2007年度 東洋史部会発表要旨

1.アチェにおける植民地支配の進展とウレーバランを巡る経済状況の変化

広島大学  細川 月子

 十九世紀末から二十世紀前半のアチェは、戦争とそれに続く植民地支配によって政治・経済・社会すべての側面において大きな変化を経験した。従来のアチェ史研究においては、アチェ内の勢力争いの文脈の中で、原住民首長層ウレーバランの政治的役割拡大が宗教指導者層ウラマーとの政治的対立を招いたこと、さらに政治的勢力拡大をバネにした彼らの経済力伸張が住民との関係悪化を招いたこと、などが指摘されてきた。報告者はこれまでの研究で、一九三〇年代末にかけてアチェが他のスマトラ北部地域とともに、蘭印最大の栽培地域であった東スマトラ州のための食糧生産・供給地として、植民地経済構造の中に規定されていったことを明らかにしてきた。
 本報告では、このようなアチェにおける植民地支配の進展がウレーバランの経済的・政治的役割に及ぼした影響と、それに対する彼らの対応について明らかにしたい。とりわけ、植民地体制下での彼らの収入とその配分を巡って生じた従属首長との関係変化、さらに米生産・流通への関与や市場に対する支配を通じた住民との関係変化に着目する。

2.世界恐慌下のランプン社会

広島大学  藤田 英里

 スマトラ南端のランプン地方は、一九〇五年に初めて政庁支援で移民政策が始められて以来、中ジャワ出身の大量のジャワ人移民が定着し、また西ジャワのバンテンからは季節労働者が流入した地域として知られている。こうした結果、一九二〇年代頃まではこの地域では一種の「分業体制」が成立していた。すなわち、ジャワ人移民は専ら商品作物としての水稲栽培に従事し、ランプン人はコショウやコーヒーの農園を経営し、その労働力としてバンテン人が雇用されていた。しかし一九二九年の世界恐慌以来、コショウ価格が暴落した結果、ランプン人がコショウから米の栽培へと重点を移し、またジャワから失業対策の結果として大量の移民が来るようになったため、このような分業体制に変化が生じたと考えられる。本報告では、それらが具体的にどういう風に展開し、何故そうなったのか考えてみたい。

3.疫病と伝統中国の地域社会 -南宋時代を中心に-

広島大学  岡 元司

 近年、生態環境史の研究が進展を見せており、とくに森林環境の変化については明清時代を中心に実証研究がしだいに蓄積されつつある。本報告では、そうした研究と同様に人口変化や開発が社会にもたらす影響に関心をおきつつも、さらに疫病との関わりにも対象を広げ、地域社会・基層社会の視角から南宋時代の疫病をめぐる状況に注目したい。南宋時代は、華北を金国に占領されたため、とくにその初期において、激しい人口変動を経験した。そのことは、とくに華中各地の環境に影響をもたらし、首都のおかれた臨安府やその周囲の平野部においては、疫病が多発することにもつながった。社会の不安定要因となったそれらの事態に対する王朝権力の対応、地域社会における士大夫の行動、祠廟・寺院の活動との関わりなどを分析し、疫病史研究が伝統中国社会史に対してどのような見方を盛り込めるのか、試論を提示してみたい。

4.明末清初蘇州常熟の知識人の交流

広島大学 佐長 俊和

 中国明清時代の地域社会研究において、常に知識人の存在に注意が払われてきた。明末清初では生員層が増大し、知識人の裾野が大きく広がったとされ、同時代に存在する様々な問題に知識人の活動が大きく影響を及ぼした。知識人の秩序形成過程と変遷の解明は明清研究において課題となる。

 本報告では、中国明清時代の地域社会における知識人の秩序形勢や影響力行使の背景として、B.Elmanの説く「江南学術コミュニティー」の概念を念頭に置き、江蘇常熟の銭謙益を取り上げて、文社・蔵書・出版を通した活動から知識人コミュニティーの形成をみる。また、銭謙益とその周辺の知識人集団の活動から、それらが地域社会の中で知識人の集団形成にどう影響したかを踏まえて、江南を舞台とした知識人ネットワークの広がりを時間的・空間的に考察する。

5.十六~十七世紀、明朝における火器技術交流の諸側面

西南学院大学  久芳 崇

 東アジアの歴史を概観するとき、そこに軍事技術の伝播と普及とが歴史上に及ぼした大きな影響をみることができる。なかでも、四~六世紀の北方騎馬民族の華北への進出にともなう騎馬戦術の伝播・発達とともに、火器(火薬兵器)技術の交流と普及とが、爾後の東アジアの歴史展開に重要な画期を齎らしたことは、看過すべからざる点であるといえる。強大な軍事力を背景に生起・台頭した自立性の強い諸勢力が広汎にわたり抗争・交流を繰り広げた十六~十七世紀は、火器技術の飛躍的発達に代表される火器技術の刷新期でもあった。こうした火器技術は、東アジアにおいて如何にして伝播し、受容されてゆくのか。本報告は、かかる諸側面について多元的に明らかとしようとするものである。

6.四九年革命前夜四川省の食糧問題と社会状況 

埼玉大学  笹川 裕史 

 報告者は、今年五月に『銃後の中国社会-日中戦争下の総動員と農村』(奥村哲氏との共著、岩波書店)を上梓した。同書は、国民政府の戦時の拠点である四川省を主な対象として、苛酷で粗暴な戦時動員がもたらした混乱の具体的様相を描き出し、その中から変容を遂げていく中国社会の動態を明らかにした。そして、そのような戦時下の変容が、中国共産党の政治理念や諸政策を受け入れる社会的基盤の形成につながったという見通しを提示した。しかし、この見通しをより確かなものにするためには、戦後内戦期における社会動態についても本格的に分析する必要がある。

 本報告は、そのための手がかりとして、戦後内戦期においてより深刻化する四川省の食糧問題を取り上げる。その分析を通じて、中国共産党が政権を掌握する四九年革命の前夜における社会状況の一端を提示したい。

7.張際亮と一八三〇年代禁烟論

岡山大学  新村 容子

 一八三〇年代におけるアヘン論争については、多くの研究が積み重ねられているにもかかわらず、解明されていない問題も多い。清朝のアヘン政策に転換をもたらした黄爵滋上奏(道光十八年四月・一八三八年六月)については、複数の人々が作成に関わったとされているが、どのような人々がどのように関わったのか、ほとんど明らかにされていない。本報告では、黄爵滋上奏の起草に重要な役割を果たしたと考えられる張際亮に焦点をあて、第一に、豊かな詩文の才能を有しながら、科挙に失敗し続けた張際亮は、北京でどのような人々と交流していたか、第二に、彼が各地を旅した目的は何か。特に、旅先の広東でどのような人々と交流し、何を見聞したか、第三に、有力官僚の上奏文を代筆することによって生計を立てていたと考えられる張際亮の官僚社会への不満と批判、以上の三点について考察する予定である。中国では、なぜ、対外的危機意識が外部の敵に向かうことなく、「腐敗」官僚の告発として現出したのだろうか。科挙に失敗した男性のフラストレーションと投企という切り口から考察したい。

8.第二次日韓協約の締結を大韓帝国のメディアはどう伝えたか?

県立広島大学  原田 環

 一九〇七年十一月十七日に締結された第二次日韓協約は、大韓帝国(韓国)の外交権を日本に移譲し、韓国が日本の保護国となる事を規定した条約であった。当然ながら、韓国内でこの条約に反対する運動が展開された。この条約反対運動は、それまでの運動とは異なり、李朝の否定をも志向した。そうした意味で、この条約反対運動は韓国における近代民族運動と言える。ところで、この第二次日韓協約反対運動の展開において、当時の韓国の新聞に代表されるメディアの果たした役割が大きかった。本報告では、当時の代表的な新聞の『大韓毎日申報』(一九〇四-一九一〇)における第二次日韓協約に関する報道を取り上げて、どのように条約反対運動が組織されてゆくのかを検討したい。