2005年度 日本史部会発表要旨

1.雪舟・狩野永徳と豊後大友氏 -絵師からみた「大友文化」-

新居浜工業高専 鹿毛 敏夫

千利休の弟子・山上宗二の茶書に『山上宗二記』がある。その内容は、唐物骨董の名物茶道具目録と言えるものであり、それらの所有者としては、足利義政、豊臣秀吉等の中央政権の将軍や大名、畿内豪商たちに交じって、玉澗の絵画「山市晴嵐」や牧谿の絵画「魚夫」、茶入の「瓢箪」、そして「安井茶碗」等を有する「豊後ノ太守」が記録されている。『山上宗二記』が著された天正年間(一五七三~九二年)の「豊後ノ太守」とは、豊後に本拠を置く戦国大名・大友義鎮(宗麟)のことである。実際、これらの絵画が飾られ、茶器が使用されたのは、豊後府内の大友館であると推測されるが、その絵画や茶器は果たしてどのような意匠の作品であったのであろうか。また、中世の各時期に活動した絵師たちと大名権力はいかなる関係を結んでいたのであろうか。数少ない史料を丹念に探していきながら、これまで明らかにされてこなかった中世「大友文化」の芸術的諸相を明らかにするとともに、当該地域社会の文化的アイデンティティの特質を導き出したい。

2.日御崎社検校御崎氏と宇龍浦 -日本海交流圏の広がりと在地勢力-

九州大学 岩成 俊策

島根半島の西端に位置する宇龍浦は、船着場に適した水深と、天然の防波堤である権現島とを有する良港であるが、現在は地元漁船が往来する閑静な漁港である。しかし、十六世紀中盤に遡れば、この港は全く違った相貌を有していた。すなわち、北東からは因州、丹州船、北国船、西からは「唐船」までもが頻繁に来航する稀有の交易拠点としての性格を有していたのである。この現象について従来の研究では、主に戦国大名・尼子氏の流通支配の視点から研究を進めてきた。要因としては、それを示す史料(日御碕神社文書、小野家文書)が、尼子氏側の発給したものであることが挙げられる。しかし、これらの史料を再読していくと、受給者である日御崎社のトップ・検校御崎氏の活動の重要性や、その活動が時には尼子氏の流通政策と鋭く対立する側面も持っていたことなどが浮き彫りになる。本報告では、このように在地に根付く勢力・御崎氏の宇龍浦における機能を究明することで、日本海交流圏の広がりが交易の現場たる港湾に与えた影響を探っていく。

3.戦国期毛利氏の周防国玖珂郡支配

山口県史編纂室 中司 健一

戦国期の大名権力がどのように地域支配を行っていたのかは、その権力の性格を考える上で重要な論点である。そして、戦国期の毛利氏の地域支配に関する研究はすでに多くの成果を上げている。その結果、一口に毛利氏領国と言っても、毛利氏領国となった経緯などにより、その支配は非常に不均質なものであったことが明らかにされてきた。本報告も同様の視点にたつものであるが、より個別詳細に各地域支配を見ていくことで、毛利氏の地域支配の実態をより明らかにしていきたい。対象とする地域は周防国玖珂郡である。同郡は、防長両国の中でも毛利氏の本拠地安芸国に最も近く、そして毛利氏と大内氏・陶氏の合戦が最も激しかった地域である。そのことが毛利氏の同郡支配にどのような影響を与えたのか、また毛利氏にとって同郡がどのような位置を占めていたのかを考えたい。

4.芸備地域における福島氏の対村落政策

広島大学 吉田 守

まず、近世初頭の村落社会を考察の対象とする場合、中世後期を通して在地に強い影響力を持つに至った村落有力者の存在をその中心に置かなければならない。この前提をふまえて、福島氏の対村落政策の指向性をさぐり、最終的には小農自立政策の有無について言及したい。福島氏は、慶長六(一六〇一)年の検地によって在地把握を深化させるとともに、なしくずし的に村落有力者層の権益を制限し、一部を公収した。また、同時に村請制の整備も図り、村落有力者層を庄屋・年寄(後に組頭)に位置づけていった。その一方で、成長を遂げてきた小農層を名請させることによって、小農層の自立を促成し、村落内での、村落有力者層の影響力を減少させようとした。つまり、福島氏の対村落政策は、村落有力者層の影響力を減少させることに主眼を置いたものであった言える。小農自立政策は、それを第一義的に進められた政策ではなく、村落有力者の影響力を減少させる政策の一部であったと考えられる。

5.近世後期の農村における結婚と婿養子

広島大学 加納 亜由子

本報告では、近世後期の婿養子を取り巻く問題を取り上げる。対象とする地域は、越後国頸城郡長岡村(現在の上越市長岡)である。長岡村は米単作地帯である頸城平野の中心部に位置する、家数三〇軒弱、人数一〇〇人程度の小さな農村である。当村には、安永二(一七七三)年から慶応三(一八六七)年までの九五年間の内八九年分の宗門人別改帳が現存する。約百年の期間にわたって、ほぼ毎年の宗門人別改帳が現存するというのは非常に稀であり、正確な家族復元が期待でき、時期的な変化が追える点でも貴重な事例である。女性にとって結婚が地位の変化を意味することは多くの先行研究で指摘されているが、男性にとっての結婚の意味は明らかにされていない。そこで、本報告では、婿養子を迎えるまでとその後の経緯に注目することにより、長男、二男や三男、女子それぞれにとっての結婚の意味を考えてみたい。

6.近世公用交通を支える情報機能についての一考察 -情報の共有を巡る問題を中心に-

広島大学 鴨頭 俊宏

近世公用交通に関わる情報を巡っては、これまで、主として二つの視点で解明が取り組まれてきた。その第一は、先触や公儀浦触など、前もって通行予定の交通路に宛てて発給される触の伝達及びそのルートについて、つまり、触を通じた上意下達の一環としての視点である。第二は、一つの宿あるいは藩が通行情報をいかに入手・確保し、補助・接待の準備に繋げるのかについて、つまり、「馳走」を達成するための手段としての視点である。以上を踏まえて、では結局の所、一つの交通路全体においてどのような情報ネットワークが形成されていたのかとなると、十分踏み込まれていないのが実情である。本報告では、この大きな研究課題を解明するための一段階として、国・藩の垣根を越えた通行情報の共有の実態に注目し考察する。なお、今回は東海道と瀬戸内海の比較に基づいて考察を試みることとする。

7.幕長戦争の展開過程

広島大学 三宅 紹宣

幕長戦争は、幕府が敗退したことにより、その権威を失墜し、やがて、討幕運動が実施されていくという点で、幕末史の上で画期的意義をもつ。しかるに、その実証的研究は意外と進んでいない。この原因は、対戦した幕府および諸藩の史料が、敗戦した負の歴史として積極的には残されておらず、しかも全国的に分散していることによって、研究が困難であったことにある。報告では、これら諸藩の史料について全国的な調査を行い、可能な限り収集につとめ、長州藩側の史料と突きあわせることによって、戦闘の展開状況の客観的把握を目指したい。そのうえで、長州藩藩庁政事堂の内部の政策決定過程および指揮命令系統の特質について中心的に分析し、総合的解明を行いたい。

(参考文献) 三宅紹宣「長州戦争と明治維新」(『山口県史研究』一二、二〇〇四年)、同「幕長戦争における良城隊の戦闘状況」(『山口県地方史研究』八六、二〇〇一年)。

  8.占領期における司法行政問題と地方軍政部

広島大学 高木 泰伸

近年の占領史研究の課題として地域における歴史像の構築があげられる。占領政策の執行過程の分析、地方住民と占領軍が直接対峙していた地方軍政の研究が注目を集めているのである。これまでに、中高等学校再編問題の実施過程・教育委員公選制などに注目した研究が一定の成果を修めており、また共同研究プロジェクトも実施されている。しかし、占領期の地方における諸問題については明らかになっていない部分が多く、その実態研究の蓄積が必要である。また、地方占領の実態を明らかにする上では地方軍政部の動向の解明が必要である。そこで本報告では、司法行政問題、とりわけ治安対策の実施過程に注目する。すなわち、治安維持に占領当局がいかにかかわったのか、日本側警察とはどのような関係を持っておいたのか、またそれはどのように変化したのかという問題点を設定し、これに答えることで地方軍政の諸相を明らかにする。