2004年度 民俗・文化財部会発表要旨

1.宝治度出雲大社本殿の復元考察

広島大学 三浦 正幸

 古代の出雲大社本殿が高さ十六丈あったとする福山敏男説に対して、以前にそれを否定する論文を示しておいた。しかし、近年になって出雲大社境内の遺跡より宝治二年(一二四八)遷宮時の本殿の掘立柱遺跡が発掘され、出雲大社宮司千家家蔵「金輪造営図」に描かれている、三本の円柱を束ねて直径一丈の柱とする形式と一致するとして、同図を当時のものとし、さらに再び新たな十六丈説とその復元案が提案されている。 それに対して、「金輪造営図」の成立年代を室町時代の十四世紀末から十五世紀のものとする意見を提示し、同図が宝治度の本殿に関する情報を含んでいることは認め、発掘遺構と合わせて、現本殿とあまり変わらない高さ八丈の宝治度本殿復元案を提示する。

2.厳島神社の廻廊に関する考察

広島大学 山口 佳巳

 厳島神社の廻廊に関する先行研究では、史料批判を怠り、厳島文書や『一遍上人絵伝』に記載された社殿が仁治二年(一二四一)再建時にそのまま存在し、廻廊の規模は現状とは大きく相違して、本社祓殿前の高舞台を取り囲む形式であったとしている。 本研究では、厳島文書等の検証を詳しく行い、仁安造営以来の廻廊の規模、位置等を再検討する。文書には廻廊を百八十間とする誤りがあり、『一遍上人絵伝』は実際に社殿を見て描いたとは到底考えられない。廻廊は、付属社殿の廃絶のため、十間程度東端部を切り縮められた以外は、規模は大きくは変化しておらず、折れ曲がりの位置等も現在に至るまでほとんど変わらずに踏襲していると考えられる。廻廊の当時の入口は、唐破風造である現在の出口(西)側と認識されてきたが、「千僧供養日記」や寝殿造の形態から現在の入口(東)側が元来の入口である可能性が高いと指摘する。

3.厳島神社玉殿の復元考察

広島大学 山田 岳晴

 安芸国の一宮である厳島神社は、その本殿内に玉殿を安置しており、その安置は全国的にも極めて早い仁安三年(一一六八)にまで遡る。また安芸国の主要な神社本殿内を調査した結果、中世玉殿が多く残っており、厳島神社の玉殿は、安芸国の神社本殿における玉殿安置に大きな影響を与えたものと考えられる。厳島神社玉殿の規模形式については、三浦正幸氏の論文(「厳島神社の本殿」建築史学)で示されているが、本研究では、厳島神社外宮である地御前神社の玉殿について学術調査を行い、永禄十二年(一五六九)の「造営材木注文」(厳島文書)および嘉禎三年(一二三七)の「造伊都岐島社内宮御玉殿荘厳調度用途等注進状案」を詳細に検討して、仁治二年(一二四一)再建時の厳島神社内宮玉殿の復元案を初めて提示する。

4.武家故実にみる小袖の着用制に関する考察

広島大学 柳川 真由美

 身に着けるものを規定、あるいは制限することは、着る者の社会的地位を判別する目的で、古くから行われてきたことである。主従関係を基礎に据える以上、武士の社会においても、衣服に実用的な目的に加えて、着る者の社会的地位や年齢等に応じた衣服の着用制が生じたのは必然的なことであると言える。 本研究は、室町時代後期に社会の各階層の中心的衣服となった小袖について、同時期に多数記された武家故実を中心とした文献の記述から、着用者の性質によっていかなる着用制が設けられていたのかを明らかにすることを目的とするものである。また、服飾史における文献資料の価値を見直し、染織、服飾史の分野において言及されることの稀であった諸文献を精読することから、現存する遺品資料との関連性、及び衣服の持つ社会的側面の考察を試みたい。