2005年度 民俗・文化財部会発表要旨

1.厳島神社の楽屋に関する考察

広島大学 山口 佳巳

 厳島神社の付属社殿の一である楽屋(現在の楽房)は、仁安三年(1168)頃の平清盛創建時にはまだ建てられていなかった。しかし、千僧供養に必要であったため、安元二年(1176)までに新造された。この時はまだ幄舎であり、仮設的なものであった。そして、仁治二年(1241)までに常設の楽屋となり、後に現在のような形式となったと考えられる。本研究では、常設となった仁治度における楽屋の復元案を提示し、考察を加える。また、それをもとに厳島神社における楽屋の構造変遷を指摘する。まず、仁治度の造営計画を記した暦仁二年(1239)の「伊都岐島社未造分屋材木等注進状」(新出厳島文書一二三)から復元される楽屋は、先行研究の福山敏男博士が指摘したこと以外に、平舞台上に井桁を組み、その上に建てる構造となっていることが判明した。この平舞台の上に楽屋を載せる形式は、安元以来の幄舎であったものの名残であると考えられる。そして、仁治度の楽屋は、後に礎石上に建つようになる過渡的段階を示すものと言える。

2.広島県安芸高田市の清神社玉殿の考察

国立歴史民俗博物館 山田 岳晴

広島県安芸高田市吉田町(旧高田郡吉田町)吉田に鎮座する清(すが)神社は、本殿内に現在十二基の玉殿(神体を奉安する小建築)を安置しており、中世の玉殿が複数存在することを確認している(三浦正幸氏によって公表。『吉田町の社寺建築』吉田町教育委員会)。今回、詳細調査を行ったので、これら玉殿の調査の結果を報告し、清神社の中世の玉殿について考察を加えることにする。清神社の玉殿のうち二基については、十六世紀後期造立で一間社切妻造であり、屋根は流柿葺としている。柱はすべて面取を施した角柱とし、見世棚造としないなど、前回復元した仁治二年(一二四一)再建時の厳島神社内宮玉殿と同様の意匠を示しており、古式を残しているものであると考えられる。また、中世の玉殿に特有の屋根葺の技法や一木造出の技法を用い、当時の玉殿の特徴を有するなど、安芸国の玉殿の変化や発展を示す例であって、貴重な遺構であることを指摘する。

3.安土城伝本丸御殿について

広島大学 佐藤 大規

近年、安土城では発掘調査が行われ、『近江国蒲生郡安土古城図(貞享古図)』によると本丸と伝えられる場所で、ほぼ碁盤目状に礎石が発見された。藤村泉氏は礎石の配列状況と、「御幸の御間」(『信長公記』)という記述から、天正度内裏清涼殿との類似性を指摘し、それをほぼ左右逆にした復元案を提示している。しかし、藤村氏の復元案では、本丸の東側で発見された便所の手水鉢と考えられる遺物が、復元に反映されていないなど疑問点が少なくない。そこで本研究では、藤村氏復元案の疑問点を幾つか挙げた上で、発見された礎石や遺物、『信長公記』の記述、またほぼ同時代の武家殿舎である東山殿会所・三好亭・豊臣大坂城本丸御殿などをもとに伝本丸御殿の概要を考察し、殿舎の構成や主座敷の位置などを示すことにする。また、天主や伝三の丸御殿との関連についても指摘する。

4.出雲大社本殿の構造と意匠の成立について

広島大学 三浦 正幸 

延享元年(一七四四)造替になる現在の出雲大社本殿の構造や意匠は、その前回の寛文七年(一六六七)造替時に、幕府の御大工頭によって復元設計されたものである。それ以前にあった、豊臣秀頼が慶長十四年(一六〇九)に造替した本殿は、柱が総漆塗で、柱上に出組を置き、妻壁に龍の彫刻を施す華美な意匠であったが、高さが六丈五尺四寸しかなく、八丈の正殿式でないこと、彩色や組物は仏式であることを理由に、寛文度造替の際に、現在のような白木造で組物のない意匠に復古された。その過程は、社家の日記から詳細に知ることができる。僧職の本願と社家との確執を一つの原因として、仏教色排除がなされたとされてきた寛文度造替は、実際には高さ八丈に復することが当初の目的であって、経済上の理由で、慶長度本殿と同等の細部意匠と装飾を加えることができず、仏教色排除を口実に復古形式となったことを示したい。