2004年度 考古部会発表要旨 |
1.広島市・三谷遺跡の発掘調査
(財)広島市文化財団 田村 規充
三谷遺跡は広島市安芸区中野東町に所在する。鉾取山(標高七一一・五m)から西へ派生する尾根筋の中腹、標高九〇~一〇〇m付近に位置し、眼下に瀬野川流域を見渡せる。 調査の結果、弥生時代後期の竪穴住居跡二五軒、掘立柱建物跡群一か所、テラス状遺構一四か所、土坑一〇基を確認した。特に第六号竪穴住居跡は広島湾岸においては最大級の径一〇・五mの多角形の住居跡である。また第七号住居跡は八m×七・五mの隅丸方形の住居跡で、鉄片も含め鉄器五八点、穿孔途中で破損し、廃棄したと考えられる管玉一点が出土している。出土品とその規模から第六・七号住居跡は集落の中心的な建物と考えられる。 その他の住居は径または辺が三~五m前後の規模である。大半の住居跡の主柱は四本以上であるが、その中で二本柱と想定できる住居跡を六軒確認した。また、大量の礫を投入した土坑や四つの粘土塊が出土したテラス状遺構等を確認した。 遺構面で出土した土器から、遺跡の存続時期は弥生時代後期前葉から後葉初頭頃までと想定される。
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2.広島市安芸区・塔之原遺跡の発掘調査
(財)広島県教育事業団埋蔵文化財調査室 岩本 正二
発掘調査(面積六三〇〇平方メートル)は一般国道二号線(安芸バイパス)改築工事に伴って実施した。遺跡は瀬野川周辺に広がる宅地や耕作地から約二〇m上の台地上にあり、弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居跡一七、堀立柱建物跡二、土坑一二、落とし穴三、墓坑一五、性格不明遺構七、その他ピット多数を検出した。住居跡の主柱穴は二本ないし四本で、二本柱の住居跡は小規模のものが、四本柱は大きいものが多い。また、中央部付近に小ピットがあり、ピット近くには焼土が存在している。時期は出土遺物から弥生時代末~古墳時代初頭頃のものである。また、ほぼ同時代と推定できる墓坑が調査区北東代に集中しており、墓域と生活領域の区別がなされていた。これらの墓坑の規模・構造は均一的である。今回の二本柱構造の住居跡が「鉄」と関係するかどうかは不明であるが、広島湾岸や西条盆地の状況とは違った様相を示していると思われる。
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3.東広島市志和町・蛇迫古墳群
(財)東広島市教育文化振興事業団文化財センター 鍜治 益生
蛇迫古墳群は、四基の円墳(直径一〇~一二m)で構成される古墳群である。第一号古墳の主体部は、中央に粘土槨一基、両側に箱式石棺二基である。頭位は東で、副葬品として粘土槨からはヤリガンナ一点、ガラス小玉一点が出土した。第二号古墳の主体部は粘土槨一基である。頭位は東で、粘土槨からはヤリガンナ・刀子などが出土した。第三号古墳の主体部は土壙二基が確認されたが、副葬品は出土していない。第四号古墳は調査範囲が限られていたこともあって、埋葬施設は確認されなかった。本古墳群の埋葬施設は、古墳時代前期・中期の特徴を示している。第一号古墳の墳丘裾から出土した土師器小型丸底壷が四世紀後半から五世紀前半頃の時期と考えられるので、その頃に造られたと推定される。
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3.東広島市志和町・蛇迫古墳群
(財)東広島市教育文化振興事業団文化財センター 鍜治 益生
蛇迫古墳群は、四基の円墳(直径一〇~一二m)で構成される古墳群である。第一号古墳の主体部は、中央に粘土槨一基、両側に箱式石棺二基である。頭位は東で、副葬品として粘土槨からはヤリガンナ一点、ガラス小玉一点が出土した。第二号古墳の主体部は粘土槨一基である。頭位は東で、粘土槨からはヤリガンナ・刀子などが出土した。第三号古墳の主体部は土壙二基が確認されたが、副葬品は出土していない。第四号古墳は調査範囲が限られていたこともあって、埋葬施設は確認されなかった。本古墳群の埋葬施設は、古墳時代前期・中期の特徴を示している。第一号古墳の墳丘裾から出土した土師器小型丸底壷が四世紀後半から五世紀前半頃の時期と考えられるので、その頃に造られたと推定される。
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5.福山市・二子塚古墳発掘調査の概要 福山市教育委員会 畑 信次 二子塚古墳は、福山市駅家町に所在する古墳時代後期の前方後円墳で、広島県東部地域の代表的な古墳として一九四八年(昭和二三年)に県史跡に指定されている。 古墳の規模や内容を確定し、保存対策を講ずるための必要なデータを収集することを目的に、二〇〇二年度(平成一四年度)から、墳丘測量や発掘調査を実施してきた。これまでの三ヵ年の調査で、(1)古墳の範囲 (2)墳丘の規模および内容 (3)古墳の築造方法 (4)前方部と後円部の両方に存在する横穴式石室の規模及び内容 などが明らかになってきている。東に延びる丘陵上に築造されたこの古墳は、盛土用の土砂採取を兼ねた濠設置の前方後円墳で、その規模は、周溝を含む全長七三m、墳丘全長六七m、後円部直径四一m、前方部最大幅二七m、くびれ部幅一九mを測り、県内の横穴式石室を有する前方後円墳のなかでは最大規模を誇る。墳丘は、地山削り出し部分と、盛土部分とからなり、盛土部分は地山を削り出した土と、運んできた性質の異なる三~四種類の土を交互に積み上げた版築状盛土である。その盛土で、石室の周りをまず円墳状に覆う第一次墳丘も確認された。後円部の石室は、花崗岩の巨石で構築された、南に開口する両袖式の石室で、玄室の長さ六・八m、幅二・一m、高さ三・五m、羨道の長さ七・七m、幅一・六~一・八m、高さ二・二~二・六mを測り、玄室長と羨道長を合わせた全長は、県内最長となった。さらに、羨道の南側には、天井石は架からないが、小型の石材を積み上げ側壁とした墓道(前庭)が続くという、県内では例のない施設が付属する。また、玄室内において、竜山石製と考えられる組み合わせ式石棺の一部を検出し、石室内からは、杯・高杯・堤瓶・甕などの須恵器や馬具と思われる鉄製品の一部が出土した。 |