200年度 部会発表要旨

1.九世紀の宮廷儀礼と雅楽寮・近衛府の奏楽

広島大学  山本 佳奈

 九世紀から十世紀にかけて、律令国家の宮廷儀礼の中心的奏楽機関であった 雅楽寮が徐々に縮小していくのに対し、近衛府は奏楽機関としての役割を拡大 させていく。しかし、近衛府の奏楽機関としての機能拡大が直接雅楽寮の衰退 を招いたわけではない。両者の対照的関係の背景にはそれぞれが奏楽を担って いた国家儀礼体系あるいは儀礼構造の転換が想定されなければならない。また、 近衛府はその本来的職掌から軍事的側面が重視され、芸能的役割は評価され にくい。だが、芸能機関としての近衛府の機能拡大は、儀礼において近衛府が 本来有していた「儀仗」との関連で評価しなければ説明できない。

 本報告では、九・十世紀の奏楽をともなう儀礼・行事を奏楽機関である 雅楽寮・近衛府を基準に分類して検討することによって、それぞれの儀礼・行事 の性格や意味、雅楽寮と近衛府が奏楽を担うこととの関係を明らかにし、 奏楽機関としての近衛府の成立と拡大、近衛府と雅楽寮の対照的関係の要因に 迫りたい。  

2.王朝国家の受領統制政策-受領功過定の再検討を中心に-

広島大学  津野 太紀

 王朝国家の諸国支配の特質として、中央政府の受領国司に対する任国内支配の 委任があげられる。これは中央政府が諸国支配を放棄したことを意味するもの ではない。中央政府は受領功過定という任期を終えた受領のいわば成績判定会議 を行うことによって統制を行っていたのであった。功過定は延喜十五年に制度的 に成立したとされ、近年、主に国家的な収取制度との関連で言及されることが 多くなってきている。功過定については、公文勘済の年限の確認にその主眼が 置かれ、十一世紀以降は正税官物の減省に伴って勘解由使勘文の審議の意義も 小さくなり、その結果として受領統制面における意義も減少したと評価する 見解がある。その一方で、十世紀末・十一世紀初頭に行われた財政改革に伴って 一層の整備が図られたとする見解もある。これらの見解の相違は、功過定それ自体 を考察の対象にした基礎的な研究が十分ではないことに起因するものであると 考えられる。

 そこで本報告では、受領功過定それ自体の成立・構造・目的・監査基準、更には、 変質・形骸化の過程に検討を加えることで、功過定の基本的性格の解明を試みたい。  

3.宇治における摂関家の儀礼

広島大学  尻池 由佳

 末法初年にあたる永承七年(1052)に宇治平等院が創建されて以来、頼通やその 子孫たちは、様々な法会や儀礼を行ったり、別業を営んだりしていたことが古記録 などから確認できる。また、近年の発掘調査では、平等院を中心とした都市的景観 が十二世紀前半に整備されたという可能性が指摘されている。この都市的景観の 中心にあった平等院は、法成寺とともに数ある摂関家氏寺のなかでも、特に摂関家 と密接な関係にあった。この平等院において、延久元年(一〇六九)に始行された 平等院一切経会と、摂関藤氏長者の「宇治入り」(就任後初めて平等院へ参入する儀) が鎌倉時代に至るまで行われていた。これまでの研究では、これら宇治平等院を 舞台とする摂関家儀礼に摂関家がどのように関与していたのか、またこれらの儀礼 が摂関家にとってどのような意味を持っていたのかについて、未だ十分に解明 されているとは言い難い。

 本報告では、中心舞台となる平等院経蔵(宝蔵)の開閉に携わる人々や儀礼への 参会者などの検討を通して、これら儀礼の意義について考察したい。  

4.陶氏の家政経済

広島大学  中司 健一

 国守進氏が学界に紹介された「松江八幡宮蔵天文十二年大般若経紙背断簡文書」は、 興味深い内容を有する史料を多く含むが、まだあまり利用されていない。

 そこで本報告では、同文書群を有効に活用するため、収録されている文書の機能を 分析し、分類し、また同文書群の成立について考察することを第一の目的とする。

 また、国守氏は同文書群について、「陶氏の家政文書が中心を為している」と指摘 している。この指摘のとおり、同文書群からは陶氏の家政のあり方がうかがわれる。

 そこで本報告の第二の目的として、陶氏の家政機関・家政経済の実態について分析 することとしたい。

 以上の目的を達成するため、本報告では次のような構成をとる。

 まず、同文書群に関連史料がまとまって見られる僧侶梵祐に着目し、文書の動きを 考察して、同文書群に含まれる文書の機能を解明し、同文書群の成立過程を考察する。

 次に、「納所」と呼ばれた存在に着目し、陶氏の家政経済のあり方について 考察する。

 さらに、「納所」や陶氏の代官、「政所」と呼ばれる機関の実態について考察し、 陶氏の家政機関の構造を明らかにする。

 こうした考察を踏まえて、クーデター以前の陶氏家政の性格を論じたい。  

 5.戦国大名毛利氏の石見銀山・温泉津支配

広島大学  本多 博之

 昨年七月、ユネスコの世界遺産に登録された石見銀山については、小葉田淳氏を はじめとして、従来多くの人々によって研究成果が蓄積されている。特に近年は、 秋山伸隆氏によって銀山奉行の変遷や豊臣期における銀山の領有状況、そして 松岡(和田)美幸氏によって慶長年間の毛利氏による銀山支配の仕組みが具体的に 明らかにされた。しかし、一方で依然未解明の問題も残されており、新たに確認 された史料をもとに改めて検討する必要性を感じる。そこで本報告では、 石見銀山・温泉津関係の新史料の紹介を兼ね、毛利氏の石見銀山・温泉津支配、特に 後者の温泉津支配について明らかにしたい。具体的には、まず石見石田氏の領主的 性格と温泉津奉行との関係、続いて鵜()の丸城の築城や温泉津奉行の居所の問題、 そして最後に毛利輝元の家督継承と温泉津支配について述べることにする。   

6.松江藩における享保七年の鉄山政策

松江工業高等専門学校 鳥谷 智文

 松江藩における鉄山政策については武井博明氏、土井作治氏、高橋一郎氏らの研究 があるが、その中で享保十一年(一七二六)に発令された「鉄方法式」については 研究が進んでいる。しかし、享保七年(一七二二)の段階での鉄山政策の変更に ついては、「鉄方買鉄制(藩による鉄買上制、鉄専売制)の廃止」ととらえられ、 また、同年秋、綿屋(田部)長右衛門が「鉄方頭取」に就任したことを記すのみに とどまっている。

 本報告では、享保七年における鉄山政策の状況を文化十三年(一八一六)に記した と考えられる「鑪御法被仰出候御書付写シ」(櫻井家文書)により、鉄方買鉄制から 私売鉄制(鉄師による鉄販売)への転換に際し、田部家が関与していることを示す。

 また、同年秋に綿屋(田部)長右衛門が「鉄方頭取」に就任し、領内各所の 鈩・鍛冶場を巡廻するなど「鉄方頭取」の具体的な任務について示すことにより、 享保七年における松江藩の鉄山政策の概要について述べてみたい。  

 7.近世後期萩藩領上関における「浦修甫」と地域経済

広島大学 下向井 紀彦

 萩藩では、藩の諸役局から郡村にいたるまで、米銀を貸付け、その利米銀を予算 不足補充や予算外支出、扶助救済などの支出にあてる「修甫米銀」という制度が 行われていた。「浦修甫」は港町での「修甫」の一種である。

 上関は朝鮮通信使や諸大名の参勤交代の寄港地として知られ、他国廻船の商品取引 で成り立つ土地であった。上関とその対岸の室津で実施された浦修甫では、他国廻船 への銀貸付による利銀や問屋・茶屋の歩銀が修甫元本にあてられ、他国廻船相手の 取引・貸付・娯楽提供から得られる利益を地域に還元するという特色がみられる。 従来、上関の浦修甫は、藩の流通政策との関連で論じられてきたが、地域経済の視点 に立った具体的分析は不十分であるといえる。また、上関・室津地域を対象とした 研究も多くはない。

 そこで本報告では、当該地域の諸家文書を活用しながら、上関・室津の浦修甫の 実施状況を地域経済の視点に立って検討したい。  

 8.近世後期における漂着異国人の送還制度と地域-海防体制の視点から-

広島大学・新居浜工業高等専門学校  鴨頭 俊宏

 江戸幕府は国内漂着異国人について、まず長崎に移送し、そこから本国へ送還する 制度を実施した。長崎移送にあたっては、幕府の勘定奉行が浦触を発給し、直接、 移送経路に関係する浦の人々にこれを補助させた。日本近世史研究ではその移送を、 基本的には幕藩体制における支配構造の分析素材として捉えてきたのだが、一九九〇 年代、東アジア海域の秩序やネットワークなどの問題が本格提起されてからは、 敷衍し国家の海防体制の分析素材として捉えようとする動きも見られるようになった。 たしかにその移送自体は、海防に関する制度の一つであることに相違ないのだが、 実際の補助行為は必ずしもこれを念頭に置くものではなかった。管見、領主(藩)も 浦の人々も、引率する漂着地の藩役人を念頭に置いていたのである。

 すなわち浦々の地域では、その藩役人への馳走を目的に移送情報を補完・共有する 態勢が整えられることとなったわけだが、本報告では、近世後期における海防体制の 実体を、幕府の送還政策と瀬戸内海地域の馳走態勢との関係解明により提起したい。  

 9.元治・慶応期の久留米藩の政治的スタンス-京都留守居久徳与十郎日記から-

広島大学  古賀 義邦

 幕末期久留米藩の政治史研究は、真木和泉ら藩内尊攘派を中心に行われ久留米藩は 日和見藩と評価された。元治以降の動向については、殆ど研究が行われていない状況 である。また近年では、一会桑と久留米藩周旋方との関係について言及した研究が 行われているが、それは中央政局から見た久留米藩の研究である。いずれにしても 元治以降の久留米藩の具体的動向については明らかになっていない。よって元治・ 慶応期に国事周旋役・京都留守居であった久徳与十郎の日記を使い、久留米藩の 政治的スタンスを明らかにする。

 久留米藩は、元治以降長州藩とは関係を断ち、また薩摩藩とも慶応に入り共同歩調 をとる事はなくなった。また一会桑との関係も、将軍家茂進発問題や条約勅許問題 などでは、共同歩調をとり周旋活動を行ったが、第二次長州出兵から慶喜将軍就任を 巡る活動の中で一会桑への不信感が出てくる。それが京都留守居久徳与十郎への帰国 命令、京都での活動規模の縮小、藩内の軍備増強の邁進へと繋がっていく。従来 日和見とされていた久留米藩であるが、薩長や一会桑とも共同歩調をとらず政治的に 中立という政治的スタンスをとったのではないかという事を本報告で明らかにしたい と考える。  

 10.幕長戦争小倉口戦争の展開過程

広島大学  三宅 紹宣

 幕長戦争については、これまで「長州戦争と明治維新」(『山口県史研究』一二、 二〇〇四)において、全体像を提示し、「幕長戦争における良城隊の戦闘状況」 (『山口県地方史研究』八六、二〇〇一)では、芸州口に従軍した良城隊の戦闘状況、 「幕長戦争大島口戦の展開過程」(『山口県地方史研究』九四、二〇〇五)では、 開戦から大島口戦の展開過程、「幕長戦争をめぐる国際問題」(『山口県地方史研究』 九七、二〇〇七)では、幕府のフランスへの軍事支援要請について解明した。

 本報告は、小倉口戦争について、対戦した征長軍と長州軍の史料を相互に突き合わ せることによって、戦争過程の客観的分析を深めたい。その上で、征長軍と長州軍の 兵器や戦術を比較検討し、とりわけ長州軍が駆使した散兵戦術の意義を明らかに したい。また、戦争の背後における村落の動向についても触れ、戦争を総合的に 解明したい。  

 11.国民優生法成立の再検討

九州大学  横山 尊

 本報告は、一九四〇年に制定された国民優生法およびその周辺の議論に関する枠組み について再検討を行う。

 同法もアメリカやドイツ、北欧諸国で制定された断種法と同じく、優生思想のもとに 「不良な子孫」の出生防止を掲げた。一九三三年にナチス断種法が制定された翌年の 一九三四年の六五議会に「民族優生保護法案」が衆議院議員の荒川五郎により提出 されたのを皮切りに、六七、七〇、七三、七四議会にも提出されたが通過せず、 七五議会で政府提出法案として通過した。

 国民優生法の先行研究は多いが、本報告は代表的な松原洋子氏の議論に注目する。 氏の議論の貢献は、一九四六年に制定され、九六年まで存続した優生保護法は「ナチス 断種法をまねた戦前の国民優生法」の優生思想を引きついだとの俗説を否定し、 「優生法の系譜」というモデルを提示した点にある。しかしその論証には不服とする 点が多い。本報告では、そのモデルを再検討し、報告者なりの優生法のイメージを 提示したい。