

 宇那木山第2号古墳は太田川西岸、広島市安佐南区緑井の標高約130m(平地比高約120m)の山丘尾根上にある。墳丘は後円部を平野に向けた、墳長約40mの前方後円墳。後円部は直径約25m、高さ約2,5mで、墳頂平坦面が広く、低い造り。前方部は前端がバチ形に開く。盛土は少なく、大半が地山の削り加工。石列、葺石は見られない。埋葬施設は後円部中央と北側に竪穴式石槨2基、前方部に素掘り土壙1基。中央石槨は全長3,7m・幅1,2m・高さ1,2m。側壁は持送りが強い。平野部に向けて排水溝を設置。粘土床から珠文鏡・鉄槍・鉄短剣・鉄斧・鉄ヤリカンナが、各1出土した。土壙には副葬品は見られない。前方部頂 部付近に祭壇状の施設があり、ここから手焙り形土器・加飾壺・石杵・鉄鏃などが出土。墳丘形態、石槨の造り、出土土器などの諸特徴から、この地域で初現の古墳であると判断できる。

6.みたち第2・3号古墳の発掘調査

(財)広島県教育事業団埋蔵文化財調査室 岩本 正二

 みたち第2・3号古墳は、豊田郡本郷町本郷に所在する古墳で、土地区画整理事業に伴い、2001(平成13)年に(財)広島県埋蔵文化財調査センターが発掘調査した。第2号古墳は、径約12m・高さ約2mの円墳で、円筒埴輪を伴う5世紀後半頃の古墳である。埋葬施設は「竪穴系」と推定され、土師器・須恵器・鉄鏃・管玉・ガラス小玉のほか金銅製冠断片・耳環や馬具の一部(?)が出土した。また、第3号古墳は高さ約1,4m・11×8mの楕円形の古墳で、築造時期は6世紀後半から7世紀初頭頃である。埋葬施設は横穴式石室で、土師器・須恵器・耳環・鉄鏃・刀子・鉄釘・勾玉・管玉・ガラス小玉・滑石製小玉・土玉のほか、製塩土器が出土した。また、墳丘近辺から、装飾付須恵器が出土している。第2・3号古墳の特徴や問題点について、立地環境等を考慮しながら報告する。

7.史跡安芸国分寺跡第16次調査(推定国師院跡)について

東広島市教育委員会 妹尾 周三

 史跡安芸国分寺跡は、東広島市西条町吉行に所在する寺院跡である。第16次調査は、平成14年5月から8月までの4ヶ月間行なった。調査面積は約1,650平方メートルで、大規模な建物跡とそれを取り囲む板塀跡などを検出した。この建物跡は、身舎が桁行7間 (19,8m)、梁間(5,4m)で、両平側に桁行5間(14,5m)、梁間1間(2,8-2,9m)の庇が付く二面庇のものである。また、身舎の中には間仕切柱としても利用されたと考えられる棟持柱が存在する。柱穴は不定形で、身舎の入側柱と棟持柱は1m程度(柱径30cm)、庇の側柱は0,7m程度(柱径15cm)を測る。しかし、土層断面からすると途中で掘立柱建物から礎石建物に改築されているようで、礎石は遺存していないが、それを据え付けるための礫や瓦が存在していた。遺物は、礎石を据え付けた掘り方や建物周辺から須恵器などが出土した。その特徴からいずれも8世紀中葉から後半のものと考えられ、中に「国院」「国師院」「院」などの墨書土器が認められる。今回明らかとなった遺構は、建物規模や構造と配置、さらに出土した墨書土器などから、国師が執務・起居した国師院と推測される施設である。

8.草戸千軒町遺跡をめぐる研究の現状と課題

広島県立歴史博物館 鈴木 康之

 広島県教育委員会による草戸千軒町遺跡の発掘調査事業は、1996年の報告書刊行をもって終了し、その後の整理・研究は県立歴史博物館に引き継がれている。発掘調査によって得られた多くのデータは、中世史・中世考古学に多くの成果をもたらしたが、出土資料の詳細な分析や、地域史への位置づけをはじめとして、残された課題も多い。ここでは、報告書刊行後の研究の状況を纏めるとともに、今後重点的に取り組む必要のある課題について考えてみたい。

9.史跡広島城跡本丸遺構保存状況調査について

(財)広島市文化財団文化財課 福原 茂樹

 平成8年度から7年間にわたって史跡広島城跡本丸の整備に伴う発掘調査を行い、本年度報告書の作成を行っている。遺構では中御門・裏御門の袖石垣上の礎石や本丸上段北側の櫓、南西隅櫓などの礎石がよく遺存していたほかは、上段の御殿、下段の米蔵など建物跡については近代以降の軍施設による撹乱が著しく、一部の塀の基礎、排水溝などしか確認できなかった。そうした状況の中で、下段の一部で築城当初の遺構面や建物跡を確認し、築城時の造成方法の手がかりを得られたことや、本丸上段で築城当初の遺構面上に比較的早い時期の焼土層がみられ、文献では知られていなかった本丸内の火災跡が確認されたことなどは注目される。遺物としてはこれまで文献でしか明らかでなかった菊間瓦が大量に出土し、その実態解明の基礎資料を得たこと、窯跡資料の調査の結果、まとまった数の砥部焼きを全国に先駆けて確認したことなどが成果としてあげられる。