2007年度 文化財学・民俗学部会発表要旨

1.「伊都岐島社神主佐伯景弘解」に見える「大伴社」について

広島大学  山口 佳巳

 仁安三年(一一六八)の「伊都岐島社神主佐伯景弘解」は、平清盛による創建当初の厳島神社の社殿を知ることができる数少ない史料の一である。この文書にある社殿のうち、本社や客神社の中心的な社殿に関しては、詳細な考察が行われてきたが、その他の社殿に関しては、十分な検討が行われてきたとは言い難い。

 本研究では、この文書に見える「大伴社」について、後世の文書と照らし合わせることにより、その実態を明らかにするものである。考察の結果、仁安度に「大伴社」と称されていた社殿は、山王社(神仏分離の際、三翁と名称が変更された)の一殿である可能性があり、それは伴(大伴)と同祖である佐伯氏の祖神を山王社に祀っていることからも裏付けられる。したがって、仁安度もしくはそれ以前に現在の山王社の位置に大伴社が建立され、安元二年(一一七六)までに山王社が大伴社と隣接するように建立されたと考えられる。

2.広島県福山市鞆町の小規模町家に関する考察

青山学院女子短期大学  山田 岳晴

 広島県福山市鞆町は、古くから潮待ちの港として海運・交易で栄えてきた瀬戸内海の港町である。調査によって、正面が一間半から二間程度と間口が狭い町家が多く見出された。そうした間口の狭い小規模町家のなかには、江戸時代前期の町家も残っている。そこで本考察では、鞆町の小規模町家について報告し、その特徴や建築的意義などについて考察を加えることにする。鞆町においては古くからの都市に存在していた間口の狭い町家が密集して配置されており、年中行事絵巻や洛中洛外図屏風などに記録されている中世町家との関連性も指摘できる。各戸が隣接密集する小規模町家における規模形式や、建築時期の異なる場合の戸境の処理方法などが見られ、中世以来の都市型住居に特有のものであったと考えられる。こうした特徴を持つ鞆町の町家群は日本の港町の貴重な都市遺構であり、港湾施設とともに日本建築史上の大変重要な資料であることを示す。

3.宗光寺山門

広島大学  佐藤 大規

 広島県三原市に所在する宗光寺は、天正十年(一五八二)頃、小早川隆景が三原城を築城する際に新高山城内に存した匡真寺の建築を移築したと伝えられている。山門も同じ時に新高山城の大手門を移築したとされているが、城門は薬医門や高麗門・櫓門などといった形式とするのが普通で、四脚門とする例は管見にしてない。城内において四脚門が建てられるとすれば、二条城二の丸御殿唐門などのように御殿の門である。ところで、宗光寺山門の梁間は三間もあり、二条城二の丸御殿唐門・豊国神社唐門・大徳寺勅使門と並んで四脚門としては最大級の規模を有している。新高山城を本拠としていた頃の隆景は毛利麾下の武将にすぎず、宗光寺山門のような規模が必要とされる御殿が新高山城内に存した可能性はほとんどない。本研究では宗光寺山門の移築説に対して疑問を呈した上で、隆景が宗光寺を創築した際に新築された可能性を指摘する。

4.慶長度方広寺大仏殿立面復元の考察

広島大学  井上 孝矩

 東京国立博物館蔵の「諸堂図」に収められている「洛陽大仏殿」が、慶長十七年(一六一二)に豊臣秀頼によって造営された慶長度方広寺大仏殿の建地割図であることを昨年の本学会で発表した。その後、「洛陽大仏殿」の正面と側面の立面図及び、桁行、梁間の断面図を一枚に混在させた建地割図を詳細に検討することによって、その復元立面図を作製した。その際に同史料中の記載寸法及び慶長度方広寺大仏殿の寸法を正確に記したと思われる『愚子見記』の「京大仏」と東京都立中央図書館蔵の木子文庫に収められている「京都大仏殿間尺数」、「大仏造立之記」の四史料を考察し、それらの整合性を論じた。本発表では作製した復元立面について、その意匠や構造などの建築的特徴を明らかにし、慶長度方広寺大仏殿が江戸再建の現東大寺大仏殿(国宝)の建立に対して与えた影響を明確にする。

5.慶長度津城天守の研究

広島大学  松島 悠

 津城は慶長十六年(一六一一)頃より藤堂高虎により改修され、現在の原型が完成された。『公室年譜略』はこの時点における天守の存在を否定しており、従来の研究もこれを是として天守の建造を自粛したという見方が有力であった。しかしながら、寛文二年(一六六二)の火災に際して天守が焼失したことを示す文献資料が複数存在し、また寛永年間の津城を描いたとされる津市役所本の古絵図には天守が明確に描かれている。したがって慶長期の天守の存在を一概に否定することは早計であると言わざるを得ない。慶長度の天守は本丸の南西に位置していた。建造は慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦以降、富田信高もしくは藤堂高虎によるものと推定され、三重で南東側に二重の付櫓を従えていたと考えられる。藩政期の公式記録には登場せず、非公式の三重天守すなわち御三階櫓であった可能性が示唆されるため、城郭史を論ずるうえで貴重な存在といえよう。

6.旧大國家住宅に見られる比翼入母屋造とくど造の比較

広島大学  川后 のぞみ

 旧大國家住宅の主屋に見られる比翼入母屋造は、並列する入母屋造平入の東西棟二棟に、両下造の南北棟が覆い被さることによって形成される複雑な屋根形式であり、全体では工の字形の屋根を見せている。一方、佐賀県を中心とした地域の草葺民家に見られるくど造の中には、コの字形の屋根を持ち、旧大國家住宅の主屋と酷似した立面を呈するものも存している。両者はその成立要因として、共に幕府による梁間規制を考えることができるものの、くど造が概ねその凹部を正面あるいは背面とする妻入であり、またほぼ各翼ごとに土間あるいは床上部分を当てるのに対し、旧大國家住宅に見られる比翼入母屋造は、工の字形の屋根の前方棟および後方棟に対し平入であり、土間および床上部分は棟とは無関係に配されている等、異なる点も多い。これらのことから、旧大國家住宅の主屋に見られる比翼入母屋造はくど造とは異なる独自の系統であることが推測される。

7.竪穴住居の屋根構造復元に関する試案

広島大学  三浦 正幸

 竪穴住居の屋根の主流が茅葺(草葺)であったことは確かであるが、その構造については、江戸時代の農家の屋根を参考にして復元が行われてきた。すなわち垂木の上に小舞(竹または細い木)を直交させて渡し、それを支えとして茅の束を置き並べ、細い竹で押さえて縄などで小舞と縛り付ける構造である。そうした構造は茅を葺く際の最も合理的な手法ではあるが、余りにもの時代の隔絶があり、批判も少なくない。近年、広島県で発掘された焼失竪穴住居では、小舞がなく、茅の束を垂木に直交させて直に渡していたこと、焼けて炭化した茅の上に焼土が載っていたことが分かった。茅葺の上に土を被せる竪穴住居は、近年、全国で復元されているが、土を支える茅の厚みが広島県の例では薄く、屋根として十分な防水性能がない。そこで、厚い屋根葺き茅の中に風防の目的で薄く土の層を挟んだものとする復元試案を提示したい。

8.出仕における武家服飾とその変遷

広島大学 柳川 真由美

 『二水記』の大永七年(一五二七)正月七日条には、幕府に出仕する細川高國らの着衣が悉く肩衣小袴であることに対し、「不可然之躰」「異様」との所感が述べられている。この記述から、当代における肩衣は、殿中での着用に耐えうるまでの形式昇格を遂げていなかったとされる。しかし、大永八年奥書の『宗五大双紙』をはじめとする故実書の着用制では、殿中や貴人の面前での肩衣着用が前提とされていることや、十六世紀前期には、肩衣着用の風が一部公家の間にも拡大していることから、出仕における肩衣の着用そのものが非礼に当たっていたとは考え難い。また、管見の限りでは、出仕という特定の状況下における服飾に関する先行研究は肩衣の例に限らず殆ど認められない。そこで本研究では、服飾史研究において看過されてきた記録文献上に見られる出仕の際の着衣に着目し、室町期の武家服飾における直垂・上下・肩衣の位置とその変遷への考察を試みるものとする。

9.明治期の浜子-出稼ぎ浜子- 

広島大学  村松 洋子

一、はじめに

 製塩業の近代化は、入浜・平釜という生産機構を残し、輸入塩の圧力と対応しながら形態変化を徐々に遂げ始めた。浜子は、塩業特有の労働条件を徐々に排斥し、次第に成長をとげつつあったが近代的賃金労働者に転化するまでには至らなかった。明治後期になると、雇用契約書は「前借証」以外に「誓約書」・「定約書」が付け加えられ、詳細な条文によって浜子を規制するようになった。浜子の労働形態は、夏期は浜子、冬期は酒造の蔵人職を組み合わせたものが一般的である。

二、出稼ぎ浜子

 浜子の雇用は各塩田で特色があり、赤穂塩田では塩田地帯の雇用で賄われ、松永・竹原塩田では、島嶼部からの出稼ぎ浜子、三田尻塩田は山口県大島郡からの出稼ぎ浜子を雇用したとある。今回瀬戸内海を囲む入浜塩田地帯の浜子雇用形態について調査発表する。

三、おわりに

 一部の出稼ぎ浜子は、単純労働者ではなく経営者的手腕をも兼ね備えた専門職労働者であると考えられる。