2007年度 日本史部会発表要旨

1.九世紀における相撲儀礼の変質について

広島大学  山本 佳奈

 平安時代には、年中行事として毎年正月に賭弓、七月に相撲が行われていた。これらの儀礼は共に、左右に分かれて勝負を競うものである。そこでは、勝敗にもとづいて勝負楽が奏された。九世紀における相撲儀礼の変化について通説では、初期には運営を「相撲司」が担い、二十番の取り組みを行っていたが、宇多朝を境に略儀の「召合」に変化し、運営は近衛府が行い、取り組みも十七番になったとされている。しかし、「召合」が出現するに至った経緯や、「相撲節」と「召合」の関係については十分な検討がなされていない。私は、この変化の中に、八世紀型の国家儀礼から十世紀型の宮廷儀礼への転換の様相を読み取ることが出来るのではないか、と考えている。
 そこで、本報告では、「相撲節」から「召合」への転換を、奏楽の観点から検討し、賭弓儀礼における奏楽とも比較することで、八世紀型儀礼から十世紀型儀礼への転換の様相を確認したい。また、近衛府が奏楽を担うに至った経緯の解明に、何らかの手がかりを得られたらよいと思う。

2.摂関・院政期における賀茂祭の行列

広島大学  横田 美緒

 賀茂祭は、毎年四月中酉日に行われる、賀茂別雷神社(上社)・賀茂御祖神社(下社)の例祭である。現在も「葵祭」の名で親しまれている、神社へ向かう勅使行列の華やかさは、多くの史料や文学作品に登場する。行列空間は禁制を逸脱した「過差」(華美)が競い合う、参列者と観客にとって、刺激と興奮に満ちた華麗な非日常空間であった。賀茂祭の「過差」と「過差禁制」に関する研究は多い。過差は摂関期に隆盛し、院政期には更にエスカレートする。摂関期と院政期の行列を比較すると、そこにはいくつかの違いが見られるが、この変遷についてはあまり明らかにされていない。永承年間の賀茂祭では、祭使行列の中に本来含まれていなかった餝車が登場する。時の斎院は六条斎院?子で、物語歌合を始めとする多くの歌合を主宰した人物である。
 本報告では、賀茂祭行列が変質する転換期を永承年間に求め、祭使構成及び祭儀の分析を行い、祭に対する人々の意識、朝廷・院・藤原氏と賀茂神社の関係、齋院の果たした役割等を明らかにしたい。

3.室町期安芸国における宍戸氏の動向とその意義

(財)東広島市教育文化振興事業団文化財センター 吉野 健志

 近世、萩藩筆頭家老を勤めた宍戸氏は、毛利元就と姻戚関係を結び、毛利氏一門としてその後の発展を手に入れた。一方、毛利氏と結びつく以前の宍戸氏については、家文書が伝わってないこともあって、断片的な史料や家伝をもとに語られてきた。しかし、一五世紀の史料から窺える宍戸氏と家伝の系譜に見られる宍戸氏にはほとんど一致する点がない。室町期の安芸宍戸氏には、実名に「家」の字を用いる系統と「朝」の字を用いる系統が見られるが、現状はその関係すら明らかではない。

 本報告では、一五世紀の宍戸氏関連史料を整理するとともに、その分析を通じて、宍戸氏が当該期の安芸国政治史において果たした役割について検討を行い、不明な点が多い安芸地域の戦国初頭の様相を明らかにする手がかりとしたい。

4.戦国期厳島神社の祭礼と入目について

県立広島大学  大知 徳子

 戦国期から近世初期にいたる時期の厳島神社では、天文一〇年(一五四一)の藤原神主家の滅亡、大内・陶・毛利・福島氏による厳島支配など、政治勢力の交替を度々経験している。このような政治勢力の交替が、厳島神社の内部にもさまざまな影響を与えたことはいうまでもない。なかでも神社本来の存在意義にかかわる神事・祭礼の内容や、それらを執行する祭祀組織の変化は著しい。
 本報告では、これまで棚守房顕の台頭という視角から明らかにされてきた戦国期厳島神社の内部構造の変化に関する研究成果に依拠しながら、より具体的に神事・祭礼の内容の変化、それに必要な入目の調達方法の変化、あわせて祭礼の費用を調達していた社領の変遷とその支配形態の変化などについて明らかにしたい。

5.陶氏の領主制展開とその志向性

広島大学  中司 健一

 室町・戦国期に周防国都濃郡富田を本拠とした陶氏は、大内氏重臣としてその領国経営を支える一方、隆房に至って反乱により義隆を滅ぼし大内氏権力の実権を握った。 そして重商主義的な政策を展開するなど注目される領国経営を行うが、厳島合戦にて毛利氏に滅ぼされている。 以上のような歴史的経緯をふまえると、大内氏やそれに続く毛利氏の性格を考える上で、陶氏の実体解明は重要である。しかし滅亡した家のためまとまった史料群もなく、いまだ不明な点も多い。
 本報告では陶氏の権益と権限の拡大を検討し、その発展過程を明らかにし、またその領主としての志向性を考察することとしたい。 

6.戦国大名大友氏の城下町と家臣団

九州大学  八木 直樹

 鎌倉期以来、豊後大友氏が本拠地としたのは豊後府内であった。豊後府内は室町期の守護所・守護城下町として、戦国期には当該期を代表する戦国城下町として理解される。しかし、十六世紀後半に大友義鎮(宗麟)はその伝統的な本拠地府内から同国臼杵へと居所を移転した。以降、大友氏当主の居所と政治・権力の中心が臼杵にあり、当該期の大友氏の城下町が臼杵であったことは拙稿「十六世紀後半における豊後府内・臼杵と大友氏」(『ヒストリア』二〇四号、二〇〇七年)にて明らかにした。その一方で、近年の目覚しい考古学の発掘成果は、中世府内町の爆発的な遺物の出土が十六世紀後半であったことを明らかにする。このことは、大友権力中枢機能の所在と府内における都市開発・発展の問題とがリンクしていないことを示している。
 そこで本報告では、従来の都市構造論ではなく権力論という視点から、大友権力中枢を構成する家臣団と城下町の関係について考えてみたい。

7.近世後期の他国稼ぎと村

広島大学  加納 亜由子

 本報告では、村が他国稼ぎとどのように関わったのか明らかにすることを目的と

している。越後国では一八世紀後半から他国稼ぎが隆盛し、特に関東への出稼ぎが広く行われていた。冬季は雪に閉ざされる当地域では、この他国稼ぎが小作人層の家の経営を支えており、その主な担い手は未婚の二男・三男=家や村から放出される人々であった。一方で、この他国稼ぎの隆盛に対して村の側は、他国稼ぎ隆盛に危機感を持った地主層(村役人)の働きかけにより規制を加える、あるいは村に迷惑をかけないかぎりは黙認するという対応をとったことが、これまでの研究で明らかにされている。ところで、越後国頸城郡では一九世紀半ばに松尾講が結成された。これは関東へ酒造稼に行った出稼人の扶助と村々の貧民救済を目的とした講であり、頸城郡内の大肝煎が運営に協力するなど、村役人クラスの者が運営に関与していた。
 そこで本報告では、村による規制・黙認の対象であった他国稼ぎを、一方では村にとって不可欠な生業の一つと位置づけ貧民救済のために利用しようとする動きがあったことを明らかにする。

8.文久期における長州藩の「攘夷」

大島商船高等専門学校 田口 由香

 報告者は、これまで文久期長州藩の政治動向を検討しており、文久二年藩是転換までの長州藩が、第一に「国体を立てる(国の対面を保つ=外国の侮りを受けない)」ことを課題としていたこと。課題達成のために、国是決定システムとして「将軍上洛」を必要とし、「開国」を必要としながらも、外国と一旦戦争する「攘夷(将来的開国)」を想定したこと。その背景には、清の覆轍を懸念し、現状の開国状況を打破しようとする意図があったことを指摘した(二〇〇六年度本部会発表)。しかし、近年、植民地化の危機があったのか疑問視されている。井上勝生氏は、幕末後半期におけるイギリスの中立と不介入方針などを例に、植民地化の可能性は低かったとする。そして、国際関係を前提に、急進的な政治革新を必然的なものとみる見解は再考されるべきと指摘している(『幕末・維新』岩波新書、二〇〇六年)。よって、長州藩の藩是転換と「攘夷」の目的について、あらためて検討したい。

9.幕長戦争芸州口戦の展開過程

広島大学  三宅 紹宣

 幕長戦争については、「長州戦争と明治維新」(『山口県史研究』一二、二〇〇四)において、全体像を提示し、「幕長戦争における良城隊の戦闘状況」(『山口県地方史研究』八六、二〇〇一)では、芸州口に従軍した良城隊の戦闘状況、「幕長戦争大島口戦の展開過程」(『山口県地方史研究』九四、二〇〇五)では、開戦から大島口戦の展開過程、「幕長戦争をめぐる国際問題」(『山口県地方史研究』九七、二〇〇七)では、幕府のフランスへの軍事支援要請について解明した。
 本報告は、芸州口の戦闘を中心に分析しようとするものである。分析にあたり、長州藩側の史料だけでなく、対戦した彦根・高田・和歌山・宮津藩や幕府直轄軍の史料も用い、相互に突き合わせることにより客観的把握を目指したい。また、両軍の軍夫の動員状況にも注目し、民衆動向が戦局にどのような影響を与えているかについても明らかにしたい。

10.近代安芸門徒の成立と真宗崇徳教社

京都大学  辻岡 健志

 明治一五年、西本願寺(真宗本願寺派)の仏教結社である真宗崇徳教社が、僧俗一体となった安芸門徒により設立された。教社は、明治・大正・昭和期にかけ、県内各地から募った多額の資本金を元手に、進徳教校の学校経営をはじめとする興学事業のほか、慈善・布教を含む三大事業を行い、近代安芸門徒成立の求心力となった仏教結社である。従来、こうした近代仏教結社に関する先行研究では制度面の検討に終始し、必ずしもその実態研究の蓄積が充分になされてきたとは言い難い。教団宗政の実態を明らかにする上においても、地域を基盤とする仏教結社の実態解明が必要である。
 そこで本報告では、教団の地方教化政策に着眼し、明治期における教社の設立・展開過程の分析を行い、そこから地方教区における仏教結社の実態を明らかにしたい。また、教社の設立主体である近代安芸門徒成立についても検討を試みる。

 

11.明治後期における地方名望家の社会的役割

広島大学  前浜 毅

 本報告では、地方名望家が地域社会でどのような社会的役割を担っていたのか考えるために、広島県佐伯郡の地方名望家である八田謹二郎がおこなった厳島神社保存会事業を取り上げる。地方名望家の役割に関して従来の研究では、地方政治を担い地域社会を「支配」する存在として位置づけられている。また、名望家がおこなう寄付などの地域に対する活動は「支配」と一体のものとして描かれていることが多い。しかし、本報告で取り上げる厳島神社保存会事業はそうした活動とは一線を画す活動であると考えられる。それは、この活動が「支配」するとされる地域よりも広域の範囲でおこなわれ、活動内容が史跡保存という文化的活動であるからである。そのため、この活動は地域の「支配」とは別の視点でとらえる必要がある。
 そこで、本報告では厳島神社保存会事業の内容と八田謹二郎が参加した背景を探ることで、地方名望家の活動の特質と地域社会における社会的役割を考えたい。

 

12.大正期の東亜同文書院における中国認識

広島大学  伊藤 公一

 東亜同文書院は東亜同文会を母体として一九〇一年、上海に設立された専門学校である。所属する教員・学生は、二十世紀初頭から日本の敗戦に至るまで、主に中国に関する幅広い調査・研究を行なった。そこで形成された中国認識は、出版活動や講演会、外務省・軍への調査報告書の提供、中国で活動する日本企業への学生の就職などによって流通したと考えられる。 東亜同文書院は大正期において、その中国研究のあり方を制度的・人的に整えていった。出版活動については、東亜同文書院支那研究部が雑誌『支那研究』を発刊している。また、大正期は東亜同文書院出身者が教員として母校に就職するケースが多く見られるようになる時期である。
 ゆえに本報告では、『支那研究』や東亜同文会の機関誌『支那』等を用い、大正期の東亜同文書院においていかなる中国認識が形成されたのかを考察したい。

13.国立大学に建学の精神はあるのか?-広島大学、大阪大学の場合-

大阪大学  菅 真城

 国立大学に建学の精神や理念はあるのであろうか? 私立大学の場合だと、多くは特定の創設者がおり、彼らにっよって、大学建学の精神が語られている。そして多くの場合、この建学の精神は現在においても重視され、大学のアイデンティティとなっている。一方、政府によってつくられた国立大学の場合、特定の創設者がいるわけではなく、したがって私立大学のように創設者によって建学の精神が語られることはない。しかし、国立大学法人化した現在、国立大学にはその中期目標でまず大学の理念を提示することが求められている。そして実際に中期目標に建学の精神や理念といったものを明記している。これらの大学は、法人化とともに突然建学の精神を制定したのであろうか。なかにはそのような大学が存在するかもしれないが、歴史的経緯の中で大学の建学の精神を「発見」し、「形成」していった大学も存在する。本報告では、広島大学と大阪大学の場合について考察する。