2008年度 東洋史部会発表要旨 |
1.贛江中流域における地域開発と在地有力者集団 ‐宋~明初を中心として‐ 広島大学 川合 康浩
これまでの江西に関する主な先行研究では、いわゆる「健訟」の問題のほかにも、 教育・経済などの諸方面においていくつかの興味ぶかい実績があげられている。
だがこれらの成果では長期的視野に立った見解をかならずしも示しえておらず、 そのような状況の一因となったであろう地域開発の観点からの検討・考察がいまだ 十分になされているとは言い難い。さらに言えばこのような傾向は、江西が
宋末元初において少なからぬ動揺と打撃を受けたにもかかわらず、当地の出身者が なぜ明代の政界、あるいは思想界においてなお一定の存在感を示しえたのかという 疑への答えを見いだしにくくしているようにも思われる。
本報告では唐末から明の間に様々な面において大きな変貌を見せた贛江中流域 (現在の江西省吉安市を中心とする一帯) を対象として、当地における人々の
移住や、水利施設の建設に代表されるような地域開発の状況を概観する。また定住 した人々がそこにおいてどのように根付き、またどのように行動したのかを明らか
にすることで、当地域の変遷の要因とその帰結を検討してみたい。
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2.六朝江南の郷里と「孝」 九州大学 戸川 貴行
六朝史においては、郷里が極めて大きな意味をもつ。なぜなら、この時代は九品 官人法に端的に見られるように、郷里において評判を得た者が政治、社会的な
影響力をもったとされるからである。
では、表題に掲げた六朝江南の郷里とは、具体的に如何なるものであったので あろうか。近年、この問題について、谷川道雄、中村圭爾両氏の間で論争が
行われた。前者は郷里について、血縁、地縁という確固たる人間関係で結ばれる 宗族、郷党で構成されていたとする。一方、後者は豪族層がその支配を補完すべく 主導した共同的社会とする。 しかし、私見では、江南の郷里は華北に比べれば、宗族、郷党の関係が極めて 希薄であり、豪族層だけでなく一般の庶民も含めた形で、銭貨を使用した互助が
行われていた。右は従来の貴族制研究の有効性如何という問題にもつながる。この 点について、本報告では前近代の中国で重要な価値観の一つである「孝」を
手がかりとして考えていきたい。
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2.六朝江南の郷里と「孝」 九州大学 戸川 貴行
六朝史においては、郷里が極めて大きな意味をもつ。なぜなら、この時代は九品 官人法に端的に見られるように、郷里において評判を得た者が政治、社会的な
影響力をもったとされるからである。
では、表題に掲げた六朝江南の郷里とは、具体的に如何なるものであったので あろうか。近年、この問題について、谷川道雄、中村圭爾両氏の間で論争が
行われた。前者は郷里について、血縁、地縁という確固たる人間関係で結ばれる 宗族、郷党で構成されていたとする。一方、後者は豪族層がその支配を補完すべく 主導した共同的社会とする。 しかし、私見では、江南の郷里は華北に比べれば、宗族、郷党の関係が極めて 希薄であり、豪族層だけでなく一般の庶民も含めた形で、銭貨を使用した互助が
行われていた。右は従来の貴族制研究の有効性如何という問題にもつながる。この 点について、本報告では前近代の中国で重要な価値観の一つである「孝」を
手がかりとして考えていきたい。
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3.唐宋時代史研究における節度使=藩鎮=軍閥概念の再検討 福岡大学 山根 直生
近年、中国近代史研究においては「軍閥warlord」という用語・概念に関して 再検討が進められているという。元来この語の帯びていた反統一的・反中央的存在と
いう否定的なレッテルは、次代の政権の正当性を無批判に認めることの裏返しであり、 その批判的再考は論理的に妥当であろう。 ひるがえって中国前近代史、とりわけ政治的動乱の続いた安史の乱以降の唐代・ 五代・宋初の研究においては、節度使・藩鎮に関して依然「軍閥」の語が多用されて
いるように思う。しかしたとえ近代史でのような否定的な意味合いがなくとも、 「軍閥」としてそれを解することに問題はないのだろうか。まずは研究史をたどり、
欧陽脩ら宋人の理解、「軍閥跋扈」を同時代人として目撃しつつ節度使・藩鎮の研究 を切りひらいた日野開三郎氏の理解、そして中国封建制の上徹底な主体として藩鎮を
とらえた戦後日本の研究での理解を再考する。史上の実態としての「藩鎮」の限定性、 支配領域を形成するに至らず「藩鎮」と呼ばれることもなかったより多数の節度使の
社会的実態とその意義について考えたい。
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4.元朝初期の南海貿易と行省 ‐マングタイの市舶行政関与とその背景‐ 大阪大学 向 正樹 「行省」の任を帯びて福建経略を担当し,至元十四(一二七七)年,元朝の支配下 に入った直後の泉州の市舶司を兼任したマングタイは,至元二十一年に江淮行省
平章政事となった後も市舶行政と関わり続け,貿易船の拿捕等を行っている。その 背景として,①マングタイの沿海部における軍事的勢力,②至元二十一年に
福建等処塩課市舶都転運司の長に赴任した兄のジャライルタイとの繋がり,などが 挙げられよう。一方,③元朝初期には,行省などの官人が私的に交易に関与すること
が明確に禁じられておらず,マングタイ自身が貿易にかかわっていた可能性も排除で きない。しかし,④マングタイは決して私的海上勢力ではなく,入覲して臣下の礼を
行い,クビライの指示を直に受ける直属の臣でもあった。①~④の実態の考察を 通じて,カアンの貿易支配という吊目下で公私の様々な主体が参入ないし介入しえた
元朝初期の海上貿易像を提示してみたい。
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5.アユタヤ時代の清朝への朝貢使節 広島大学 田中 玄経 タイのアユタヤ(プラサートトン王家)が、最初に清に対して使節を送ったのは、 順治九年(一六五二)十二月の事であった。この時にアユタヤは清朝に対して冊封と 貿易を願い出た。そして、最初に朝貢と認められるのは康煕四年(一六六五)のこと であり、この時に表文を持ってきた正貢使の吊前は握坤司吝喇耶低邁礼であった。 彼の吊前は本吊ではなく、アユタヤ国王から与えられた欽賜吊であり、初めの 握坤は、「オーククン」という爵位に一般的に当てはめられる。やがて、アユタヤ 国内の政変により、プラサートトン王家から、バーン・プルールアン王家へとその 権力が移ると、それまで使われていた「オーククン」などのクメール語源の爵位は 使われなくなり、新たに「ルアン」などの単語に置き換えられた。以後正貢使として 通常送られるのはその「ルアン」であった。本発表では、それらを踏まえて朝貢使節 として訪れた彼等はアユタヤ国内において一体どのような人物であったのか、朝貢品 や回賜の品などとあわせて少しく考察を加えてみようと思う。
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6.ベトナム鄭氏政権の成立過程に関する一考察 京都大学 蓮田 隆志
政治体制という観点から見るとき、ベトナム後期黎朝の最大の特徴は、皇帝黎氏は 政治的権力を持たない吊目上の存在にすぎず、そのもとで王号を代々世襲する鄭氏が
実権を握る政治体制にある。ときに江戸期日本の朝幕関係にも比せられるこの特異な 政治体制の分析は、単にベトナム史のみに留まらず、近世東・東南アジア諸政体の 比較史ならびに関係史、さらにはそれを通じての広域史構築にとって上可欠である。
開国功臣という吊門軍事貴族の連合体だった後期黎朝は、布衣より立身した鄭検の 権力掌握によりその性格を大きく変化させ、ついには鄭氏による権力世襲へと至った。
本報告の目的は、鄭検が登場した時代的背景にはじまり、鄭検による奪権とそれに 伴う政権構造の変容、鄭検とその後継者鄭松二代を通じての政敵の排除および 権力・権威を確立させていった過程などを跡づけることにより、かかる政治体制の
成立史の一端を復元することにある。
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7.冀魯豫区の軍事動員と民俗・象徴・セレモニー 広島大学 丸田 孝志 日中戦争から内戦期にかけての中国共産党の冀魯豫区根拠地は、国共両党、日本軍、 傀儡軍、会党、土匪の諸勢力が複雑に交錯、交替する極めて上安定な地域であった。
本報告は、軍事力が生存に決定的な要因となる根拠地において行われた根拠地建設と 軍事動員の過程を、大衆の生活・信仰に関わる、民俗・象徴・儀礼の組織の状況との
関係において考察する。国民政府統治区の軍事動員の過酷な実態は、中国の社会構造 との関係において明らかにされつつあるが(笹川祐史・奥村哲『銃後の中国社会
―日中戦争下の総動員―』,岩波書店,2007年など)、中共根拠地の軍事動員の 実態や、民俗・生活と関わる形での軍事動員の問題については、未解明な部分が多い。
本報告では、党内文書、党機関紙の他、軍区の新聞資料を利用して、これらの問題に ついて検討する。
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8.国共内戦期・中国共産党による兵器生産 ‐大連建新公司を中心に‐ 下関市立大学 飯塚 靖 |