2005年度 考古部会発表要旨

1.三次盆地の旧石器文化 -流紋岩製石器を考える-

広島県立歴史民俗資料館 三枝 健二

 三次盆地は広島県北部の江の川中流域にあり,馬洗川や西城川などの河川が合流,周辺には大きく三面に分類されている河成段丘が形成されている。これらの段丘上には第三紀堆積物上に火山性の堆積層が発達しており,多くの後期旧石器時代遺物が確認されている。 石器群は流紋岩系を主体とする石器群と,安山岩類を用いた瀬戸内系などの石器群に分かれ,前者は下本谷遺跡の調査により,姶良丹沢降下火山灰層準以前に位置づけられている。ここでは,段丘と遺跡立地,石器包含土層の整理,石材の選択などを通して,これら在地色の強い流紋岩系について考える。

2.二〇〇五年度帝釈峡遺跡群の発掘調査概要報告

広島大学文学研究科 加藤 徹・古瀬 清秀・竹広 文明・野島 永

 本年八~九月の帝釈峡遺跡群における発掘調査の概要報告を行う。今年は、久代東山岩陰遺跡と帝釈大風呂洞窟遺跡の2遺跡の調査を行う予定である。久代東山岩陰遺跡は、本年度で第23次の調査となる。昨年度、生活域の南限を明らかにするためにJ区の調査を行ったが、遺物はほとんど出土しなかったため、J区は生活域の外に位置していると考えられたので、本年度は北側のI区とともにE・F区の調査を行い、生活域の広がりとその南限の確認を行う予定である。一方の帝釈大風呂洞窟遺跡は、本年度で第10次の調査となる。本年度は、昨年度に引き続きD・E・F区の古代・中世の層を調査し、中世段階での当遺跡の利用状況を明らかにするとともに、昨年度D区の第2層下部で検出した古代の面をE・F区で確認し、古代における利用状況を明らかにしたい。そして、縄文時代層の調査に移行していきたい。

3.曽川遺跡1号遺跡の発掘調査

(財)広島県教育事業団・埋蔵文化財調査室 山田 繁樹

 曽川一号遺跡は尾道市御調町大町に所在し,町内を南西から北東に流れる芦田川の支流である御調川の南側,背後の丘陵裾から北に延びる低丘陵上に立地している。遺跡から御調川を挟んで北西側の山裾には特殊器台が出土した貝ヶ原遺跡がある。調査は中国横断道尾道松江線の建設工事に伴もので,主に縄文時代後期から中世の遺構・遺物が出土している。弥生後期?古墳時代の遺構が中心となり竪穴住居跡・掘立柱建物跡・土器溜土坑を確認している。住居跡はいわゆる松菊里式住居に類似する住居構造のものや拡張繰り返したものがみられる。遺物では在地の土器のほかに吉備や山陰からの搬入品とみられる土器が出土しており,地域間の交流を窺うことができる。発掘調査は曽川1号遺跡全体の1/3程度(約七.八〇〇〇平方メートル)に及んでおり,調査予定地の成果と今後の整理作業により集落の様相が明らかになると思われる。

4.広島県南部における弥生土器についての一考察 -属性分析を通して-

(財)東広島市教育文化振興事業団・文化財センター 木谷 麻衣子

 弥生土器研究は多くの研究者によって成果があげられており、特に各地域における編年研究においては詳細な研究が行われている。しかし、弥生時代中期後半から後期前半を中心とした研究については、いまだ研究の余地がある。そこで、自分のフィールドである広島県、島根県地域における、第IV様式後半から第V様式前半を中心とした時期の土器群を対象とし、口縁部の形態的分類と地域性の抽出を行った。まず口縁部の形態を5分類した。そして分類にもとづいて広島県、島根県地域における分布を調べた。結果、出雲平野・意宇平野、江の川流域、広島平野・西条盆地の3地域に分けられ、口縁部形態の分布から差異があることが判った。また口縁部形態の前後関係を、実際の遺構における出土例から検討した結果、口縁部変化の方向性があることが判った。さらに一括資料を検討した結果、それぞれ口縁部形態が独立した時期として捉えることができる可能性が指摘できる。その上で松本編年、伊藤編年、妹尾編年の時期にそれぞれ対応し、編年案を示した。従って口縁部形態の分布に地域性がいえること、そして編年に細分の可能性が考えられることが判った。

5.東広島市内出土の埴輪の研究

広島大学文学研究科 打田 知之

 広島県内、特に安芸地域の埴輪についての研究は、発掘調査された例も少ないため情報量が乏しいといえる。そこで今回の発表では、安芸地域の中でも埴輪を有する古墳が集中する東広島市内出土の埴輪についてその諸特徴と変遷を追っていきたい。東広島市内で埴輪が出土した古墳は、白鳥神社古墳、スクモ塚第1号古墳、三ツ城古墳、大槙第1号古墳、浄福寺古墳がある。これらの古墳の埴輪については、三ツ城古墳と大槙第1号古墳に関してはある程度の報告があるものの、その他の古墳については現在のところ言及されていないのが現状である。特に三ツ城古墳の埴輪に関して言えば、器財埴輪など多用にわたる種類の埴輪が存在しているにも関わらず、その諸問題に触れられていない。また器財埴輪のみでなく円筒埴輪においても多様なバリエーションが存在し、これは埴輪製作工人のグループを考える絶好の資料と考えている。以上の様な視点を今回の発表のテーマとし、広島県内における埴輪研究の第一歩としたい。

6.尾市第1号古墳発掘調査 

福山市教育委員会 内田 実 

 尾市第1号古墳は福山市新市町常に所在し,三方向に配置された石槨と羡道を含めた平面形が十字型であることから,古くから注目された古墳である。石材には花崗岩切石が用いられ,表面は平滑に仕上げられている。各壁と天井,床の接合部に漆喰が詰められているほか,側石の窪んだ部分にも漆喰が残存しており,壁面にも漆喰が塗られていたと考えられる。一九八四年の発掘調査では,石列の配置から多角形を指向した墳形であるとされ,出土した須恵器破片から7世紀第3四半期の所産であると推定された。二〇〇二年度から,国庫補助を得て範囲確認のための発掘調査を実施しており,墳丘の前面に広がる盛土を確認した。一部では盛土が2段に及ぶことを確認しているものの,全体の範囲についてはなお検討を要する。今年度も範囲を拡大して調査を継続し,保存措置を講ずる範囲を確定する予定である。

7.府中市・備後国府跡の発掘調査

府中市教育委員会 道田 賢志

 府中市における備後国府跡の発掘調査は、昭和五七年に県教育委員会によって開始された。以降一〇年間にわたる確認調査の結果、西は出口町から東は鵜飼町までの市街地の中でも北側の山裾一体に国府関連の遺構・遺物が集中することがおおまかに把握されることとなった。その後調査は府中市が引き継ぎ、現在までに元町地区を中心に確認調査が実施され、ツジ遺跡・金龍寺東遺跡・砂山遺跡などの重要な遺跡が確認されている。近年は都市計画道路の見直しも絡んで、特に元町地区を南北に流れる砂川(音無川)の東側に展開するツジ遺跡において集中的に調査を進めている。ツジ遺跡ではこれまでに多くの掘立柱建物跡が確認されている。東西南北の方位に合わせて計画的に建設され、数度の立替えが行われていたようである。特筆すべき出土遺物としては、円面硯・風字硯や石帯のほか緑釉陶器が挙げられる。特に緑釉陶器の出土量は県内でも極めて多いものとなっており、遺跡の性格を反映したものと考えられ、国司の館などが想定されている。しかし国府中心施設である国庁部分については現在未確定であり、今後の調査の課題となっている。

8.日本中世における滑石製石鍋の消費

広島県立歴史博物館 鈴木 康之

 滑石製の石鍋は、日本中世、特にその前期に用いられた煮炊具の一つである。九州北部から瀬戸内西部にかけていくつかの生産地が確認されているが、大部分は長崎県西彼杵半島一帯で生産され、西日本を中心に、一部は鎌倉など東日本にも流通したものと考えられる。一一世紀頃から生産が開始され、一三世紀後半から一四世紀前半にかけては出土量がピークを迎えるが、その後は激減する。鉄鍋・土鍋など、類似する機能をもつ製品が存在するにもかかわらず、なぜ中世前期に石鍋が大量に流通したのかは明らかになっていない。ここでは、消費地における石鍋の出土状況や文献に記された例などを参考に、石鍋に与えられた意味を検討し、日本中世において石鍋の果たした役割を考えてみたい。

 9.福成寺旧境内遺跡(平成一六年度)の概要 

(財)東広島市教育文化振興事業団・文化財センター 唐津 彰治

 福成寺は東広島市西条町下三永字福成寺に所在する。真言宗の古刹で、鎌倉から室町時代にかけて最も盛え、数多くの堂塔が建立されるとともに、境内地には多くの坊院が形成された。福成寺旧境内遺跡は平成九年にも現山門南西側で発掘調査が行われ、石垣・基壇状遺構などが検出されている。今回の発掘調査は、平成一七年二月から三月にかけて行ったものである。調査区は3箇所に分かれているが、いずれも本堂から南西方向へ入った山林にあたり、標高は約四九〇mである。丘陵の斜面部分を段上に造成した部分(第2・3調査区)と、窪地状の平坦面(第1・2調査区)を調査し、掘立柱建物跡五軒と溝状遺構一条、火を受けた土坑3基、その他の土坑一基のほか、多数のピット群を検出した。出土遺物は土師質土器、備前焼、青磁、鉄釘、石鍋、鉄滓などがある。今回の調査では境内地の斜面を造成し、坊院を形成している様子を考古学的に明らかにするなど、貴重な成果が得られた。

10.広島城武家屋敷の発掘調査について 

(財)広島市文化財団文化財課 福原 茂樹

 同調査は国土交通省太田川河川事務所の建て替えに伴い平成一四年七月から平成一五年一月、約一〇〇〇平方メートルについて行った。同地点は広島城跡の南東部、城外から外堀を渡り京口門を入った辺りに位置する。京口門という要衝に近いためか、絵図等によれば築城当初から屋敷割は広く、大身の家臣が居住していた。遺構は廃棄土坑、建物跡、屋敷境と思われる石組みの溝跡、地下室、井戸、埋め甕などが出土した。また、埋め桶の上部に平瓦を立て並べた胞衣を埋納したと思われる遺構も3か所出土しており注目される。遺物は陶磁器、土師質瓦質土器、瓦、木製品などが出土した。特に瓦は、金箔を施したコビキAの松皮菱紋軒丸瓦、これとセットになる桐紋軒平瓦、「王」字紋軒丸瓦など、これまで出土例の少なかった築城当初のものが大量に出土した。さらに調査区の東端部では緩やかに下る自然地形と思われる窪みの一部を確認し、築城当初の城内の状況を考える上で興味深い。