2003年度 西洋史部会発表要旨

1.前4世紀小アジア南西部の「ギリシア化」

広島大学 大谷 康司

 紀元前4世紀、小アジア南西部カリア地方はヘカトムノス一族という土着の人々に統治される。彼らはアケメネス朝ペルシアのサトラップであると同時に、カリアに根ざした「王」でもあった。このヘカトムノス朝のなかで最も傑出した人物であるマウソロスは父、ヘカトムノスからサトラップ職を世襲し、サトラップの大反乱や第二次アテナイ海上同盟の離反戦争などにおいて、前4世紀のエーゲ海世界で重要な役割を果たした。また、古代においては「ギリシア愛好者」として知られ、ホーンブロウワーやルチカによるとカリアのギリシア化を進めたのは彼であると言う。その「ギリシア化」とはいかなるもので、なぜ彼はギリシア文化を受容したのか。マウソロスのギリシア文化に対する態度はいかなるものであり、それは「ギリシア化」なのか。本発表の目的は以上の点を探ることである。

2.ペルシア帝国支配下小アジアにおける「ギリシア化」-小アジアにおける文化的ハイブリディティ-

京都大学 阿部 拓児

 前五四七年、キュロス大王がリュディア王国を征服したことにより、小アジア全域はアカイメネス朝帝国の版図に組み込まれた。それは同時に小アジアが「先住アナトリア人」、「ギリシア人」、「ペルシア人」という複数のエスニック集団の混在した民族的、あるいは文化的フロント・ラインとして成立したことを意味した。このフロント・ラインの成立は、小アジアにどのような文化をもたらしたのであろうか。長らく、同地域の文化は「ギリシア化」という視点から考察されてきた。しかし、そのような視点から小アジアの文化を説明することには、文化が本来持つ「流動性」を見失ってしまう危険性が潜んでいる。そこで本報告は、小アジアの二地域-リュディアおよびカリア-に焦点を絞り、文化が創造された際の過程に着目することにより、当該時期の小アジアにいかなる文化が創造されたのか、またそれはどのような意味を有していたのかについて考察したい。

3.13世紀ラ・ロシェルにおける都市内商業

九州産業大学 大宅 明美

 10世紀には製塩人と漁民の居住地として史料中に現われるのみであった《Rochella 》は、その後急成長を遂げ、12世紀後半には北部ヨーロッパへのワイン輸出を担う海港ラ・ロシェルとして名声を得るようになる。その繁栄は、ワイン輸出とそれがうみだす富に関する記述史料の描写や、イングランドやフランドル、エノーなどワインを輸入する地域に伝来する史料によって広く知られてきた。しかし、それを担ったラ・ロシェルの商人たちの活動、特に都市内における彼らの活動や、それと領域権力との関係について扱った研究は、殆どと言っていいほどない。本報告では、父親ルイ8世の遺言によってポワトゥー伯の位を与えられ、1241年から70年までの間ラ・ロシェルを統治した親王アルフォンスの時代に起きた、伯取引所《 hales 》《 cohua 》をめぐる事件を手がかりに、13世紀ラ・ロシェルの都市内商業のあり方にせまってみたい。

4.ゲラルドゥス・ゼルボルトの最後の一年-共同生活兄弟会の生活形態の確立について-

慶應義塾大学 杉本 美穂 

 ゲラルドゥス・ゼルボルト(1367~1398)は、14~16世紀に低地地方からラインラントなどに広がった、宗教運動デヴォティオ・モデルナの初期のメンバーであり、広く読まれた信心書『霊的上昇について』等の作者として、この運動の最も重要な著作家の一人とみなされる敬虔な人物である。だがその一方で、彼はデヴォティオ・モデルナの重要な柱である、共同生活兄弟会の実質的創設者の片腕として働き、兄弟会への攻撃に対して『敬虔な人々の生き方について』を著わし、教会法に則った議論を展開して弁明に努めた実際的な人物でもあった。本報告は、この『敬虔な人々の生き方について』および彼の生涯の最後の年である1398年の書簡などに基づいて、共同生活兄弟会が置かれていたその当時の状況を明らかにし、この会の生活形態の確立において、彼がどのような貢献を果たしたかを検討する。

5.16世紀リヨンの派遣特使と都市エリート層

熊本県立大学 小山 啓子

 16世紀フランスの都市と王権の関係を考察すると、王権からの勅書や通達に比べ、より積極的に意思の伝達が図られたのは、むしろ都市の側からであったことが判明する。市参事会は「良き都市」の安定維持のために活発な渉外活動を展開し、頻繁に特使を派遣することによって要請を伝え、それを実現する交渉能力を確保していた。こうした通信・仲介業務がどのような方法で、またどのような人物によって担われたかという問題は、16世紀の統治構造を考察するうえで極めて重要である。本報告では王国第二の都市リヨンを事例に、都市と王権、地方と中央の相互交渉のあり方を、連動する都市内部の社会構造の変容と絡めて検討する。史料は、主にリヨン市参事会審議録と都市派遣特使の書簡を用いる。都市の利権の保護を求める役割を担った特使は、しだいに官職保有者が多く任命されるようになっていくが、この変容は都市におけるエリート層の変化を裏書きしていたのである。

6.ナポレオン戦争の記憶とセント・ポール大聖堂-イギリスの「戦争と記憶」に関する試論-

大阪大学 中村 武司 

 「長い18世紀」の対仏戦争の最終局面であるフランス革命・ナポレオン戦争(1793-1815年)は、近代におけるイデオロギー抗争、さらにイギリス国民にとっては初の「総力戦」という側面をもっていた。それだけにイギリスの国民形成に関する研究にとっては、最もクリティカルな時代と言えるが、研究が充分に行われているとは言い難い状況にある。本報告では、革命・ナポレオン戦争期を対象に、イギリスの国民意識を記憶の歴史学のアプローチから考察することを目的としている。さしあたり、この時代に「イギリスのパンテオン」に変容したセント・ポール大聖堂を考察の対象とする。戦死した陸海軍の英雄のモニュメントをセント・ポール大聖堂に建立するという政府主導のプロジェクトを通じて、イギリスの勝利の記憶を維持・再生産することは、「総力戦」となったナポレオン戦争を遂行し、またイギリス国民の統合を図るうえで、いかなる意味をもったのかを考察する。

 

7.19世紀フランス復古王政期亡命貴族賠償法案をめぐる党派抗争

広島大学 木村 興司 

 1825年フランス亡命貴族賠償法案が議会に提出され可決された。同法案は革命によって被害を受けた亡命貴族をはじめとする者たちに賠償を行うものであったが、財産の不可侵性を謳った1814年憲章との狭間で大きく揺れ動くこととなる。また、大革命に抗して反革命に身を投じた亡命貴族は復古王政期までにその多くが帰国し、議会に進出する者もいた。彼らはそこで所謂「反動勢力たる旧貴族」と共に、法案を反動色の強いものにしようと一体となったのだろうか。本報告では、議事録をもとに法案の審議過程や発言を分析することで、亡命貴族や旧貴族の法案に対する態度を明らかにする。またさらにそれらによって、当時の状況に彼らがどのような動向を示したのかを見ていきたい。近年、19世紀貴族研究では専ら旧貴族に焦点が絞られてきた。旧貴族の中の亡命貴族を見ていくことでまた新たな旧貴族像を示すことができると考えられる。

  8.バラ戦争の評価を巡る近年の研究動向

ティーズサイド大学 A.ポラード

 私がバラ戦争に関する最初の小さな教科書を書いたのは1988年のことであり、その後、2001年に第2版を出版した。およそ第3版の刊行を予定している著者であれば当然のことであるが、私も現在、その後に出版された研究書やバラ戦争に関する解釈がいかに変化しつつあるのかを整理しているところである。そこで本報告では、近年の研究のうちいくつかの基本的なものを取り上げながら、バラ戦争期に重要な位置を占めた人物の評価、バラ戦争の起源、その間に用いられたイデオロギーが果たした役割について検討する。20世紀初頭にバラ戦争の研究は、従来のように主要な人物の役割を巡る論争から一歩踏み出すことになった。確かに個々人の果たした役割は重要であり、彼らの人格や決定および言動が最終的にことの成り行きを決定したことを否定ことはできまい。しかしながら、彼らが行動する際の政治的、社会的背景の及ぼした影響も同じくらいに重要であったのである。バラ戦争は、イングランドを混乱状況に陥れる非常に血なまぐさい権力抗争の時代という以上に様々な意味を持った時代であった。すなわち、ずっと長い間、政治的に危機的な状態にあり、断続的に武力抗争が生じている時代であったが、その中から影響力を持つ多くの諸要因が生み出されていったのである。そのうちのある要因は、およそ百年ものあいだ維持されてきた国王と主要な家臣との間の関係を変化させることになり、またあるものは、国外での敗北と国内の経済不況の要因となり、さらにあるものは政治的また社会的秩序自体に関係しており、国王と臣民の権利と義務に関わる根本的な問題を引き起こすことになったのである。