2003年度 日本史部会発表要旨 |
1.王朝国家期の弁官局と外記局 名古屋学院大学 曽我 良成 王朝国家期の政務処理の実務機関が、大夫史が率いる弁官局と大外記が率いる外記局であること、そして、その大夫史・大外記の地位が小槻氏、清原・中原氏によって世襲化されていることは定説化している。ところが、「大夫史は小槻氏単独による世襲であるのに対し、なぜ大外記は清原・中原の二氏による世襲なのか」、「この二つの地位の世襲が始まった時期はいつなのか」など重要な問題については未解明のまま残されている。当時の朝廷の行事の一つである「軒廊御卜」に神祇官と陰陽寮を召す場合、弁官を介すのか、外記を介すのか、同じ事務処理であるにもかかわらず、時期によって経路が異なっている。この現象は、当時の弁官局と外記局の関係や、中央政府部内での位置づけが表面化したものと考えて良い。本報告では、このことを素材として、弁官局と外記局の関係やその世襲の成立などについて考察を加えることにしたい。 |
2.毛利氏「御四人」の役割とその意義 広島大学 中司 健一 従来、戦国期毛利氏の領国支配機構に関する研究は、私的な関係(縁)よりも大名への忠誠心をその行為規範とする官僚群をどのように創出してきたかという視点を中心に行われてきた。しかし戦国期毛利氏の実態を正確に把握するためには、一門衆や上級家臣らの果たしていた役割を検討する必要があると思われる。そこで本報告では、毛利氏が永禄末年から天正十年頃にかけてとっていた「御四人」体制について考察を行う。「御四人」とは、当主輝元を補佐する吉川元春・小早川隆景・福原貞俊・口羽通良の四人を指す言葉である。この「御四人」体制はどのような毛利氏の状況に対応して取られたのか、そしてその状況に対して「御四人」体制はどのように機能したのかを検討することで、毛利氏領国あるいは戦国期毛利氏の性格を考えてみたい。 |
3.毛利領国における銀流通と米の機能 広島女子大学 本多 博之 戦国・豊臣期における貨幣流通の特色は、銭貨に加えて金銀貨が新たに流通に参加したことである。当該期は、「撰銭」が常態化し、銭貨に対する社会的信用が低下するなか、米の果たす役割がにわかに重要性を持つようになった。浦長瀬隆氏によれば、畿内各地では一五七〇年前後に取引手段が銭から米に変化し、八〇年代には山城国(京都)で銀が使用され始め、やがて周辺地域に普及したとされる。これは銀遣いが浸透する前に米が支払手段として機能していたことを示すものであるが、こうした銀の浸透過程や米の機能については、これら相互の関連も含めて検討すべき重要な課題であり、西国各地においても実態の解明が求められている。そこで本報告では、毛利領国における銀の浸透過程や米の機能について検討することにより、中近世移行期における貨幣の流通動態と米の特性について具体的に明らかにしたい。 |
4.戦国大名大友氏と川・水運・治水 大分県立先哲史料館 鹿毛 敏夫 中世の川は、当該期を生きた人間の生活や生産活動に密着した存在であった。川の流域に生きる「村衆」や中小の領主、そして領国全体を統治する大名は、簗や筌等の手段で川が育む自然の恵みを確保し、また、その流れを材木等の物資の効率的な流通路として活用し、みずからの生産活動に利用していた。本報告では、まず、戦国期の大分川における材木輸送の実態を明らかにするとともに、川とその流れの源である雨に対する当該期の人々の意識の問題についても触れてみたい。一方、中世社会の人間の親水性の高い生活実態は、地域社会を統括しようとする公権力の領国制に、治水政策の展開を促した。報告の後半では、戦国大名大友氏が、都市とその近郊で水利と防災を目的とした大規模土木工事を実施し、地域公権力として土地と人に加えて水を治めようとした事実を指摘しながら、中世社会における利水と治水の問題を考察していきたい。 |
5.戦国期厳島神社の文書管理と支配 -「写し文書」を手掛かりにして- 鈴峯女子短期大学 松井 輝昭 安芸一宮であった厳島神社関係の中世文書は三一○○通余りを数えるが、その八○パーセント強が戦国時代の文書である。これら戦国時代の文書の大半が「社家惣奉行」の地位にあった棚守房顕・元行父子の家、「棚守所」で管理・保管され後代に伝えられたものと推測される。また、このような文書が集積された戦国時代は、棚守房顕・元行父子が厳島神社のなかで最高実力者として不動の権力を固める過程でもあった。しかし、数多くの戦国時代の文書が「棚守所」でどのように管理され、保管されていたのかは未解明のままである。ところで、戦国時代に作成された数多くの厳島神社文書のなかには、「写し文書」(案文・写し)が少なからず含まれている。本報告ではこの何種類もの「写し文書」を手掛かりにして厳島神社の文書管理の一端を明らかにし、また棚守房顕・元行父子の厳島支配と文書との関わりについても述べることにする。 |
6.佐賀鍋島家における祖先像と歴史書の編纂 九州大学 野口 朋隆 近世を通じて幕府や大名家では自家に関する歴史書を多く編纂している。ここでいう歴史書とは、家譜類や軍記物などを指すが、こうした歴史書編纂に関して、藤田覚氏は幕府のそれが「諸大名や人民諸階層に対する強力なイデオロギー攻勢」と指摘しており、大名家の歴史書編纂もこうした視角から捉えていく必要があるように思われる。また大名家において描かれた祖先像と現実の政治は無関係でなく、祖先の事跡を明らかにすることで政治の方向性を決定していこうとした。近年、こうした研究は羽賀祥二氏、岸本覚氏などによって進められているが、十九世紀段階に議論が集中している。そこで、本報告では、十七世 |
7.出雲地方における文明開化の諸相 広島大学 勝部 眞人 明治初年の「開花」政策が折りにつけ「復古」の形を取らざるを得ず、開化と復古が一体・不可分のものとして推進されていったということは、しばしば指摘される。ではそれらを受け入れる側の民衆は、どのような意識で受け止めていったのであろうか。本報告では、「散切り頭」という身体的パフォーマンスをめぐってなされた地方長官の説諭と地方名望家・リーダー層の意識、およびその周辺に位置する人びとの意識・行動について、出雲地方を事例に検討してみたい。検討の素材とするのは大社町藤間家文書であり、とくに同家と縁戚関係にあった宍道の木幡久右衛門からの書状が中心となる。維新期の政治的・経済的変動のなかで地域秩序の維持に腐心する地域リーダー層が、それゆえに「天朝之御趣意」を受けとめて「文明の魁」としての自覚を持たざるを得なかったであろうこと、またその周辺では断髪するのにも、「暦日柄を見て」行う人びとがいたことなどを述べていきたい。 |
8.新見吉治教授の地域史研究 -資料所蔵者とのかかわり- 広島大学 頼 祺一 広島高等師範学校の創設は、広島あるいは瀬戸内海の地域史研究に寄与するところが大きかった。本報告は、新見吉治教授の「後藤夷臣」(『尚古』第一年第五号、第二年第一号)という論文の作成過程を検討することによって、(1)山県郡壬生村(現千代田町)の資料所蔵者との交流過程を明らかにし、(2)それが地域の人物"発見"や、その後の地域史研究にどのような影響を及ぼしたかを論じたい。 |