シンポジウム趣意書

「周縁から考える近代世界像」

 現代社会においては、様々な意味で世界が周縁(periphery)化しつつある。 近代世界史上、1960年代に入って周縁地域における地域主義の主張が 政治的エリートだけではなく、地域住民全体を広く含み込むものとなり、 それが絶え間ない自治・独立運動となって立ち現れてきた。 アフリカで独立国家の誕生が相次ぎ、また国民国家の名のもとに 押し込められてきた様々な地域や少数民族の自己主張が表出してきたのである。 しかも、このように周縁地域が変動のエネルギーを発揮する中で、 もはや旧来の中心や国家がそれらを統制できない状況が生まれている。 それどころか、イギリスのように小さな国家を標榜し、各地域(スコットランド、 ウェールズ、北アイルランド)の自治を積極的に認めるような動きさえ 見られるのである。また近年、「グローバル化と周縁地域」の問題が 新たな課題として注目されている。すなわちEUのように国家を超えた 経済システムが形成され、またインターネットの発達により、情報の 流れや相互連関が国家の枠組みを簡単に飛び越えて統制のきかないような グローバル化した世界の中で、周縁地域の問題を考えざるをえなく なったのである。周縁地域の側が主体的に取り結ぶことができる関係の 選択肢が広がったことは、その分だけ周縁地域の分権化や独自性を どのように生かしていくのかが、改めて問い直されているのである。

 もとより、これまでにも近代世界における「中心」と「周縁」の関係に 関わる研究は蓄積されてきており、ウォーラーステインの「世界システム」論 やサイードの「オリエンタリズム」論はその代表的な事例といえよう。 ただこれらの研究の問題点の一つは、あくまでも「中心」を説明するために 「周縁」が位置づけられる傾向が強かったところにある。すなわち、 「周縁」の状況それ自体が問題なのではなく、常に「中心」との距離が 問題なのであり、そうした観点に基づき、中心からの求心力や周縁の 純粋化、普遍化、同化の過程が主たる分析対象となってきたのである。 中心指向型の地域研究といってもよかろう。イギリス帝国史を巡る研究に おいて、帝国支配に対する肯定的な見解が多かったことも、「中心」の 側からの研究に依るところが多かったためであろう。しかしながら、そうした 視角からは、「周縁」の側からわき出るエネルギーや紛争の歴史的背景を 十分に明らかにすることは難しい。したがって今後は、近代世界の 形成過程を検討する際に、「中心」と「周縁」の双方に目を配るという 総体性が求められることになろう。わけても、支配された側の視点を 積極的に取り込んでいく必要がある。本シンポジウムの共通テーマである 「周縁から考える近代世界像」は、このような研究課題の解明を目指すべく 設定されたものである。そこで、このシンポジウムを進めるに当たっての、 われわれの共通認識を確認しておきたい。

 まず「中心」ではなく「周縁」それ自体の視点から地域のダイナミズムが 発生してくる要因を捉えることを試みる。「中心」の求心力が強まる 過程において、「周縁」側で独自性、個別化、差異化がいかに はかられていったのか。この問題は、同時に「周縁」の側が「中心」を いかに認識していたのかを問いかけることにもなろう。

 第二に「周縁」概念を、地域的な概念(周縁地域、境界域、フロンティア) としてのみではなく、より広く民族的(少数民族、移民)、 文化・宗教的(宗教、言語、慣習)、経済的(収奪の構造、環海の 商業ネットワーク)要因も含み込むものとして捉えていきたい。 そうすることで、「周縁」のダイナミズムの重層性をより明確に 提示することが可能となろう。

 第三に「周縁」のダイナミズムが、複数の「中心」とのネットワークの 構築に向かっていく傾向を持っていることを描き出してみたい。 近年の海港都市の交易ネットワークや移民のネットワークを巡る議論は、 「周縁」が複数の「中心」を媒介する機能を持ち合わせていたことを 明らかにしつつある。とすれば、「周縁」内部における多種・多様な 異質の要素の交流が安定的になしえたのか、またそれを保証する機能が 「周縁」内部に存在したのかが問題となってこよう。このように 「周縁」のダイナミズムを巡る議論は、「(1つの)中心」と 「周縁」の枠組み、あるいは近代国民国家形成の枠組みを相対化し、 新たな近代世界像を描き出す可能性を秘めているのである。

 個別報告では、「周縁」問題に関するこうした問題意識を共有しつつ、 ブリテン=アイルランド連合王国(United Kingdom) 内部のアイルランド、南部タイ国境域のパタニ、山口県における 在日朝鮮人社会を主たる研究対象としつつ、「周縁」のダイナミズムが 明らかにされることになる。

 小澤報告は、19世紀後半以降に連合王国の国政を大きく揺るがした アイルランド自治運動を取り上げ、特にナショナリズムと宗教を巡る 問題を検討しながら、「周縁」のダイナミズムを描き出す。当時の アイルランド島内は、政治・経済的に優位な立場にある少数派の プロテスタント住民と人口の多数を占めるカトリック住民との間で 政治的・宗教的・民族的対立が激しくなっていた。そのため、 アイルランド・ナショナリズムも、自治・独立を目指すのか、それとも 連合王国にとどまるのか、カトリックとプロテスタントを包摂する 政治的ないし文化的アイデンティティの構築の是非、アイルランド内部の 地域間あるいは階層間の経済格差の問題が複雑に絡み合った、多種多様な ものとならざるをえなかったのである。本報告ではカトリック教徒にして アイルランドの独立を目指したW.J.ドーントのアイルランド・ナショナリズム の構想や運動が明らかにされる。特に彼がブリテン島側の 非国教徒プロテスタントと新たなネットワークを構築し、両者が共存する 多元的なアイルランド社会を構想し、周縁の側から積極的に複数の 中心とのネットワークを構築していく過程が注目に値する。

 木村報告は、在日朝鮮人の定住化が進む192030年代の山口県を 主に取り上げ、日本へ渡航するに至った彼らが、どのような居住地で どのような職業に就いていくのかを、日本政府や地方庁の政策、 日本人社会の対応を交えながら検討することを課題としている。山口県の 在日朝鮮人は、府県別にみると戦前期を通じてほぼ10指の中に入り、 とりわけ下関市は市の総人口の10%前後に及ぶ集住ぶりを示していた。 なかでも下関には、山口県社会事業協会により、1928年に朝鮮人収容施設 昭和館が設立され、いわば「放漫渡航」の朝鮮人に一時の宿泊と 授産、就職斡旋、そして日本語教授など、その後の定着の基礎を 構成するような事業を展開していた。報告では、まず1920, 30, 40年の 国勢調査資料によりながら、山口県及び下関市の在日朝鮮人の職業構成を 分析し、県知事引継ぎ文書などに示された彼らに対する政策方針及び 新聞記事に見られる社会の位置づけなどを示し、そうした環境の中で 昭和館などを通じて定住の基礎条件を獲得していく朝鮮人の苦悩と希望が 解明されることになる。本シンポジウムの共通テーマに引きつけていえば、 日本社会のいわば「周縁」部に位置した在日朝鮮人が、「内鮮一体」政策や 「同化」政策をくぐりぬけながら、いかに生活環境を整え、自己実現 していく条件を獲得して言ったのかが問われることになる。

 黒田報告は、マレーシアとの国境域に位置する南部タイのパタニの 「周縁」化の問題を扱う。タイは仏教徒が人口の90%を超える国であり、 しかも仏教はタイの王権とも分かちがたく結びついてた。そのためタイの 近代化の過程においても、仏教に由来する価値観がタイの国民のシンボル として様々な形で用いられたのである。一方、タイのムスリムは人口の 5%に過ぎず、その殆どが南部タイの歴史的にパタニ王国と呼ばれた 地域に集中していた。19世紀以降のパタニの歴史は、交易の中心として、 権力の中心として、そして知の中心として、パタニがタイという 国民国家の枠内でその影響力を失っていく過程であったといってよい。 タイ国内の中央集権化がすすむと、パタニにも近代地方統治制度の導入が 行われた。さらにイスラム教育の拠点である、ポノと呼ばれた イスラム寄宿塾にタイ語を「国語」として導入することで、ムスリム というよりもまず、「タイ国民」としての文化受容を迫られたのである。 パタニ・ムスリムは、タイ中央によるこうした「タイ化」の強制に 激しく抵抗した。この運動は、やがて隣国マレーシアの状況に呼応した 「分離主義運動」と結びつき、複雑な様相を呈していくことになる。 本報告では、マイノリティとしてのパタニ・ムスリムが仏教社会で 生きることの宗教的、経済的な苦悩、またそこからいかにして彼らが 自分たちのアイデンティティを守り、タイ中央からの差異化を図ろうと したのかが、描かれることになる。