2004年度 西洋史部会発表要旨

1.アレクサンドロス一世の「ギリシア化」政策-ギリシア・エスニシティとの対峙の中で-

広島大学 中嶌 正憲

 古代マケドニアの位置づけをめぐっては、一九世紀から現在に至るまで様々な文脈で論じられてきたが、その論争を要約すると、古代マケドニアがギリシア史の中に位置づけうるか否か、という点に終始していると言わざるを得ない。しかし、現状ではその判別は困難であり、加えて前提としての「ギリシア世界」の位置づけも曖昧である。したがって、古代マケドニアを検討する前提として「ギリシア人」とは何者か、「ギリシア世界」とはいかなるものであったのかという点を問い直す必要性が生じてくるように思われる。以上の点から本報告では、ギリシア・エスニシティとそこから派生する他者認識に着目し、そこからギリシア世界とマケドニアとの関係を解明することを目指す。そしてこの視角から、ギリシア・エスニシティの変容期であり、双方にとって激動の時代であった前五世紀前半のマケドニア王、アレクサンドロス一世 Philhellene の「ギリシア化」政策の持つ意味を再検討したい。

2.M. Aurelius Prosenes の石棺銘文を読む

上智大学 豊田 浩志

 聖都ローマが、いわゆる「フランク人の道」Via Francigena 経由で北方からの巡礼者を迎えるのは、ポポロ門である。この門の城壁外東側にボルゲーゼ公園の緑濃い丘がある。Viale George Washington を選んで公園に入り、ちょっと行くとすぐ左手に小さな池があって、そのほとりにどっしりとした石棺が台座上に置かれている。この石棺、元来は Via Labicana の Torre Nova にあったものだそうだ。正面墓碑銘から石棺の住人は Marcus Aurelius Prosenes、三世紀初頭の皇帝側近の被解放奴隷と知れるが、問題はその右側面の上部縁枠部分に見える銘文で、そこの一節「Prosenes receptvs ad devm」をもって、彼はキリスト教徒だったと想定されてきた。本発表では、現地銘文調査を踏まえて、この人物を通して時代背景の考察をおこないたい。

3.カルチュレール編纂にみる十一・十二世紀の文書使用-サン・シプリアン修道院の場合-

大阪大学 松尾 佳代子

 「紀元千年の変革」という学説を支持し、封建社会成立期における政治的・経済的・社会的な構造変化の整合性を追究してきたフランス中世史において、近年、十一・十二世紀の文化の再評価が問題になっている。というのは、この時期の記述史料の数量的な減少や証書書式の衰退を根拠に唱えられてきた「十一世紀の文書史料の危機」に対し、「文書史料の多様化・一般化」が主張されるようになったためである。本報告ではこの動きを受けて、十一世紀末からベネディクト系修道院でみられたカルチュレール編纂作業の活発化を手がかりに、十一・十二世紀フランスにおける文書史料への関心・記述文化の影響力を再考する。具体的には、ポワトゥ地方のサン・シプリアン修道院において十二世紀初頭に編纂されたカルチュレールを、まず古文書学的見地から次いでそのテクスト解釈を通じて分析し、カルチュレールの作成状況を詳細に検討する。

4.中世南フランス都市における法的行為と文書

京都大学 図師 宣忠

 いわゆる成文法地域とされる中世南フランス社会において、法的行為はいかにして文字化され、それを記した文書はその後どのように利用されることになったのであろうか。本報告では、欧米において近年とくに関心を集めている史料論にも目を配りながら、南フランス社会が新たにフランス王権の統治システムに組み込まれる十三世紀に注目する。まず、王権進出前の十三世紀初頭の都市トゥールーズにおけるカルチュレール作成の動機・目的を探り、当時の都市を取り巻く社会状況、都市民の文字・文書に対する姿勢や過去の記憶の取り扱いなどについて検討する。こうした南フランス都市民の文書への姿勢をふまえた上で、次いで、王権による権力の再統合の過程において南フランス都市が果たした役割について、統治・権力・文書といった観点から探っていきたい。

5.ウィリアム・ランバードの'country'

慶應義塾大学 清水 祐司

 「州共同体」を内乱解釈の中心に据えたアラン・エヴァリットの『ケント共同体と大反乱、一六四〇年―六〇年』が一九六六年に刊行された。現代国家における中央・地方関係の類推にもとづいて地方を眺める傾向が支配的であった当時においては、これは瞠目に値する新鮮なアプローチであった。その結果、近代前期の地方統治を研究対象とする者は、いわゆる「州共同体学派」の研究成果を多かれ少なかれ念頭に置かざるを得なくなった。しかし、ほぼ一九八〇年ころから、分析枠としての「州共同体」(特に「ジェントリ州共同体」)の有効性が再検討されつつある。本発表は、エリザベス治下ケントのウィリアム・ランバードを多角的な視点から分析することで、この問題をより厳密に考察するためのささやかな手掛かりを得ようとするものである。

6.内乱以前期における大西洋貿易とロンドン商人の動向-マサチューセッツ湾会社の分析を中心として-

広島大学 河田 修

「内乱」直前の十七世紀前半、イングランドでは新大陸貿易が展開し始めた。北米、カリブ海域へと進展した一連の植民地事業は、ロンドン内で活動する国内の新興貿易商人によって推進された。一六二九年に設立されたマサチューセッツ湾会社も彼らによる事業の一つであり、同植民地は十七世紀後半になると大西洋三角貿易の一角を占め、「商業革命」の一翼を担うこととなる。また一方で、同社は商業的事業だけでなく、当時本国で抑圧されていたピューリタンたちに「迫害からの避難所」を提供するという宗教的事業としての側面も有していた。本発表では、同社の形成・発展の過程、その中での貿易商人たちの活動、また本国のロンドン社会における彼らの政治的経済的活動をプロソポグラフィカルに検証する。これらの検討を通じて、「内乱」期のロンドンにおいて、彼らの果たした政治的、宗教的、社会的意義を多角的に再検証し、彼らの「内乱」へと果たした役割を示唆したい。

7.ブルガリア・テスニャーツィの再評価にむけて-一九一七年一一月~一九一九年五月-

九州大学 岡部 直樹

 従来ブルガリア・テスニャーツィはロシア一〇月革命後の世界革命の可能性を秘めた状況下にボリシェヴィキとの高い親近性を指摘されてきた。本発表では題目に掲げた時期にテスニャーツィが展開した反体制運動の実態を把握し、運動の到達点と意義を検討する。その際、ブルガリア軍による調査報告やテスニャーツィによる諸アピールを中心に分析を行い以下のことを解明した。テスニャーツィはロシアに連動する可能性を政府側に警戒されたが、実際は平時法秩序の復活や社会改良的施策実現を要求する議会活動も含む合法闘争や、プロパガンダによる反政府世論喚起に運動の力点をおいた。テスニャーツィは民心把握によって運動の基礎を固め将来に備える戦略を採用したのであり、その成果は戦後初の選挙における第二党への躍進として現れた。かかる運動方針の展望にはボリシェヴィキの影響にも比肩する西欧左派からの影響下に培われた国際主義的思考が関わっていた。

8.第二次世界大戦期のカトリックとナチズム

広島大学 原 一成

 教皇庁は、第二次世界大戦前、戦争回避のためにヨーロッパ列強との交渉を行い、戦争が勃発すると難民救援活動などの人道支援を行った。しかしその一方で、政治活動の面ですでに残虐性を垣間見せていたナチスと政教条約を締結し、戦時中には、ホロコーストの事実を把握しながらも積極的な抗議活動を行わなかった事実がある。このような対応が、ナチスに宥和的であるとして近年、批判されているが、宥和的態度に焦点を当てるだけではこの時代の教皇庁の全体像は明らかにされ得ない。 また、ドイツ国内のカトリックに目線を下ろす時、行動面で積極的といってよい反ナチズムの動きを摘出することができ、それに対して教皇は賛辞を送っていることからも、事象の解明には、「立体的・複眼的」な視点に立つ必要があろう。本発表は、この考えに基づき、教皇庁、ドイツ国内教会、ナチズムの三者間に見られる態度の論証を試みるものである。

 

9.ドイツ第三帝国下の「ユダヤ人キリスト教徒」に関する事例研究

広島大学 長田 浩彰 

 第三帝国下でのユダヤ人迫害に関しては、これまでにも数々の研究が現れている。しかし、そこで「ユダヤ人」とされた人には、ユダヤ人であるという自己認識を有していなかった人びとも含まれていた。受洗してユダヤ共同体から離れていた人びとや、生まれながらのキリスト教徒であっても、ユダヤ教徒の祖父母を有していた人びとである。ナチスは、ユダヤ人を人種的に規定しようと試みたことから、彼らは「ユダヤ人」とされたのである。彼らの一部は、「パウロ同盟」という名称の自助組織を当局の監視のもとに設立し、何とかドイツ民族共同体への復帰を模索する。当局の側は、ユダヤ教徒ではない「非アーリア人」を把握する手段として、この組織を利用しようとした。本報告では、この組織のシュトゥットガルト支部を率いたエルヴィン・ゴルトマンに着目し、彼の心性を残された主張やメモ、戦後の非ナチ化裁判記録などから探っていく。