2006年度 日本史部会発表要旨

1.空閑地二題

広島大学 西別府 元日

 従来開墾予定地という概念でとらえられていた空閑地について、報告者はかつて律令体制下における土地の占有状況をしめす概念であるという提起をおこなったが、この点についてはいまだ一部に、多様な分類を拒否する立場からの、根強い批判が残されている。これらの批判を検討するととともに、近年発見された天聖令をもとに提示された「大宝田令荒廃条」の復原案などがしめされたことにより、古代土地管理制度について再考する必要がでてきたように考える。

 本報告では、大宝令成立から養老令成立期の土地管理制度の変化のなかで「空閑地」概念が形成されてくる経緯を考察するとともに、平安時代後期になってもこの「空閑地」概念が継承されていた事実を、肥前国河上山古文書をはじめとする『平安遺文』所収文書において確認し、その意味を考察することをとおして、かつて提起した「空閑地」概念を再検討したい。

2.平安末鎌倉初期の宋銭流通と国家

日本学術振興会特別研究員 渡邊 誠

 平安末期から始まる宋銭の流通と国家権力との関係については、宋銭が法貨としての位置づけを得ないままに一般的交換手段として民間に流通し、かえって国家権力はその使用を度々禁止していたことから、国家権力の影響力を低く見積もり、宋銭使用を否定する朝廷の姿勢も守旧的・観念的なものと理解されている。宋銭流通の担い手に関する議論に異論はないが、それに対する国家権力の対応とその目的に関しては、なお理解が不十分である。そこで本報告では、平安末鎌倉初期の宋銭禁止令の政策的意図を検討する。日本中世経済史は現在、単線的な発展の構図のみから描かれるのではなく、貨幣や手形とそれを成り立たせる経済的諸条件の分析に向かっていると考えるが、本報告でもそれを念頭に、宋銭流通開始期の経済・財政の状況からアプローチしたい。宋銭禁止(容認)が中央政府の制定する沽価法によって具体化されるものであり、その沽価法は中央政府と国衙との間の貢納・収納における技術的要請から制定されたものである以上、「宋銭禁止」も第一義的には国家財政上の問題として検討されねばならない。建久四年の宋銭禁止、嘉禄二年の宋銭公認がともに一国平均役の徴収に関わって制定されていることと、中央貢納物の輸納過程における金融業者の関与からこのことを考えたい。朝廷・幕府による宋銭禁止・容認は市場統制として理解するために、守旧的で実質的影響力のない施策として理解されやすいが、財政政策として理解することによって、そうした理解を克服することが可能になると考える。

3.鎌倉期における播磨清水寺と住吉社の抗争

兵庫教育大学 河村 昭一

 播磨清水寺は、十一世紀後半以降鎌倉期を通じて、住吉社と長く抗争をくり返してきた。これは、清水寺が住吉社領久米荘の中に含まれていて、住吉社の支配下にあるとする住吉側と、これを否定しようとする清水寺の対立であるが、白井克浩氏は、後鳥羽院政下で争われた相論について、清水寺の本家たる後鳥羽が清水寺を支持したとする通説を批判して、後鳥羽はむしろ「治天の君」としての立場から神領興行訴訟ととらえ一貫して住吉社を支援したこと、承久の乱後清水寺の訴訟で後鳥羽裁定が否定され以前の地域社会秩序が回復したものの、鎌倉末の神領興行政策の中で再び住吉社との本末関係が復活したことなどを明らかにされた。この白井説の大筋については異論がないものの、論証過程については少なからず問題点が認められる。本報告では新出史料も用いて相論の経過を再検証し、地方寺院が権門の圧力に抗して自立を果たしていく過程を明らかにしたい。

4.中世前期における国衙祭祀と一宮 -安芸国の事例を中心に-

鈴峯女子短期大学 松井 輝昭

 中世諸国一宮制は十一世紀末から十二世紀初頭にかけて成立したとされる。しかし、各国の一宮ごとに成立した経緯や背景などが異なっているため、それぞれの存在形態について全面的な検討が求められるようになった。そして、国ごとの一宮の特殊性と普遍性を統一的に把握すべきであるという。

 本報告では以上のような視点から、安芸国の一宮となった厳島神社の祭礼に焦点を当て、それぞれの祭礼と安芸国衙との関わりの有無、つまり国衙祭祀としての位置付けの可否について検討する。なかでも、国衙より奉納される儀礼である、「東遊」が同神社の祭礼で占める位置に注目したいと思う。このことは社家が厳島に移住する十五世紀中頃までの、厳島神社の祭礼の主たる場所がどこにあったかをも浮き彫りにするかもしれない。ただ、厳島神社の祭礼に関する史料が非常に限られているため、中世前期における安芸国衙との関わりを探るにも、多くは戦国期・近世前期の関係文書に依拠せざるをえない。

5.対馬守護職再考

日本学術振興会特別研究員PD・九州大学 荒木 和憲

 室町期に対馬宗氏は日朝交流の管理・統制を梃子として権力を形成したわけであるが、最近、宗氏が支配の正当性をえるために室町幕府とも緊密な関係をきずき、また対馬守護という地位にあればこそ朝鮮王朝との通交関係をきずくことができたという見解がだされている。しかし、支配の正当性なるものがどのような局面でもとめられたのかは明らかでなく、また宗氏が対馬守護になった時期については諸説(南北朝期説・室町期説)があるため、この見解にただちに賛同することはできない。そこで本報告では、まず室町期の幕府側史料をもちいて宗氏が対馬守護になった時期を再検討し、それが一四四〇年代であるという新見解を提示する。そのうえで、朝鮮王朝の通交制限策(1443年の島主歳遣船制度)にともなう権力の危機にさいして、宗氏はみずからの権威を担保しようとして幕府に対馬守護職をもとめたことなどを指摘する。

6.近世後期広島藩の市場構造と経済政策 

広島大学 下向井 紀彦 

 本報告の目的は、天保期の広島藩において見られる経済的危機ともいえる状況下での藩権力と商人の動向を追うことにある。具体的には広島藩の集散地取引の拠点港である尾道を事例としてとりあげる。天保期の尾道は物価の上昇やそれに伴う入船減少などにより商品取引が減少し、尾道商人らが港衰微と嘆く事態に陥っていた。この状況下において、特に商品流通に対する資金貸付を目的とした組織の新設や改編が行なわれている。諸品会所、問屋座会所と呼ばれる組織がそれにあたる。この組織について、経済的危機との関連については従来から述べられているが、具体的な言及がなされていなかった。

 そこで、諸品会所、問屋座会所について主に制度的側面と内部構造についての分析を行い、そこから藩の経済動向に対する諸勢力の姿勢、地域社会との関係などについて明らかにしたい。

7.光明寺党に関する研究

広島大学 田村 幸香

 幕末期、長州藩で結成された奇兵隊は、身分制が色濃く残る中で「有志之者」を集め「陪臣雑卒藩士を撰」ばず、「専ら力量を尊」ぶ隊として結成された。そして、長州藩では奇兵隊以外にも多くの諸隊が存在し、現在まで「諸隊研究」として奇兵隊を中心としながらではあるが多くの研究がなされてきた。しかし、文久三年の攘夷決行に際して「有志之者」により結成された光明寺党については、ほぼ研究がなされていない。理由としては、活動期間が一ヶ月と短期間であったこと、史料が少ない事などがあげられるが後の奇兵隊、諸隊の人員構成を見たときに光明寺党メンバーが重要な位置を占めていたと考えられる。そこで、光明寺党と初期奇兵隊を組織面・構成員などの観点から比較研究することによって、光明寺党が実際に奇兵隊の前身的存在であったかを検討し、奇兵隊の根源を明らかにする。

8.文久二年長州藩の動向 -藩是転換と国是決定システム確立の志向- 

大島商船高等専門学校 田口 由香

 本報告では、文久二年長州藩の動向から、その対外方針と政治体制構想を考察する。近年の明治維新史研究では、文久・元治期の攘夷国是や将軍上洛に焦点をあて、諸勢力の対外方針や政治体制構想を解明する研究が蓄積されている。そのなかで原口清氏は、文久期の政争の基本的対抗軸を「公武合体か尊皇攘夷か」に求める見解に対して、対外方針と「国家体制」の異なった次元のものを対抗軸に据えたものと指摘する。文久期の政治情勢を明らかにするには、それぞれの対外方針と政治体制構想を検討する必要があると考える。長州藩は、開国方針の航海遠略策から奉勅攘夷へ藩是を転換し、国是決定のための将軍上洛を幕府に建白した。前者は対外方針、後者は政治体制に関わるものであり、藩是は相互の関わりのなかで転換されたといえる。対外的危機のなかで、長州藩がどのような対外方針をもち、国是決定システムとしてどのような政治体制を必要としたのかを検討したい。

9.歴史教科書における遣唐使の発見

長崎大学 鈴木 理恵

 本報告は、歴史教科書は児童生徒の歴史認識に影響を及ぼすメディアである、との前提にたって教科書を分析する方法をとる。現在の中学生から大学生にかけての年代を対象として古代対外関係史についての知識を尋ねると、最も多い回答は遣唐使である。遣唐使を含めて対中国関係史の知識は豊富だが、対朝鮮半島関係史の知識は乏しい。その理由のひとつとして教科書記述のありかたが関わっている。明治期以降第五期国定教科書までは朝鮮半島に関する記事数が比較的多く、遣唐使に関する記述はほとんどなかったが、第六期国定教科書になって対中国に関する記事数が多くなり「奈良時代の遣唐使」が大きくとりあげられた。「大東亜共栄圏」を標榜していた太平洋戦争下において、「命がけの航海」をしていた遣唐使の意義が見いだされたわけであるが、戦後の検定教科書でも基本的にその記述スタイルが踏襲された。その経緯について報告する。

10.昭和三〇年代における教員養成の諸問題について-中教審の議論を中心に- 

広島大学 石田 雅春

 本報告では、中央教育審議会答申「教員養成制度の改善方策について」(一九五八年)を取り上げ、第十一特別委員会および総会における審議過程を分析する。そしてこのことを通じて本報告では、従来明らかにされてこなかった中教審の答申形成過程を明らかにする。また、この中教審答申は、教員養成に対する国家の関与と目的的な計画養成を強調し、戦後の教員養成方針に重要な軌道修正を行おうとしたものとして評価されている。ただ、当該期の教育界は勤評問題(教員の定数や質の問題)をめぐり大きく揺れていた。しかしこの答申の評価は、こうした状況と答申との関係を十分に踏まえたものではない。そこで本報告では答申の背景となる当該期の教員問題についても分析し、答申と現実との相関関係についても明らかにする。