2003年度 東洋史部会発表要旨

1.明代の旗纛廟 -地方志における旗纛廟の考察-

別府大学 山本 さくら

 旗纛とは、軍牙之神・六纛之神と呼ばれる軍旗を主軸とした神格等の総称であり、明初に突如出現した祭祀である。旗纛は明代の国家祭祀(大祀・中祀・小祀)の中祀に位置付けられ、京師においては仲春、霜降、歳暮の時期に祭祀された。洪武元(一三六八)年十二月に発布された旗纛に関する令(以下「旗纛令」と呼ぶ。)の施行によって、地方の旗纛廟を立廟させたと思われる。本報告は、地方の旗纛廟に注目し、旗纛令と洪武礼制によって旗纛廟が、制度的に全国に展開したことを実証し、地方における旗纛廟の特徴と役割をみてゆく。

2.「三字経」の撰者をめぐって-東條琴台の王応麟撰者説批判とその引用資料を中心に-

広島大学 鈴木 正弘

 『三字経』の撰者を王応麟とすることに疑いを懐く見方は今日一般的なものといえよう。ただその根拠となるとなかなか断定的なことはいえない。「・・・ではない」ということを証明するのはなかなか厄介なのである。より確実な別の撰者の存在を指摘できれば解決することではあるが、俎上にのぼる他の人物も五十歩百歩ということであれば、一層混迷を深めるのであり、結局のところ推量に終わらざるをえない。ただ先学がこの問題についてどのように考えてきたのかを理解することは、この『三字経』という書籍の流通や伝播、使用状況などを考える上で重要な示唆を与えてくれるものと考えられる。筆者は片野英一氏と共同で研究した別稿において、東條琴台の『女三字経』について考察を加えた。そこで東條琴台が『三字経』王応麟撰者説に対する批判を試みていることを知った。この批判に利用されている資料は今日一般に知られている資料だけではないようなので、この資料を手がかりに三字経撰者説の形成過程について考察を試みたい。

3.一九三〇年代の江蘇省における営業税の導入について

島根大学 富澤 芳亜  

 1930年12月15日に国民政府財政部は「裁釐」の通電を発した。これ以降、各省政府の主要税収源は、田賦と新設の「営業税」(事業税)となった。 国民政府にとって、営業税は税種を国税と地方税とに分離する「国地財政劃分」の実施、すなわち近代財政確立のために、その導入が不可欠な税制であった。また江蘇省政府などの省政府にとって、営業税は「裁釐」以降の重要な収入源であり、その運用においては、釐金などの既存の税制の名称を営業税に変更することのみで税収の確保を図るのか、それとも個々の営業者の営業内容を的確に把握して租税の公平性を図るのかという問題を抱えることになった。一方、納税する側である商人層にとっても、営業税の課税標準に営業収入が採用され、商人団体の「請け負い」徴税を原則とした従来の中国流通税とは全く異なり、「官」が商人の経営状況を把握することを前提とする税制だったため、大きな影響を与えるものだったのである。

4.香港における左派系学校史-香島中学の「愛国」主義を事例として-

広島大学 中井 智香子

 香島中学が一九四六年に香港に建学された当時、中華民国における教育は政府のコントロールを受けていた。そこで香島中学の建学理念は民主精神を学校から家庭、社会へと浸透させ、最終的には民主的な新中国の建国を目指すことであった。香島中学は今日まで「愛国」主義を堅持してきているが、その歩みには中英間の国際政治、中国国内の社会主義市場経済化、一国二制度への移行、香港社会の自律化と香港人意識の台頭など、内外の環境変化に適応していくことで、自らの存在価値を模索する過程が指摘できる。本報告では、戦後香港に居住する中国系住民が抱えるアイデンティティ・クライシスを、左派系学校の「愛国」主義の視点から考察することによって、香港におけるアイデンティティ形成過程の多様性の一端を実証したい。

5.井上角五郎と朝鮮

広島女子大学 原田 環

 福沢諭吉が朝鮮について、特に1880年代に積極的に発言したことはよく知られていて、すでに若干の研究がある。しかしながら、福沢諭吉がどのような朝鮮の事情に対して、どのような情報に基づいて言論を展開したのかと言うことについての具体的で実証的な研究はない。実は、福沢諭吉は、門下の井上角五郎(1860-1938、広島県出身)が朝鮮から送った情報に多くを依拠している。本報告は、井上角五郎の伝える朝鮮事情を検討するものである。

6.都市サイゴンの形成に関する一考察

広島大学 松崎 聡

 フランス植民地期のベトナムは、サイゴンを含むコーチシナを直轄地として支配していた。植民地期を通じてサイゴンは、当時最大の輸出産品であるメコンデルタで生産された米の集荷地として流通の拠点をになっていた。しかし、これまで都市の機能に着目した研究はほとんどなされてこなかった。そこで本報告では、そのような経済の中心であったサイゴンがいかなる過程で発展していき、フランスの植民地支配にどのような役割を果たしていったのかを考察していきたい。

 

7.北宋の薦挙に関する一考察 -奔走干謁の問題に関連させて-

龍谷大学 冨田 孔明

 宋代においては、如何なる官僚も、上昇可能なポイントに至る毎に、高官・上官の推薦が必要となってくる。例えば、選人から京官になる(麿勘改官)において、中央高官・地方上官の中から五人の推薦状を獲得しなければならないのであり、このことは容易なことではない。その他、館職を得たり、台諫に任命されるなど、エリート路線を歩むには、高官の推薦が不可欠である。このため、推薦を求めて、有力な官僚の門下に奔走する下級官僚の動きが目立つようになった。この奔走干謁の風は、朋党問題と直接繋がるものであるため、皇帝

のみならず、士大夫官僚の側からも、強く否定されている。だが、幾度となく否定されながらも、元々は薦挙制度が整備され充実したことによって、この風が生じたのであり、常に薦挙を重視し続けた当代においては、奔走干謁の風(つまり、朋党形成に拍車を掛ける動き)を抑止する有効な手段・方法を見出すことができなかったのである。

8.楽戸以前

別府大学 好並 隆司

 中国の被差別民の種類として知られているのは堕民・斡戸・伴当・楽戸などである。山西省には古くからこの内の一つである楽戸が存在し、1980年代にまで続いていたようだ。2001-2年に「山西楽戸研究」と「楽戸」と題する著書が刊行されている。著者は現代を中心とする社会学系の専攻者のため、歴史的考察の部分は必ずしも多くないが、被差別の状況については歴史を遡って触れている。すなわち、楽戸は居住が限定され、道路通行の際、車馬は使えないし、衣服も緑色に限定される等の規制があり、とりわけ平民との通婚ができないのが大問題であった。しかし、共和国成立でこの差別が解消した。一体、楽戸の起源は三国魏乃至北魏とされるが、文献的には魏書刑罰志が根拠である。中国の研究者の多くは魏以前の時代では、楽工は奴婢であったと解している。この事について改めて検討する必要があると思うので、秦・漢期の音楽・楽工について考察してみたい。