2006年度 文化財部会発表要旨 |
1.豊臣大坂城天守の復元的研究
広島大学 佐藤 大規
秀吉が築いた大坂城天守については、これまで、古川重春氏と宮上茂隆氏によって復元案が提示されている。両氏とも「大坂夏の陣図屏風」を復元の根拠にしたものであった。ところで報告者は、日本建築学会大会(二〇〇六年度)において豊臣大坂城天守を描いた屏風について検討を行い、その結果「大坂夏の陣図屏風」が絵師の記憶や伝聞などによって描かれた可能性を示し、これまであまり触れられることのなかった「大坂城図屏風」に描かれた天守が、最も豊臣大坂城天守に近いものであるという発表をすでに行っている。本発表では、古川・宮上両氏の復元案の建築学的問題点を指摘し、「大坂夏の陣図屏風」を根拠とした復元案が成立しないことを再度述べた上で、「大坂城図屏風」に基づいた豊臣大坂城天守の復元案を提示する。その上で、安土城天主や岡山城、広島城天守などと比較を行い、屋根形式などの特色を述べることにしたい。
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2.寛文度津城丑寅櫓の復元的研究
広島大学 松島 悠
丑寅櫓は津城本丸の東北隅に位置した層塔型三重櫓である。慶長年間の藤堂高虎による津城改修の際の創建であり、寛文年間に火災で焼失した後に再建され、以降明治初期に破却されるまで、天守に代わる津城のシンボル的存在であった。寛文度の丑寅櫓に関しては、三重県所蔵の古指図をはじめ、文献、古絵図、古写真などより、その概要を窺い知ることができ、ここではそれらを用いて復元案を提示する。平面規模は初重五間四方の標準的な三重櫓であるが、各階の逓減を武者走りのみで処理することによって柱位置を一致させた完成期の層塔型であると同時に、特殊な柱割を用いて構造の合理化を図っている点が特徴的である。また狭間などの防御装置が形骸化している一方、外観は長押形を見せるなどの装飾性を重視した点が指摘でき、実用よりも見栄えを重視しているという点において泰平の時代を反映するものであり、城郭建築の変遷を論ずるうえで意義深い存在である。
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3.神社本殿形式の分類と起源に対する再検討
広島大学 三浦 正幸
神社本殿形式は、主として屋根形式により、神明造・大社造・流造・春日造・両流造・日吉造・入母屋造・切妻造などに単純画一的に分類されている。したがって、平面や構造といった本質的な差異が無視されており、とくに両流造・入母屋造・切妻造において混沌としている。その一方、本殿の起源を考究した分類として、心御柱を持つ形式(神明造・大社造)と土台を持つ形式(流造・春日造)に分ける稲垣栄三博士の指摘が学際的に支持されているが、大社造の心御柱を神聖視すること、土台を持つことが御輿を起源とするものであると考えられていることには賛同できない。本研究では、神の専用住居としての本殿(神明造・流造・春日造)、人の入る建物の中に神の専用空間である内殿を安置した本殿(大社造・厳島神社)、神宝庫の本殿化(諏訪大社)などの存在を指摘し、本殿形式の分類の再検討を提示する。
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4.仁安度厳島神社社殿配置に関する考察
広島大学 山口 佳巳
仁安造営時における厳島神社の社殿配置は、史料が少ないため明らかにされてこなかった。ただ、福山敏男博士は、安元二年(一一七六)に行われた千僧供養の行道により、その社殿配置の大体は知られるとするが、それを具体的に言及していない。本研究は、福山博士の意見を再検討し、安元二年の「伊都岐島社千僧供養日記」に記された行道の順路を辿ることにより、その順路にある社殿の位置を可能な限り特定するものである。仁安三年(一一六八)の「伊都岐島社神主佐伯景弘解」と併せて考察した仁安度の社殿配置の復元案を提示し、現在の社殿配置が、仁安造営時のものを踏襲している可能性が高いことを指摘したい。また、仁安度の復元社殿配置から、厳島神社の社殿が当時の京における寝殿造邸宅や浄土教寺院の配置に大きく影響を受けていることに関しても言及したい。
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5.中世神社玉殿における一木造出に関する考察
国立歴史民俗博物館 山田 岳晴
安芸国(広島県西部)に現存する三十四基の中世玉殿は、造立当初の部材をほぼ完存している。それらのなかには、複数の部材を一木から造り出す(以下、一木造出と記す)例が多く見出され、安芸国では中世玉殿だけに特有で特別な技法であることが判明した。そこで本考察では中世玉殿の一木造出の詳細について報告し、その特色や意義などについて考察を加えることにする。安芸国における中世玉殿の一木造出は、様々な部材の組み合わせで広範囲に行われている。また、十四世紀前期の現存最古級の玉殿から十六世紀後期まで、中世を通じて広汎に見られる。そうした玉殿の一木造出は、精巧に造り上げる上での部材の脱落や欠損を防止する目的によるものであると考えられる。その建築手法は一般的な社寺建築とは異なり、玉殿という小建築独自のものであって、重要な資料であることを指摘する。
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6.慶長度方広寺大仏殿復元史料の検討
広島大学 井上 孝矩
慶長十七年(一六一二)に豊臣秀頼によって造営された慶長度方広寺大仏殿の史料とされるものは、文献及び指図を合わせ十四点あるが、これまで言及されたことのない史料を加えると二十点にのぼる。また史料同士の相違点を比較検討し、建築学的な妥当性について詳細に考察した研究はない。従来、幕府京都御大工頭であった中井家に伝わる「方広寺大仏殿諸建物并三十三間堂建地割図」が慶長度方広寺大仏殿の正確な史料と評価されてきた。しかし、その指図は現実性に乏しい建築構造と年代の下降する細部意匠が指摘でき、その真偽には大いに疑問がもたれる。そこで、本発表では史料の内容を詳細に比較検討した結果、東京国立博物館蔵の「諸堂図」に収められている「洛陽大仏殿」こそが真の慶長度方広寺大仏殿の指図であることを提示し、大仏殿の復元史料としての価値を明確にする。
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7.家相図の定義とその性格
広島大学 川后 のぞみ
家相判断をした際に描かれた図面を、一般に家相図と呼ぶ。家相図は古民家復元の一史料として用いられることが多いが、家相図を対象とした学術的な研究はほとんど為されていない。本発表では、従来明確にされていなかった家相図の定義を、家相説に基づいて建造物の吉凶判断を行い、その結果を示すために描かれる、方位を伴った指図であるとする。そして現存する家相図について、描かれている対象や記されている文字、彩色か白描か、また書込か貼紙かといった表現方法などを分析して、家相図の実態と多様性を示す。家相図の絵図としての表現や記述内容には類型が見られ、時代が下るにつれて整然とした、鑑賞に堪えうるものとなる傾向が認められる。その背景には、吉凶判断やそれに基づく増改築案を教え示す実用的な絵図面から、絵図自体を見せる絵図面へといった、家相図の意味づけの変化が窺われる。
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8.肩衣袴の形式昇格に関する考察
広島大学 柳川 真由美
近世における最も基本的な礼装である肩衣袴(裃)は、中世後期、特に応仁の乱後に武家服飾に取り込まれたものと考えられている。しかし、下層階級や若年の料として用いられていた肩衣袴が、いつ頃どのような経緯を経て、上級武家が用いるに相応しい礼装にまで形式昇格を遂げたのか、詳らかではない。先行研究においては、足利義晴とその周辺の人物が着用の範囲拡大と形式昇格に影響を与えたとも言われているが、いずれも些少な史 料を基にした指摘に過ぎない。本発表は、既知の史料の誤読を改めるとともに、旧来の服飾史研究おいて看過されてきた『後法興院記』『実隆公記』等の記録文献を用い、軍装や旅装として使用されるに過ぎなかった肩衣袴を、貴族や将軍足利義澄が使用した事例等を指摘し、中世後期の肩衣袴の形式昇格の過程について新たな知見を示すものである。
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