2006年度 考古部会発表要旨

1.トンガ坊城遺跡の発掘調査

(財)広島市文化財団文化財課 桾木 敬太

 トンガ坊城遺跡は広島市安佐北区可部町上町屋に位置する。調査は国道五十四号のバイパス道路建設工事に伴い、平成十七年六月より開始した。遺跡の位置する三入地域は中世には三入荘地頭熊谷氏が治めた地である。遺跡は根の谷川を見おろす、標高約百十mの尾根上に位置し、熊谷氏の居城である伊勢ヶ坪城や高松山城を望むことができる。本遺跡からは、郭群や竪堀からなる山城跡、古墳一基、住居跡約二十軒からなる弥生時代後期の集落跡などが確認されている。なかでも、弥生時代の住居跡の一軒からは、炉の上に山陰系甑形土器が立った状態で出土し、さらにその下から、高坏の坏部を転用した鉢が出土している。甑形土器の使用方法を考える上で興味深い資料といえる。

2.東広島市御土居遺跡の発掘調査

(財)東広島市教育文化振興事業団  吉野 健

 御土居遺跡は高屋町白市に所在し、国人領主平賀氏の居館跡と考えられている。平坦面の規模は東西約一〇〇m、南北約五〇mで、当地域で最も規模が大きい。県道改良事業等に伴い、数次の試掘を経て、平成一三年度から平成一八年度まで、七次にわたって発掘調査を実施してきた。調査の結果、前面には大石を用いた石垣を配し、内部を溝によって区画していたことや、鍛冶炉をもち、柱間に石列を伴った建物などの存在が明らかになった。また、多量の土師質土器皿が出土し、儀式や宴会等の儀礼が行われる空間があったことが推測されている。平成一八年度の調査によって、居館西側に堀があったことが確認され、平坦面だけでなく、周囲を取り込んで方形を強く意識した構造であったことが明らかになった。

3.「中世の港町・尾道」の構造と変遷-近年の発掘調査成果から-

尾道市企画部世界遺産推進課 西井 亨

 尾道は平安時代末期、嘉応元(一一六九)年に備後国大田庄の倉敷地に公認されて以来、瀬戸内海の航路上、重要な拠点として繁栄してきた。第二次世界大戦の戦禍や戦後の大規模開発を免れた現市街地地下には、中世から受け継がれてきた「港町・尾道」(尾道市街地遺跡)が包蔵されている。この尾道市街地遺跡では既に百九十回を越える発掘調査が行われ、幾重にも重なった生活面と大量の遺物が確認されているが、調査面積等の制約により、各調査地点の成果についての比較検討が難しい状況にあった。しかし、近年の発掘調査成果により、ある程度広い範囲での遺跡の空間構造の把握が徐々にできるようになってきた。そこで、発掘調査と同時進行で行っている過去の出土遺物の再整理の成果を踏まえ、「中世の港町・尾道」の空間構造、変遷過程について考えてみたい。

4.広島県重要文化財磨崖和霊石地蔵の保存について

三原市教育委員会 時元 省二

 磨崖和霊石地蔵は、昭和五十年四月八日に広島県重要文化財として指定され、三原市鷺浦町向田野浦(佐木島)に所在している。この石地蔵は、高さ約二・八m・幅約五mの花崗岩の巨石の中に、蓮華座と舟形の輪郭を彫り沈め、その中に地蔵坐像が彫られている。頭部のうしろに円光背を浮き彫りし、右手に錫杖を持ち、左手に宝珠をのせている。石地蔵の左右には一対の宝瓶三茎蓮が浮き彫りにされ、その周辺に願文が刻んであり、正安二年(一三〇〇)仏師念心の刻銘がみられる。海辺にあるため、満潮時には海水が地蔵の頭の辺りまで達し、干潮時には巨石の全体が姿を現す。そのため、石地蔵の表面の剥離が進行しており、三原市教育委員会では、平成一六・十七年度に測量調査と修理調査を実施した。調査の結果、剥離の原因は、表面から海水が浸潤し、それが乾燥する、この繰り返しがおこす塩類劣化であるとされた。本報告では、これらの調査概要について説明する。

5.権現第一~三号古墳の発掘調査

(財)広島県教育事業団埋蔵文化財調査室 梅本 健治

 権現第一~三号古墳は三次市の馬洗川北岸、南北に細長く延びる丘陵頂部に位置する。丘陵南端の第一号古墳は直径一四m、高さ二mの円墳で、埋葬施設は中世頃の土坑に壊されている。第二号古墳は直径二〇m、高さ三mの円墳で、墳頂部に箱式石棺墓五基が築かれている。最大規模のSK一は扁平な小円礫を棺底のほぼ全面に敷き詰め、小型の鉄鎌一・管玉一・臼玉九・石製小玉六が出土した。SK四では鉄製刀子一・碧玉製勾玉一・管玉二が出土した。第三号古墳では小型の箱式石棺墓二基を検出し、SK一から勾玉一・棗玉二五・石製小玉二〇点と鉄製刀子一点が、SK二からは勾玉三・管玉二一・有孔楕円形石製品一点が出土した。これら三基の古墳の築造時期は土器類の出土がみられず、明らかではないが、その埋葬施設の種類や構造、それらの配置状況あるいは玉類や小型の鉄製品が主な副葬品であることなどから、古墳時代中期の五世紀頃と考えられる。

6.近世後期における伝世鏡の考古学的観察 

尾道大学 八幡 浩二 広島大学 脇山 佳奈 

 本資料は、近世後期の閨秀画家・平田玉薀(一七八七~一八五五)が所蔵した古鏡である。氏の所蔵来歴は明らかではないが、伝世する古鏡は、計八面あり、連弧文銘帯鏡一面・画文帯神獣鏡一面・獣首鏡一面・海獣葡萄鏡二面・「五月五日」銘唐草文鏡一面・八稜鏡二面で構成されるものである。また、本資料に関しては、近世後期に編纂された『芸藩通志』や『尾道志稿』といった同時期の文献(地誌)に記載がみられる他に、玉薀と親交のあった菅茶山や、頼山陽といった当代随一の文人らが、玉薀所蔵の古鏡を詠んだ漢詩が遺されている。今回、それらの古鏡を実見する機会を得たので、考古学的見地から報告を行いたい。なお、本資料は現在、おのみち歴史博物館にて所蔵されている。

7.広島大学帝釈峡遺跡群平成一八年度発掘調査の成果について

広島大学 下元 優・古瀬 清秀・岩崎 佳奈・野島 永

 帝釈峡遺跡群の発掘調査は二○○六年度で第四十五次を迎えた。今年度は帝釈大風呂洞窟遺跡(第十一次)および久代東山遺跡(第二十四次)の発掘調査を行った。帝釈大風呂洞窟遺跡では、元慶四(八八○)年の出雲地震によると想定される洞窟崩落の状況と、古代(八世紀後半~九世紀前葉)における洞窟の利用状況について調査を継続した。今年度は縄文時代の遺物包含層まで掘削し、縄文時代の遺構を検出する。久代東山遺跡では、居住地の周辺地区の調査を完了したが、昨年度F-二区第三層(縄文時代後期後半)上面から掘り込まれた溝状遺構SX〇二を検出した。埋土には弥生時代の土器(第Ⅱ・Ⅴ様式)などが含まれており、弥生時代の遺構の可能性が指摘された。このため、今年度はこの溝状SX〇二の平面的な広がりを確認するとともに、埋土の掘削を行い、遺構の形状とその性格を明らかにする。

8.弥生時代鋳造鉄斧破片の流通について

広島大学 加藤 徹

 弥生時代の鋳造鉄斧は、中国あるいは韓半島で生産された輸入品であり、完形品だけでなくその破砕品(およびその再利用品)も日本に広く分布していることから、それらは当該時期におけるモノの流通とその変化を考える上で、非常に参考となる遺物である。発表では、西日本における非破砕品と、破砕品および再利用品両方の鋳造鉄斧の出土状況や形態を比較することにより、それがどのような交換の形態で流通しており、それが人類学的視点からどのような財の領域に属し、そしてまた、それを要求する社会とはどのようなものであったのかについて検討を行ってみる。

9.弥生時代後期におけるガラス小玉の流通

広島大学 荒平 悠

 弥生時代後期におけるガラス小玉には北部近畿と北部九州で顕著な地域差が見られる。これまで外観的な様相として色調の差異ばかりが指摘されてきたが、発表においてはガラス小玉を一連の装身具を構成する一部として捉えることでガラス小玉の持つ多様な属性に焦点をあててみたい。これまでの研究において言及されることのなかった微妙な色調の差異や成形技法の違いを反映する形態差、法量等といった各種属性から当時の嗜好性を考察し、それによって両地域の流通形態に差異が見られることを指摘する。またガラス小玉の製作規格を元に需給に際して両者で異なる意図があったことを検討し、弥生時代後期において急激に増加し始めるガラス小玉がどのような戦略のもとに普及するのか推察する。

10.異常気象と考古学 

広島大学 谷岡 能史

 世界における過去から現在に至るまでの異常気象と社会変化の関係について扱う。すなわち、異常気象が起こるグローバルかつ地域的な気象学的メカニズムと、それが社会に与える影響について解説する。それを踏まえて、過去と現在の比較から、現代社会がとるべき異常気象に対する対処法を提示する。今回はとくに、これまで行ってきた歴史時代におけるデータ整理とそこから窺えることについて述べる。具体的には、中国正史を代表とする東アジアの古記録を対象に、遼・金代における気象と社会の関係について触れる。また、本格的な作業は今後になるが、考古遺跡に残る洪水跡から異常気象に伴う影響を検討していきたい。また、これと並行して、気象観測データと各種経済指標を比較することで、歴史時代と近・現代さらには未来を比較していきたい。