2008年度 考古部会発表要旨

1.三次盆地の旧石器文化-再報告資料の検討から-

広島県立歴史民俗資料館学芸課主任学芸員  三枝 健二

 三次盆地には,下本谷遺跡に代表される流紋岩製を中心とした石器群が分布 している。昨年度報告した下本谷遺跡配水池地点の位置付けを確認するため, 現在三次・庄原盆地で報告されている旧石器資料の再検討を行っている。  検討途上であるが,下本谷遺跡国庫補助事業の配水池地点周辺トレンチと 同最高所地点周辺トレンチから検出された石器群との間に、形態的・材質的な 差が認められた。また、三次・庄原地域の既報告資料にも最高所地点に共通 する要素などを確認した。

 これらのことから,下本谷遺跡配水池地点(流紋岩系石器群)→同最高所 地点(水晶・石英に加え安山岩・黒曜石)という、ナイフ形石器の 技術的・形態的連続を想定している。現時点では,中国山地におけるナイフ形 石器成立期の一様相として捉えているが,南関東Ⅹ層期石器文化との並行関係 を確認する要素は少なく,想定の域を出ない。

2.向泉川平(むこういずみかわひら)一号遺跡の発掘調査について

財団法人広島県教育事業団事務局埋蔵文化財調査室  沖 憲明

 向泉川平一号遺跡は、庄原市口和町向泉に所在する。中国横断自動車道 尾道松江線建設に伴い、平成二〇年四月から七月に、二一〇㎡の発掘調査 を実施した。

 この発掘調査の結果、第一文化層(縄文時代前期)、第二文化層(後期 旧石器時代ナイフ形石器文化後半期)及び第三文化層(同前半期)の 三文化層を確認した。第一文化層では集石遺構、第三文化層では配石が伴って おり、集落跡的な機能を有する遺跡として、今後、遺跡構造解明に向けた整理 作業を行う予定である。

 また、各文化層の間には、三瓶山等起源と推定される火山灰層が、良好な 状態で堆積していることから、中国地方中央部における旧石器時代石器群編年 の標識遺跡として価値付けることが可能である。

 3.東広島市高屋町溝口4号遺跡の発掘調査から

財団法人東広島市教育文化振興事業団文化財センター  吉野 健志

 東広島市高屋町溝口に所在する溝口4号遺跡は、弥生時代の環濠集落と中世 前期の集落を中心とした複合遺跡である。平成一九年度、二〇年度の二ヵ年に わたり、延べ五一〇〇㎡あまり調査した。環濠集落については、長さ約三〇m にわたって環濠を検出するとともに、環濠から内部に向かって同心円状に、 無遺構地帯、工房跡群、掘立柱建物跡群、竪穴住居跡群を検出し、環濠集落の おおよその構造を知る手がかりを掴むことができた。

 一方で、注目すべきは中世前期の集落跡である。当該期の遺構は、ほぼ南 から北に延びる微高地の西・北面を大規模な溝で囲み、内部に幅一間ほどの 道路遺構に沿って大型の掘立柱建物跡や住居状平坦面を配していた。さらに 溝の外側にまで集落の広がりを確認することができた。遺物は、奢侈品が極端 に少なく、煮炊具を中心とした調理用具がほとんどを占める。非常に興味深い 遺構群であり、その性格について、多面的に検討を加えてみることとする。

4.宮の本第二〇~二六・三一・三二号古墳の発掘調査

財団法人広島県教育事業団事務局埋蔵文化財調査室  梅本 健治

 宮の本第二〇~二六・三一・三二号古墳は三次市東部の馬洗川北岸に位置し,東西に 延びる丘陵上に立地する(標高二三九~二四八m)。

 最大規模の第二四号古墳は径三〇m,高さ四mの円墳で,墳丘斜面にはほぼ 全面に葺石を施し,下端の平坦面には円筒埴輪約一〇〇本を樹立する。二段 築成の墳頂部には東西方向に長軸をもつ三基の埋葬施設(竪穴式石室一・箱式 石棺二)が南北に並列して築かれる。

 第24号古墳の西~南~東には,径八~一六mの円墳八基が近接して 築かれるが,墳丘の頂部や裾に複数の埋葬施設(箱式石棺・石蓋土坑)を築き, 二~三点の小型鉄器(鎌・刀子・斧など)が出土する一群と,横穴式 石室・箱式石棺を埋葬施設とし,敷石(+礫床)を施し,須恵器を副葬する 一群がある。前者の一群は,箱式石棺は礫床で,ベンガラの塗布や粘土枕の 存在などが共通する。

 これら九基の古墳は,その位置関係や埋葬施設の形態・構造,副葬内容の 類似性から同一の集団により築かれたと考えられる。その時期は,第二四号古墳 が四世紀末~五世紀初頭頃,南端の第二〇・三一・三二号古墳が六世紀末~七世紀 前半頃に築かれていることから,四世紀~七世紀頃に相次いで築造された 可能性が高い。

5.広島市安佐南区所在別所古墳の調査


特定非営利活動法人ヒロシマ文化・健康サポートセンター  濵岡 大輔

 別所古墳は、広島市安佐南区八木に所在しており、調査は広島西部山系八木 地区砂防工事に伴い、平成二〇年五月から七月にかけて行った。本古墳は、 阿武山から南東方向に派生した標高約八五mの尾根上に位置しており、 調査前は天井石が一つのみ露出している状況であった。

 調査の結果、石室においては中世期の盗掘・天井石の持ち去り等の影響に より、部分的な崩壊が認められたが、南方向に開口する無袖式の主軸長約四m の横穴式石室であることと、墳丘は石室開口部からは外護列石が廻り、長辺が 約五mの方形もしくはやや楕円形に近い平面形態であることを確認した。築造 時期については出土遺物が少なかったため明らかではないが、墳丘・石室等の 特徴からすると六世紀後半から七世紀前半までの時期が考えられる。

6.福山市新市町矢立遺跡発掘調査について

福山市あしな文化財センター  内田 実

 矢立遺跡は福山市新市町常に所在し,県道金丸府中線道路改良工事に伴い 八三〇㎡を対象に,二〇〇七年二月一三日~三月三一日, 四月一九日~九月 三〇日の期間で発掘調査を実施した。その結果,掘立柱建物跡一棟,炉跡 一四ヶ所,土器溜まり一ヶ所(弥生時代),土坑などの遺構が確認された。

 炉跡のうち,少なくとも九ヶ所は鍛冶炉とみられ,直線上に七ヶ所の炉跡が 並ぶSX2a~SX2gは,「官営鍛冶工房」と呼ばれる遺構の形態を示して いる。この遺構は県内では初の検出例であり,周辺で出土した土器から, 八世紀後半~九世紀の遺構と推定されたが,炭化物年代測定は六世紀半ば~ 七世紀半ばの値を示している。

 鍛冶関連の遺物として,鋤先・刀子の一部などの鉄製品,鉄滓,金床石, 砥石などが出土したほか,弥生土器・土師器・須恵器などの土器類,土錘 一〇〇点以上が出土した。今年度遺物整理を実施し,遺構の年代の問題も 含めて検討する。

7.東広島市福富町戸鼻遺跡の発掘調査

財団法人東広島市教育文化振興事業団文化財センター  佐武 壮太

 本遺跡の発掘調査は沼田川河川総合開発事業(福富ダム)に伴い、平成 一九年五月~一〇月の六ヶ月間実施した。本遺跡は東広島市福富町久芳に 所在する。福富ダムの水没地域内に位置し、沼田川の支流である押谷川を 見下ろす台地の縁辺部に営まれた集落跡である。

 調査の結果、中世の竪穴住居状遺構、掘立柱建物跡、土坑、近世の 道路状遺構等を検出した。遺物は縄文土器、土師器、土師質土器、陶磁器等 が出土した。

 中世の集落は、竪穴住居状遺溝を中心に構成されている。遺溝は浅い 摺鉢状を呈し、床面は平坦であり柱穴はないが、住居遺溝と推定できる。 時期は一六世紀前半である。そのほか、近世の幹線道路が見つかっている。 また、早期の押型文土器が出土している。外面がポジティブの楕円文,内面 がネガティブ楕円文である点や,口縁部端面には撚糸の圧痕が施されている ことなどから、神宮寺式のものと思われる。

8.『能海寛著作集』に見える坪井正五郎の人類学講義録

島根県立大学名誉教授  横田 禎昭

 今から一〇八年前、厳重な鎖国主義のチベットに日本人として始めて入った 能海寛という僧侶がいた。能海は島根県金城町長田村の浄蓮寺の出身で、広島の 進徳教校(現祟徳学園)で学び、その後、京都の西本願寺普通教校(現龍谷大学)、 さらに東京の慶応義塾、哲学館(現東洋大学)で勉学した学僧である。能海の西蔵 入りの目的は、インドから直伝した経典の西蔵語訳の『西蔵大蔵経』を求めること にあり、東本願寺の派遣僧として明治三一年に神戸を発ち、同三四年雲南からの 進蔵を試み、消息を絶った。

 坪井正五郎は明治二五年一〇月英国留学から帰国、翌二六年九月東京理科大学に 開設された人類学講座の初代教授に就任。能海が東京で坪井から、人類学の講義を 明治二六年一月から数回にわたり受けた講義録は、帰朝後の坪井の最も早い時期の 人類学の講義内容を知る貴重な史料と言える。