2009年度 文化財学・民俗学部会発表要旨 |
1.層塔の高さと野屋根の関連性について 広島大学 武田 早織
古代から近世までの五重塔・三重塔といった層塔において、横方向の逓減技法の詳細は、濱島正士氏による『日本仏塔集成』にて明らかとなったが、縦方向についての考察は未だ充分に行われていない。
本研究では、現存の五重塔・三重塔の野屋根について分析し、層塔の高さの時代変化についての考察を試みる。中世の層塔では、野屋根の手法が導入され、各重の軒に、桔木を入れ始めたため、小屋組内の空間が広くなっていく傾向が見られる。つまり、化粧垂木と野垂木の間に隙間ができるため、各重の縦方向の寸法が大きくなる。同時に、化粧垂木上に立つ側柱は、下部が野屋根内に埋没してしまい、柱の長さが長くなることが分かる。
また、層塔の中には、室生寺五重塔(平安初期)など、後世の改変により野屋根に変更されたものもあるため、当初の形状を明確にした上で、分析を行うこととする。
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2.妙泉寺地蔵堂 広島大学 佐藤 大規
妙泉寺地蔵堂は、愛媛県八幡浜市に所在する唐様の堂である。方三間の方形造で、須弥壇上框にある墨書銘から寺僧であり大工でもあった孤圓祖充が永正四年(一五〇七)に建立したと考えられており、八幡浜市の重要文化財に指定されている。本発表では、平成十八年に広島大学文学研究科三浦研究室が行った調査の結果を報告することを目的とする。
妙泉寺地蔵堂は、当初材と判定した柱の風食や組物の曲線などから永正四年よりは古く十五世紀後半の建立と考えられた。堂内にある厨子の組物などに顕著に地方色が見られるのに対して、地蔵堂の組物は正当に作られていることから、孤圓祖充が作ったのは、この厨子と考えられる。
愛媛県には祥雲寺観音堂や善光寺薬師堂、正法寺観音堂など中世の唐様建物の事例が多く残っている。妙泉寺地蔵堂もこの中に加えることができ、愛媛県の唐様建物を考える上で、貴重な事例と言える。
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3.西國寺の建造物について 広島大学 山口 佳巳
広島県尾道市に位置する西國寺は、重要文化財の金堂及び三重塔を筆頭に、中世から近世にかけて建立された仏堂を多数有する真言宗寺院である。平成十四年に文化財未指定の建造物を対象として、広島大学文学部文化財学研究室にて実地調査を行う機会に恵まれたので、ここに報告することにしたい。
建立年代が中世まで遡るのは、毘沙門堂厨子と不動堂須弥壇である。特に後者の蝙蝠狭間や高欄の蕨手にみる曲線は、その時代性をよく表している。近世の建立となる大師堂は方形造の正堂と入母屋造の礼堂に造合を設けて双堂とする形式をとり、大変興味深い。また、毘沙門堂、弥勒堂、英霊堂(旧経蔵)などに見られる入隅の木鼻や蓮弁の長い蓑束などは、瀬戸内海沿岸地域の特色であり、中世に流行したそれらの細部意匠が、近世においてもなお受け継がれていることが分かる。
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4.米沢城の成立について -伊達時代を中心に- 広島大学 胡 偉権
本稿は伊達時代の米沢城を論題とし、室町後期における中世城郭の成立について考察するものである。
江戸時代以前の米沢城については、関連する研究は僅かであり、伊達氏の米沢入部の時期や、その居所の位置さえも定説はまだないのが実情である。伊達時代の米沢城は東北地方の戦国時代史にとっては重要な位置を占めるもので、草創期の米沢城の考察は伊達氏の城郭政策の形成と発展を研究するには基本的な課題と考えられる。
本稿は文献史料、発掘調査成果を活用して論考を展開する。まず、伊達氏編纂史料や地誌から米沢城についての記述を詳細に考察して、通説との相違を指摘し、さらに、同時代の一次史料で米沢城の成立時期を新たに推定する。続いて、伊達時代の米沢城の所在位置に関して、今までの通説を紹介しながら、それぞれの問題点を指摘し、特に、館山城を伊達米沢城とする近年の説を再検討したい。
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5.明治時代の竹原塩田の浜業(採鹹・煎熬作業)について 広島大学 村松 洋子
明治期における製塩は主に入浜塩田において行われたが、政府は塩田経営の企業化を指導し、同業団結を奨励した。竹原塩田では、明治十八年に竹原塩業者組合が組織され、利益を目的とせず、それ以来専ら製塩の改良増進が図られた。塩の販路拡大、売り捌きは問屋に委ねた。また芸備塩業組合規約並びに十州塩田同業会の決議を履行した。明治三十九年三月竹原塩業合名会社と改め、法人組織に変更する。このような情勢下にある竹原塩田において、明治の初め頃から明治三十八年の塩専売の実施までの採鹹作業と煎熬作業に付随する事項についての変革を『竹原塩田誌』塩政第三巻、第四巻、塩業一巻全から究明した。今回は、梵天の旗掲揚、地場への打汐、塩田地盤の改良、明治十九年と明治二十年の採鹹作業の改正、明治二十年の浜子雇用の改正、職掌および職務時間改正、鉄製釜試用、以上の項目について発表する。
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