2007年度 西洋史部会発表要旨

1.前二世紀カイロネイアにおける奴隷解放からみたサラピス神の機能と役割

大阪大学  中尾 恭三

 本報告では、ヘレニズム時代にカイロネイアのサラピス神殿でおこなわれた 奴隷解放をもとに、サラピスが都市内部でになった機能と役割とを分析する。 ギリシア都市において奴隷解放行為は、古典期・アルカイック期をつうじて おこなわれてきた。しかし、それが頻繁に碑文に記録されるようになるのは、 ヘレニズム時代にいたってからである。その代表的な都市がデルポイであった。 ボイオティア地方に位置するカイロネイアでは、前2世紀にサラピスへの奴隷の 奉納・売却を手段として、奴隷を解放した記録がのこされている。これら カイロネイアでの奴隷解放をデルポイを中心とした他都市と比較し、 同都市内部でサラピスが果たした機能を検討することによって、ギリシア人が サラピスに何の役割をもとめたのか、その一面をあきらかとしていきたい。  

2.パラティヌス丘のグラフィティをめぐる一考察  

上智大学  豊田 浩志

 考古学者でイエズス会士のラッファエレ・ガッルッチ(Raffaele Garrucci: 一八一二?一八八五年)は、当時発掘中のパラティヌス丘南端に位置する 「ゲロティアヌスの邸宅」domus Gelotianaで、一八五六年十一月十一日に 土砂に埋もれた部屋の壁に奇妙な落書を発見した。これが有名な「十字架に かけられたロバ像」の落書graffito(pl.-i)で、紀元三世紀初頭、おそらく カラカッラ帝代のものと同定された。  その落書は保存のため切り取られ、当初、ローマ学院Collegio Romano内の キルヒャー博物館に収容された。その後長らくローマ国立考古学博物館で秘蔵 されてきたが、十年前のパラティヌス丘博物館の新装開館と同時に展示され、 だれでも見ることができるようになった。  本発表は、著名なわりに我が国で未だきちんと報告されていないこの落書を 紹介し、その意義について若干の考察を加えたい。  

3.ローマ期ティール碑文資料集作成に向けて

広島大学  奥山 広規

 本報告の目的は、ローマ期ティール碑文資料集作成の途中経過を報告する ことである。ティール(レバノン南部の都市、ローマ時代のテュロス、テュルス) の碑文は、J-PRey-Coquais氏によって一九七七年(発掘された碑文の解釈・ 碑文を出土区画ごとに提示)、二〇〇六年(一九七七年の資料集に未掲載の碑文の 解釈・提示)に刊行され、ティール社会の一端を覗かせたものの、碑文の提示 (分類)方法、碑文の非文字的情報の未考慮、といった問題があった。 出土区画は、遺跡の最終段階の情報を示しているに過ぎず、碑文の再利用が 頻繁に行われ、碑文の彫られているモノに複数個の碑文が存在することの珍しく ないティールでは、碑文の相互関係を理解することが困難である。そのために 本資料集では、碑文の彫られているモノによる分類の視点から、 碑文資料の再編成を行う。  

4.ルドルフス・グラベルの「世界」 -mundusorbis terrarumimperiumregnum、そして 民族-

慶應義塾大学  神崎 忠昭

 ルドルフス・グラベル(九八〇頃-一〇四六頃)は、その著作『歴史五巻』 における「千年頃、世界のほとんどすべてのところで諸教会堂が新たにされる ということが起こった。それはあたかも世界そのものがその身を揺り動かして、 老いを投げ捨て、至るところで諸教会の白い衣を纏ったごとくだった」という 記述によって有名で、千年頃の西欧を描写するのにしばしば引用される。しかし、 その一方で、荒唐無稽、エキセントリックなどとも評される。報告者は、 『歴史五巻』には多くの無意識の先入主や軽信が含まれてはいるが、その背後 には歴史書としての全体的構想が存在すると論じてきた。今報告は、『歴史五巻』 において用いられているmundusorbis terrarumなどの「世界」を表す語、 「帝国」imperiumや「王国」regnum、そしてfranchisaxoniなどの民族を表す語 を分析することによって、ルドルフスがどのように「世界」を理解していたか について検討することを目的とする。  

5.バーゼル邦における宗教改革と在俗聖職者の動向 -一五二九~一五三三年の小教会会議議事録の分析を中心に-

九州大学  森 崇浩

 一五二〇年代の上ドイツ・スイス諸都市は、ツヴィングリを中心とする改革思想 の波に洗われ、多くの都市が市制変革を伴う宗教改革を受容した。これらの諸都市 と同様に、バーゼル市も一五二九年に全領域で宗教改革を導入したが、先行研究は、 新旧両派の対立を孕んだ都市参事会の逡巡や、改革の原動力となった都市下層民 による民衆運動の解明といった、都市内部の運動に関する政治・制度史的考察に 留まっている。しかし農村領域においても、小教会会議や婚姻裁判所、及び教会 巡察を通じて新たな教義と倫理観の浸透が図られ、世俗のアムト制とあいまって 一層の臣民化が進められたことを、看過してはならない。  このため本報告では、都市邦全体を単位として宗教改革を捉えなおす立場から、 とりわけ農村領域での福音派受容に重要な役割を果たした牧師の動向に注目し、 彼らの指導・監督のために新設された小教会会議synodeを中心に、臣民の宗教改革 受容について検討したい。  

6.ドイツ絶対主義期におけるバイロイト祝祭 -ザンクト・ゲオルゲン研究-

神戸大学  川西 孝男

 バイロイトは、リヒャルト・ワーグナーのオペラを上演する祝祭音楽祭で知ら れる国際的な芸術都市である。また、第二次世界大戦期には、この祝祭がゲルマン 民族精神の象徴としてナショナリズムを鼓舞するために利用されたことでも知られる。  強烈な印象を放つワーグナー芸術や、大戦の暗黒の時代に隠れて、ワーグナーが 定住する19世紀後半以前のバイロイトは、これまで殆ど知られず、先行研究も祝祭 音楽祭を中心とした、ワーグナー以降がほとんどであった。  本発表は、ドイツ絶対主義期にあたる18世紀初頭のブランデンブルク辺境伯領の 宮廷都市バイロイトに隣接建造された離宮ザンクト・ゲオルゲンに焦点を当てている。 当時この地に栄えた祝祭文化と、この離宮に込められた高い精神性について考察 したものであり、既にバイロイトには傑出した祝祭芸術が存在したことを 例証したい。  

7.アベ・グレゴワールとフランス革命像 -革命百周年における『沈黙』の背景-

京都大学  山中 聡

 本報告は、フランス革命期に活躍した革命派僧侶の指導者アベ・グレゴワール (一七五〇-一八三一)の歴史的評価の考察を通して、フランス共和国のナショナル・ ヒストリー形成を新たな視角から捉えようとするものである。グレゴワールは一般に 奴隷制の廃止やユダヤ人への市民権付与に貢献したことで知られているが、彼はその 死後、何よりフランス革命とキリスト教の調和を生涯希求した人物として評価された。 つまり、カトリック教会と共和派が激しく対立した一九世紀フランスにおいて、その 双方に忠誠を誓った人物として描かれていたのである。彼のこのような人物像は、 共和国が進めるナショナル・ヒストリーの構築にいかなる影響を与えたのか。報告では、 革命二百周年祭の実行委員長であったJ=N・ジャヌネをして、グレゴワールが 本来ならこの行事で顕彰されるべきであったと言わしめた革命百周年祭までの展開を 一区切りに、その「記憶」の変遷を考察する。  

8.「コスモポリタンな都市」上海における参事会行政問題 -洋涇浜と蘇州江への架橋問題をめぐって-

広島大学  西野 大樹

 英米仏の租界にまたがる行政権を持つ参事会は、上海をコスモポリタンな都市に しようとして結成された。しかしながら、仏は自らの租界に固執し、英米租界は合併に よっても租界の境界を取り払えなかったため、参事会はしばしば困難に陥った。 本報告では、1860年代の英米租界を中心に据え、仏租界との境界である洋涇浜と 旧米租界との境界である、蘇州江における架橋問題を取り上げ、英米租界と仏租界との 軋轢および英米租界内における融合の困難さについて考察する。その際、英米租界の 主要議会である租地人会議と参事会会議の議論に注目する。わけても、英米租界の合併 を主導的に推進し、「土地章程改訂問題」の際には英米租界と仏租界の分離を決定 づけるなど、多大なる影響力を有していたE. カニンガムに注目する。  

9.親衛隊機関紙『黒い軍団』に見るドイツ第三帝国のジャーナリズム -編集長グンター・ダルケンの分析を中心として-

広島大学  櫛本 昂平

 ドイツ第三帝国におけるジャーナリズムの研究は、ナチスによる言論統制のあり方や それが当時の新聞・雑誌にいかなる影響を与えたのかという問題にこれまで焦点が 当てられてきた。ただし、すべての新聞・雑誌が、こうした言論統制に一律に服し、 そのため一様にナチスのプロパガンダの手段になっていたというわけではもちろんない。 例えば編集者のパーソナリティやそれに起因する編集活動など、統制という圧力以外の 「別の要因」が個々の新聞・雑誌の性格に影響を与え、それゆえ多様なものにならざるを えなかったという点がN. Frei/J. Schmitz(一九八九)によって強調されている。こうした 問題意識に基づき、M. Zeck(二〇〇二)はナチス親衛隊機関紙『黒い軍団』を、同時期の 主要な新聞の中でもとりわけ特異な事例としてとりあげ、その歴史と形態の詳細な検討を 行った。  本報告では、Zeckの議論をさらに進めて、この機関紙の編集長グンター・ダルケンの 編集活動に注目しながら、ナチス期におけるジャーナリズムのあり方を示すと同時に、 彼を単なるナチスの宣伝マンとしてではなく、「ジャーナリスト」としていかなる評価が 可能なのかを考察する。