2008年度 文化財学・民俗学部会発表要旨

1.寝殿造における寝殿と対屋の屋根形式

広島大学  三浦 正幸

 平安時代後期から鎌倉時代にかけて、貴族や武家などの邸宅とされた寝殿造における 中心的殿舎の建築形式については、寝殿が入母屋造の平入で、片方の妻にさらに広庇 (孫庇)を縋破風で付加したもの、対屋が入母屋造の妻入と推定されてきた。その根拠 としては、「年中行事絵巻」の法住寺殿の図にそのような描写が見えること、文献史料 からは四面庇の形式であることが挙げられる。しかし、近年の川本重雄博士の研究に よれば、平安後期の寝殿造邸宅の代表例の一つである東三条殿の寝殿において、その 西庇と身舎との境の中央柱がなかったことが提示されている。そうした場合、寝殿は 間面記法上は四面庇でありながら、屋根構造上は二面庇の切妻造であった可能性を否定 できなくなる。寝殿造の祖型である、九世紀の山城高校遺跡出土の寝殿も二面庇である。 鎌倉時代の社寺建築の例も参考にして、寝殿造と対屋は切妻造の妻面に縋破風で広庇を 付けた形式であったという試案を提示したい。

2.厳島神社の竈殿について

広島大学  山口 佳巳

 厳島神社の仁安造営時の社殿を示す仁安三年(一一六八)「伊都岐島社神主佐伯 景弘解」に、「六間二面同(檜皮葺)釜神殿屋一宇」とあり、竈殿は往時より存在する 重要な社殿であることが分かる。厳島神社の社殿は、二度にわたり焼失したものの、 二度目の火災後の再建に際して材木を注文した、暦仁二年(一二三九)「伊都岐島社 未造分屋材木等注進状」が伝えられており、仁治度の付属社殿を具体的に復元考察する ことが可能である。本研究において、同文書の記述により、仁治度再建になる竈殿の 復元を行いたい。

 竈殿の基本構造は、他の仁治度付属社殿と共通するが、四方を開放とはせず、壁と 建具で囲い閉鎖空間としていた。それは神殿であるがゆえのことと考えられる。また、 同文書に「竈殿平門」の材木注文がある。仁治度において平門を伴う付属社殿は珍しく、 竈殿は格式が高く、特別な存在であったと言える。  

3.頭貫の華頭折上技法

青山学院女子短期大学  山田 岳晴

 神社建築における庇の頭貫には通常、彫刻を施さない角材が陸に渡された水引虹梁と するか、欠眉を施すなどして虹梁形とする。しかし、庇の頭貫を華頭窓状に折上げる ものが確認でき、安芸国に現存する中世玉殿では、厳島神社摂社天神社など室町時代 後期の五基の例がある。そこで本考察では、頭貫の華頭折上技法を紹介するとともに、 詳細について報告し、その特徴や建築的意義などについて考察を加えることにする。

 玉殿における頭貫の華頭折上技法は、庇の頭貫を折上げることによりその下の空間を 広くして、見世棚を使いやすくするためのものであり、安芸国では厳島大工が用いた 形式である可能性が高く、小規模建築である玉殿特有の技法であったことを指摘する。 また、安芸国以外の神社建築でも頭貫の華頭折上技法が確認でき、通常大の建築で 用いられる例があることから、中世に特有の技法であることを示すとともに、技法の 広がりについても検討したい。

4.安土城天主の外壁について

広島大学  佐藤 大規

 天守建築の外壁には、柱や長押といった木部を見せる真壁造とそれらを隠す大壁造 とがある。安土城天主の外観を知る資料は乏しいが、五階と六階については、『信長 公記』や宣教師の記録に柱の色が記していることから、真壁造であったことは 明らかで、岡山城や広島城天守の最上階と同様の形式であったことがわかる。

 しかし、天主の一階から三階(四階は屋根裏階)の外壁がどのような形式であった かは、五階や六階のような確かな資料がないので、後世の天守や安土城前後の書院造 殿舎、絵画資料、安土城以前の高級建物などを参考にして、推察するしかない。

 本発表では、安土城天主の一階から三階の外壁について、これまでの復元案の ような大壁造の下見板張ではなく、「なんばんだう(南蛮堂)の図」の二階に 見られるような板壁の真壁造であったことを示す。さらに、安土城天主の後継と なった豊臣秀吉が築いた大坂城天守との関連についても述べたい。

 5.岩国城天守の復元的研究

広島大学  高橋 優子

 岩国城は慶長十三年に吉川広家によって築城された山上の城郭と山麓の居館から 構成されていたが、山上城郭については、元和元年の一国一城令によって破却されて しまい、現存しているのは石垣の一部のみである。岩国城山上城郭は、七年の間しか 存在しなかったため、関連資料は少なく、天守指図によって知られる岩国城天守の 構造は、四重六階の南蛮造で、さらに四階平面についても下階から張り出すという ものであり、天守の歴史の上で異例であったにもかかわらず、既存の研究では古指図 による外観の言及にとどまっている。平成六年に岩国城山上城郭の発掘調査が行われ、 天守台石垣基部と天守礎石が発見された。本発表では、平成六年の発掘調査と古指図 をもとに、岩国城天守の復元考察を改めて行い、その日本近世城郭史上における 価値を明らかにする。

6.鞆の浦の町家における土間形式の変化

広島大学  川后 のぞみ

 鞆の浦(広島県福山市鞆町)は、瀬戸内海中央部の沼隈半島東南部に立地し、 『万葉集』にも謳われているように、古くより港町として繁栄した町である。 極小規模の町家が過密し、中世の町家や町並みの様相を残す貴重な遺例である。

 鞆の浦の町家における土間形式には、通り土間形式、通り土間・前土間形式、 前土間形式の三形式が認められる。これらの形式は、住人の家格や家の用途、規模、 建築年代等により異なっていたが、改造による他形式への変化も多く認められた。

 鞆の浦においては、通り土間形式が最も古い土間形式であり、前土間形式は 比較的新しい形式である。また、通り土間形式は他形式に変化しやすく、逆に、 前土間形式は他形式に変化しにくい傾向が認められた。こうした現象は、通り土間 形式が最も長い期間にわたって汎用されてきたことに加え、居住空間の拡大や玄関 機能の確保といった生活の向上の希求を反映しているものと推測される。

 7.広島県重要文化財 紙本著色仏涅槃図の修復報告/li>

三原市教育委員会  時元 省二

有限会社 墨仙堂  吉田 裕志

 本修復物件は、広島県三原市本郷町の楽音寺にこれまで伝世されたもので、平成二年に広島県重要文化財に指定され、現在は広島県立歴史博物館に寄託され管理保管されている。「仏涅槃図」は紙に描かれた涅槃図として掛幅装に装丁され、伝世の間に様々な損傷を受け、修復前の調査時には掛けて展示することも困難なほどになっていたため、平成十九年度広島県、三原市、更に住友財団の助成金を受け、有限会社 墨仙堂において保存修復処置を行った。本紙は縦に九段、横に六~八枚の紙が六十三枚継ぎ合わされた構造となっており、本紙の紙継ぎの下に隠れている墨絵部分の図様及び範囲が確認された。作品の成立年代は不明であるが、修復前の軸木銘や表具裏面の書付、更に今回の修復で発見された「軸木内部の書付」などから至徳四年(南北朝時代)の修理記録が確認され,それ以前の成立と考えられる。 

8.室町時代の将軍元服における武家の正装とその特徴

広島大学  柳川 真由美

 足利義輝の元服に関する記録『光源院殿御元服記』中で、武家が悉く肩衣袴の 姿であることは、武家服飾の変化を象徴する記述として知られている。しかし、 肩衣は近江へ向かう際の一種の旅装であり、元服の儀式で用いられた装束は、武家 の礼装である直垂と記されている。

 元服のような儀礼の場で用いられる装束は、武家の第一の礼装と言えるが、その 詳細については、これまでに言及されたことがないと思われる。本研究では、室町 時代の将軍の元服で記録が残る、足利義満以下の元服とそれに伴う儀礼に際して、 どのような装束が礼装として用いられてきたのか、その様相と変遷を考察する ものである。

 また、元服と同様に晴れの場である正月出仕では、応仁の乱以降、平時と異事 という状況の差によって、装束にも明確な区別が認められるが、元服においても 状況の如何により、諸人の装束に何らかの区別が行われていたのかという点にも 注目したい。

9.大名雛道具の意匠について

広島大学  臼井 英恵

 従来の研究では、年中行事や民間習俗としての雛祭り、あるいは雛飾りの中心と なる雛人形が主に取り上げられており、雛道具に関してはほとんど触れられて いなかった。しかし、雛道具は大名婚礼調度の一部でもあり、それぞれの道具に 蒔絵を施す際も、画題の選択や文様の配置に技巧を凝らし、鑑賞する際の美しさを 考慮した美術的に価値のあるものである。そこで、雛道具が一番華やかであった 幕末の大名雛道具の姿を明らかにするため、長門毛利家と彦根井伊家の雛道具を 取り上げ、写真撮影や実測を含めて詳しく実地調査を行った。毛利家と井伊家は ほぼ同格式で、所蔵する雛道具の年代は幕末であり、残っている点数も多いため、 この両家の雛道具の比較を試みた。また、文献で確認できる尾張徳川家、加賀 前田家、薩摩島津家の大名雛道具にも対象を広げ、婚礼道具と比較しながら、 雛道具の特色、特に雛道具の意匠について、学術的な見地より考察を加えたい。

 10.入浜塩田の作業について

広島大学  村松 洋子

 入浜塩田は開発されて以来昭和三十年代まで継続された。その作業方法について、 聞き取り調査及び近代の文献から究明する。

 作業は、準備浜・持浜(もちはま)に大別される。準備浜は、冬期休業が明けた 時期固まっている塩田地場を掘り返し、持浜の準備をする作業をいう。

 持浜は、採かん日(持浜を行う日)の作業をいう。①朝こなし②沼井(ぬい) 掘り・釜場仕事③持鍬(もちぐわ)曳は、当日持浜をする地場を馬鍬で曳く④ませ 鍬は、持浜の前に地場を曳く⑤持浜は、寄せ鍬、すくいこみ作業、土振、藻垂かえ、 晩こなし、引板かけ、潮打、水取り、汲上げ、はなえ作業で一応作業は終了する。 以上は、晴天の日の作業である。他に曇天、降雨の持浜作業は異なる。なお各工程 を大工(だいく)が細かく指図する。

 入浜塩田の作業手順は、明治三十八年の「塩専売」の実施後、専売局の指導の 下に統一の方向に進んだが、各地域の風土により、細かい部位でその地域の 特徴が窺える。

11.インドネシアにおける阿吽像の現存作例について

広島大学  伊藤 奈保子

 守門像(Dv?rap?la)として、寺院に対で安置される左右の像については、 現段階で像容や名称において規定が曖昧であり、阿吽形式の起源をインドに 遡るのは難しい。

 アジアで古くは、中国の天龍山第八窟像、日本では法隆寺中門の像があげられ るが、東南アジアの仏教圏において同時期での報告は未だない。しかし二○○七年、 ジャワ島の調査にて中部ジャワ地域、九世紀中頃のチャンディ・プラオサン (Candi Plaosan)に確認することができたので今回作例の報告とする。 インドネシアは、東南アジアで最も早くインド化した地域であり、守門像は 八世紀頃の中部ジャワ地域、仏教寺院群の石像にみられる。中でも密教の八大菩薩 を祀ったと考えられるプラオサンには、二組(四?)の守門像が在り、共に阿吽の 形式をとる。近隣のチャンディ・セウ、カラサン等の作例との比較を通し、 マタラム朝、シャイレーンドラ朝との関係性を考慮しながら重要性を確認する。