2006年度 東洋史部会発表要旨

1.ベトナム鄭氏政権の行政組織に関する一考察

広島大学 上田 新也

 十七世紀から十八世紀にかけてベトナム北部は黎朝皇帝を推戴する鄭氏政権によって実質的に支配された。この時期、ベトナム北部の紅河デルタでは、この地域の特徴である自律性の高い村落群が形成されていった時期であるとされているが、その支配がいかなるものであったのか具体的に明らかになっているとは言い難く、支配者側の搾取を強調するのみにとどまっている。本報告ではこの時期の鄭氏政権の農村支配の実態を明らかにするための足がかりとして、まず鄭氏政権の行政組織について検討を加える。 長期間にわたって政治的実権を掌握していた鄭氏は、組織面では十五世紀黎朝の制度の多くを継承すると同時に、これとは別個に「五府府僚官」と呼ばれる行政官僚群を組織していた。しかし一方で政治的実権は失いながらも依然として黎朝皇帝は存続しており、形式的には鄭氏もまたその家臣であった。このために黎朝系の組織と鄭氏系の組織の関係は人員構成や職掌の点で錯綜したものとなっていた。本報告ではその実態を明らかにしていくものとしたい。

2.義空宛書函群から見た東アジア交易-九世紀における浙東海商の一事例-

大阪市立大学 山崎 覚士

 空海の書簡集である『高野雑筆集』の末尾に混入した渡日唐僧義空へ宛てた書函はつとに知られているが、その詳細な検討には及んでいない。本発表では、可能な限り検討を加え、そこから中国海商の徐公直・徐公祐兄弟の活動を追い、九世紀における両浙地域の都市を拠点とする海商の動態を考えてみたい。

3.南宋史氏一族東銭湖墓群現地調査報告

広島大学  岡 元司・槙林 啓介

 南宋時代、明州(慶元府)を本拠とする史氏一族は、三世代にわたって宰相を輩出(史浩・史彌遠・史嵩之)し、また多数の科挙合格者をうみだすなど、南宋政治史・社会史研究において重要度の高い一族である。その史氏一族の成員の墓は、浙江省寧波市の東銭湖周囲に約二十箇所確認されており、とくに高官に就いた人物の墓のような、長いアプローチの墓道や神道碑・亀趺の存在は、当時の威容を彷彿とさせる。また、一族の発展に果たした役割から、女性の墓の存在意義も見逃すことはできない。本報告では、二〇〇五年以来、歴史学・考古学・文化人類学・中国文学の研究者による学際的調査チームで、現地研究者と協力しておこなっている東銭湖墓群調査の現段階での進行状況を報告したい。

4.元代江南仏教の残像―チベット仏教僧の楊璉真加のイメージを追って-

大谷大学 清水 智樹

 タングート出身のチベット仏教僧楊璉真加は、南宋接収後の元代江南仏教界において最高権力者として辣腕を振るう一方、南宋の皇帝陵を暴いて財宝を強奪するなどして私腹を肥やした。そのため、江南文人たちの怨嗟の的となり、明代・清代においても度々やり玉に挙げられた。たとえば、杭州飛来峰石窟第四四号龕に現存する楊璉真加像は、明代に当地の士大夫らによって幾度かその首を切り落とされた。その背景として、浙江を含む沿海地方で当時猖獗を極めた倭寇に対する反感が、楊璉真加に向けられた可能性がある。また、清代の劇作家蒋士銓の戯曲『冬青樹』は、南宋殉国の忠臣文天祥の事蹟を中心とするが、侵略者大元ウルスの暴虐ぶりを効果的に演出する舞台設定として、楊璉真加の南宋皇帝陵盗掘という史実が用いられているのである。このように連綿と悪名を語り継がれる事例は、仏教界では楊璉真加以外には見られない。大元ウルスの江南仏教政策が後代に与えた影響の一例として注目に値しよう。 

5.明代遼東の山東官

弘前大学 荷見 守義

 明朝(一三六八~一六四四)は建国当初より、自国を頂点とする地域秩序の形成・維持に腐心していた。しかし、目指すべき理想と現実は大きく乖離し、陸上では西北方のモンゴル、東北のジュシェンなど隣接する諸勢力に、沿岸では倭寇の襲撃に備える必要があった。このため、明朝辺境には多くの防塁が築かれ、数多の兵力と膨大な軍事費が投入されていった。明代の遼東は山海関外の地域であり、明朝最東端の防衛拠点である遼東鎮があった。この地方には山東の肩書を持つ官僚が多く派遣されていた。これは明代の遼東は行政区画上は山東に属していたためである。従って、遼東における山東官の位置づけは従来から問題となって来た。発表者は遼東と山東本省の関係は限定的であることを従来から指摘して来ているが、ここでは遼東における山東官の動向を文書史料などから押さえていくことにする。

6.中国浙江省縉雲県村落の史的考察-『縉雲姓氏志』に基いて- 

静岡大学(名誉教授) 伊原 弘介 

 本報告は『縉雲姓氏志』(縉雲県地方志弁公室編 方志出版社 一九九九年)に基いて、同県村落(自然村)の姓氏構成を再検討し、同県村落が、一般的に、宗族集居を基礎として形成されていたことを明らかにすることにある。同姓氏志は、新編『縉雲県志』(浙江人民出版社 一九九六年)に記載された一九九二年同県登記人口、四二・三万人、姓氏数、二一二、それら姓氏の内、宗族人口が比較的多い、一〇六の姓氏に関し、調査した宗譜、二五六種と宗譜がない姓氏宗族は族人からの聞取り調査に基いて、合わせて二三四の主な宗族支派に分け、各宗族支派の縉雲始遷祖、その源流、遷徙後の主な転居地、その内の一九九七年人口調査に基く主な宗族集居村落と集居状況、主な人物等をまとめた姓氏に関する一種の地方志である。同姓氏志は、宗族組織営為の検討史料としての価値は宗譜より低いが、同県村落の宗族集居を見渡せる利点がある。この利点を活かし、一九九七年村落の宗族集居状況を該村落該宗族始遷祖転入との係りから再検討を試みて見たい。

7.後漢初期の皇帝・外戚と図讖・春秋三伝

岡山大学(名誉教授) 好並 隆司

 後漢の光武帝は符命を信じたので、後継の諸帝もまた、それを継承している。天の観念を先行させているので、儒教の人間中心の教えとは当然のことながら葛藤が生じる訳である。光武帝と桓譚・尹敏ら正統派儒家との対立は後漢書に明記されている。こうした経過があって皇帝が儒教に拘束される中で、皇帝専権の維持はこの図讖の援用に依って可能であった。この儒・讖双方の調整は賈逵に依ってなされている。而して、これが後漢代・儒教の本流となった。て、皇后の兄弟たちは官位に就いて権力をふるうが、これを一般的に外戚政権とされているが、この点について皇太后の専権とは一体、如何なるものかを検討したい。

8.曹魏文帝・明帝期における征討体制

広島大学 小尾 孟夫

 曹魏文帝の黄初二(三)年に制度化されたと言われる、「都督州諸軍事」(州都督)制度の起源については、後漢末以降における都督の軍事的統率者(地方駐屯外軍、州郡兵を支配)の側面から次第に明らかにされつつある。しかしながら、制度化されて、地方に常置化されつつあった州都督制の内容は、後漢末以来の軍事的統率者の単なる常置化で理解してよいのであろうか。州都督の州都督である所以を最も表現する管轄区域(都督区)の意味理解については依然として問題が残されていると思われる。宋書百官志、晋書職官志等からの制度史的把握も困難であり、目下のところ、州都督制の実際の具体的運営状況から探っていくしかないように思われる。そこで、曹魏文帝・明帝期を中心として、ひとまず征討体制を分析することにより、州都督制の制度化問題を検討したい。