2008年度 西洋史部会発表要旨

1.アイトリア人の政治軍事的動向と傭兵活動

広島商船高等専門学校 小河 浩

 ギリシア中西部のアイトリアは部族連合からポリスへの移行の遅れた後進地域 とされてきた。特に彼らはヘレニズム時代に海賊・傭兵の一大産地としてクレタ と並ぶ存在と見なされてきた。このような史料上の偏見をそのまま受け入れた ような見解は近年全面的に見直されつつある。しかし傭兵活動は彼らの生計手段 としてマイナーなものにすぎないとする説や、アイトリアには長い傭兵的伝統が 存在すると見る説など、その評価には一致しない部分がある。 本発表では部族連合段階と連邦段階のアイトリア人の政治軍事的動向と傭兵活動 とを比較検討する。部族連合段階のアイトリア人は傭兵活動をほとんど行わず、 むしろ政治的に洗練され、ポリス化の進んだ連邦段階で彼らの傭兵活動が 活発化することを明らかにする。

2.一〇-十一世紀クリュニー修道院と在地領主 
‐Saint-Gengoux-le-National関連諸権利に見る紛争とその解決‐

九州大学  法花津 晃

 B. H. ローズンワインによれば、10世紀から11世紀前半のクリュニー修道士と 在地領主の紛争は、土地のギブアンドテイクから生じる両者の友誼関係に 基づいて穏便に処理されたという。本報告の目的は、このローズンワインの紛争 解決モデルが持つ妥当性を再検討することである。分析対象として、当該期に Saint-Gengoux-le-National周辺において諸権利を所持していたカペラ一族を 取り上げる。その際、①サン・ジャングー教会の相互贈与により形成される カペラ一族とクリュニー修道士の友誼関係の構築過程、②この友誼関係が両者の 紛争解決において果たした役割の二点に着目して分析を試みたい。以上の 考察から、ローゼンワインの紛争解決のモデルは当該期のカペラ一族と クリュニー修道士の紛争解決においてもある程度の妥当性を持つ、 と結論づけられる。

3.十二世紀ルネサンスとドイツ東部辺境地帯 ‐バイロイト創設の背景から‐

京都大学  川西 孝男

 ハスキンズが提唱した「十二世紀ルネサンス」は今日、西洋の司教座都市や 商業の発展といった内在的要因によるものから、アラビア圏からの外的な影響に よって大きな変革がもたらされたという視点に移行している。しかしながら、 十二世紀ルネサンスの中心は西洋側の地中海沿岸都市とされており、アルプス 以北、特に当時のドイツそして神聖ローマの中心地であったドイツ東部辺境への 影響について論じたものは少ない。
 本論は当時創設された東部辺境の都市バイロイトに焦点を当てている。この 近郊には十一世紀初頭にハインリヒ二世によって司教座都市バンベルクが創設 されて「アルプス以北のローマ」として皇帝居住地となり、すでに当時最高の 文物が「ドイツ・ゲルマンの地」と言い得るこの一帯にもたらされていた。                                                       
 今日、国際的な祝祭芸術都市として知られるバイロイト創設の背景を検証し つつ、十二世紀ルネサンスとゲルマンの地との関わりについて考察したい。

4.シャルル八世と狩猟術の書 ‐G. タルディフ『鷹狩り術と猟犬の書』の初版と写本(MS Hunter 269)の成立をめぐって‐

大阪大学  頼 順子

 中世後期のフランスでは俗語の狩猟術の書が流行した。中世の狩猟術の書研究 は文学、文献学分野におけるテクスト分析と校訂が中心で、狩猟術の書流行の 社会的、歴史的背景はあまり検討されてこなかった。                                       

 本報告では、G. タルディフ『鷹狩り術と猟犬の書』を取り上げる。狩猟本が 多数出回っていた中世末期、フランス王シャルル8世は侍読のタルディフに あらたな狩猟術の書の編纂を命じた。タルディフは1493年、A.ヴェラールから 刊行された初版を献上したが、王は後年豪華彩色写本を製作させた。当時、狩猟 と書物の所持は特権的なことと認識されていた。活版印刷術が導入された時代に おいてなお、自らのために書かれた狩猟術の書の豪華彩色写本を持つことは、 権威と権力を象徴する上で特別な意味を持っていたと考えられる。

5.「ハジャチ合意」(1658-59)にみるルテニア国家像‐ポーランド=リトアニア国家とコサック‐

京都大学  福嶋 千穂

 近世の「共和国(ジェチポスポリタ)」はポーランド王国とリトアニア大公国 の連合に基づく連邦国家であった。ポーランド東部とリトアニア南部にまたがる 一帯はルテニア(ルシ)と呼ばれ、固有の言語と教会を有していたものの、 「共和国」においては独立した行政区分を成さなかった。17世紀半ばに至ると、 そのルテニアに国家形成の可能性が生じる。軍事力を蓄えた ウクライナ・コサックが蜂起に成功し、「共和国」貴族の支配からルテニア東部 を「開放」し、事実上の独立が達成されたのである。コサックはモスクワ大公国 への臣従を表明し(1654)、「共和国」からの離脱の意向を明らかにする。 その一方で、コサック統治を「共和国」の枠内で体制化する試みも進行していた。 本発表では、その動きの集大成といえる「ハジャチ合意(1658-9)」を取り上げ、 ルテニアにおける国家形成の理念と、複合国家としての「共和国」とを考える。

 6.死後財産目録がおしえる日常生活 ‐十八世紀、レンヌ市および周辺農村‐

慶應義塾大学  藤田 苑子

 前近代フランス社会において、両親のどちらかが未成年の子どもを残して死亡 することは頻繁に起こった。そのような場合に、ブルターニュ慣習法は 生き残った配偶者に対して死後財産目録の作成を命じている。死後財産目録とは、 死亡した者が遺した動産について鑑定人が値をつけ、文書類とともに裁判所の 書記が記録した文書である。この史料は、調理用具・食器、衣?、寝具、家具 など住居内にある物品にはじまり、紊屋、穀倉、畑におよぶすべての動産に かかわるので、過去の日常生活の全般について知るための絶好の材料を提供 してくれる。

 報告者は「十八世紀を通じて生活上の快適さが増した」という仮説にもとづいて、 ブルターニュ東部のレンヌ市およびその周辺農村の死後財産目録を調査中であり、 本報告はその中間報告である。

7.フランス革命における聖職者の結婚と市民性の問題

鳥取大学  柳原 邦光

 フランス革命では、約6000名ものカトリック聖職者が教会規律に反して結婚し、 その多くが非キリスト教化運動期(1793‐94年)に強制されて行われたものと されている。しかしながら、聖職者の結婚のクロノロジーを見れば、この運動の 前後にも、少数とはいえ、確認できるし、聖職者の結婚自体は革命の初期から 議論の的になっていた。したがって、この現象はフランス革命全体の文脈の中で 捉えなければならない。

 また、聖職者に限らず、結婚そのものが新たな意味を帯びるようになっていた ことも併せて考えれば、カトリック聖職者の結婚問題は、この運動の前後の時期 も含めて、新しい家族と市民の創出という、フランス革命の重要課題との関係に おいて、考察すべきである。本報告では、当時の議論と結婚聖職者自身の ディスクールから、聖職者の結婚と市民性(citoyennete)との関係を考える。