2009年度 考古部会発表要旨

 1.和知わち白鳥しらとり遺跡の旧石器時代資料について

(財)広島県教育事業団事務局埋蔵文化財調査室  沖 憲明

  和知白鳥遺跡は、三次市和知町に所在する。道路建設に伴って平成一八・一九年度に発掘調査を実施し、約一〇〇〇㎡の範囲で旧石器時代の遺構及び遺物を確認した。

 これまでの整理作業の結果、遺跡の時期は、遺物出土層準や石器の形態等から、後期旧石器時代ナイフ形石器文化前半期、武蔵野編年Ⅸ層ないしⅦ層段階と判断した。

 また、約三〇〇〇点の出土遺物からは、ナイフ形石器をはじめとする各種打製石器のほか、大型品・小型品に分類可能な(機能差を示すと推測される)敲石や、遺構の構成物である配石などを抽出できた。

 以上の成果から、本資料は、中国地方の中央部における旧石器時代石器群編年や遺跡構造を理解するうえでの標識資料として評価することが可能である。

 2.広島市安佐北区可部町・上ヶ原第三四号古墳の発掘調査

財団法人広島市文化財団 文化財課  田村 規充

 上ヶ原第三四号古墳は広島市安佐北区可部町大字中野に所在し、福王寺山(標高四九六.二m)の南東山麓、標高一三〇m付近に位置し、眼下に可部の平地を見渡せる。上ヶ原古墳群の中でもD支群と呼ばれる古墳群の北東端に位置し、従来は確認されていなかったもので九基目にあたる。

 墳丘は、長径約一〇m、短径約八mの歪な楕円形で、斜面上に築かれている。斜面の高い側には周溝が築かれ、低い側にあたる墳丘内部には、大きく二段に石列が構築されている。

 埋葬施設は南東方向に開口する全長約六.五mの横穴式石室である。明確な袖石はないものの、石室の中央付近で壁の幅が狭くなり、玄室と羨道を分けている。玄室奥側には敷石が敷かれており、最終埋葬時の床面と考えられ、須恵器、鉄鏃が出土している。前庭部出土の遺物も考慮に入れると、六世紀末~七世紀前半の古墳と考えられる

3.庄原市馬ヶ段遺跡・皇塩遺跡の発掘調査

財団法人広島県教育事業団事務局埋蔵文化財調査室  渡邊 昭人

 両遺跡は庄原市水越町に所在し、遺跡間の直線距離は七〇mである。馬ヶ段遺跡では竪穴住居跡四軒、掘立柱建物跡四棟、横穴墓二基などを検出した。居住地としての利用が廃れた後に墓域として利用されており、居住地は七世紀代頃,横穴墓は七世紀中頃を中心とする時期である。皇塩遺跡では横口付炭窯跡二基などを検出した。炭窯跡の年代は¹⁴C年代測定などから六世紀後半以降と推定される。

 4.黄幡第四号古墓の発掘調査

財団法人東広島市教育文化振興事業団文化財センター  吉田 由弥

 黄幡第四号古墓は、東広島市西条町下見に所在し、市道宮東田口線道路改良事業に伴い平成二〇年一〇月から一一月の二カ月間発掘調査を実施した。

 当初、中世から近世に造られた古墓と考えられていたが、墓坑や骨片の広がりなどの、墓としての痕跡がみられず、道標的な積石塚であったことが確認できた。

 積石塚は、長さ約八m、幅約六m、高さ約二mで、道状遺構を埋め立てて整地した後に造られている。遺物の出土状況から、一五世紀代に道状遺構が埋められ、当初は低いものであったのが、その後徐々に石が積み上げられて、現状規模の積石塚になったことが分かる。出土遺物は、道状遺構から一五世紀代の土師質土器の坏・皿・鍋、宋銭や明銭が出土し、石積の中ほどで一六世紀代の土師質土器皿、石積上方で寛永通宝が出土している。

 また、積石塚の構築目的としては、峠に立地することから、道祖神、地蔵や石塔と類似する峠の祭祀や信仰に関連するものであったと考えられる。

5.厳島、弥山山頂の巨石群と山籠修行

東広島市教育委員会  妹尾 周三

 広島県廿日市市の沖に浮かぶ厳島の最高峰、弥山(標高五三五.四m)は、周囲に岩肌を見せる尖った峰が多いなかで、山頂が笠状に緩やかな弧を描いた山容をなす霊山である。

 この山には、伊都岐島神が籠る(宿る)とされ、そこで僧徒らが神と対峙し、霊力を得る目的で山籠を行なうため、遅くとも八世紀末から九世紀前半(平安時代初頭)には山頂付近に修行の拠点となる山房などの仏教施設(山林寺院)が設けられたことを、これまで明らかにしてきた。この寺院は、安元三年(一一七七)頃には「弥山水精寺」と総称され、弥山の山中で核となる密教寺院(水精寺)を中心として、性格や実態が異なるいくつかの宮社と寺院が祭祀を共有し、宗派を超えて宗教的に結び付き組織化された一山寺院、すなわち「弥山みせん山寺さんじ」であったと考えられるのである。

 今回の発表は、弥山の山頂で実施した測量調査とともに採集資料などから、この弥山山寺で修されていた山籠行の一端を明らかにしてみたい。

6.広島大学霞キャンパスにおける最近の調査成果について

埋蔵文化財調査室  藤野 次史

 広島大学霞キャンパスにおいて開発に伴う埋蔵文化財の立会調査及び試掘調査を二〇〇六年度から実施している。霞キャンパスは旧陸軍広島兵器支廠敷地の一部にあたり、広島大学医学部移転後も数多くの関連施設が残されていたが、一九九九年の一一号館解体を最後に全ての施設が撤去された。この間、基本的に調査が実施されなかったため、軍施設であったことも災いして、わずかの写真資料と一部の建物図面、建物配置概略図が残されているに過ぎない。しかし、過去三年間の調査で、現在の高層建物の周囲に兵器支廠関連遺構が残されていることが確認され、建物跡や敷地を画する溝など、近代軍施設の一端が明らかとなりはじめている。さらに、兵器支廠造成に先立つ近世の様相などもわずかずつではあるが、資料の蓄積が進んでいることから、これまでの調査成果をまとめて報告したい。

7.二〇〇九年度帝釈大風呂洞窟遺跡の発掘調査について

広島大学 山手 貴生、竹広 文明、古瀬 清秀

 帝釈峡遺跡群の発掘調査は二〇〇九年度で第四八次を迎えた。今年度は昨年度に引き続いて帝釈大風呂洞窟遺跡(第一四次)の調査を行った。本遺跡は第一~七次調査で行われた遺跡西半部の調査によって、南北方向の堆積状況は明らかとなっている。しかし、東西方向の堆積状況は明らかとなっておらず、周囲からの土砂の流入状況を含めた遺跡の形成過程については十分な検討が行われていなかった。また、昨年度の調査では第三層から、D-5区で焼土面が四基とD・E-5区で土坑が一基検出され、遺跡内東半での遺構の広がりが確認された。しかし、遺物の出土数は西半と比べて著しく少なく、その要因としては遺跡内での利用状況の違いや東半と西半での堆積状況の差異などが推定された。そのため、本年度は主にD・E-4区を対象とし、本遺跡における東西方向の堆積状況の確認と、昨年度の調査で遺跡東半では遺物が少なかったことの要因解明の二点を主な目的として発掘調査を行った。

8.庄原市佐田峠墳墓群の第三次調査について

広島大学  齊藤 友紀、矢部 俊一、野島   永、古瀬 清秀

庄原市教育委員会  荒平 悠

 昨年度より広島大学文学研究科考古学研究室と庄原市教育委員会の共同研究として調査を開始した広島県庄原市宮内町佐田峠墳墓群の今年度の発掘調査速報を行う。佐田峠墳墓群は後期初頭の四隅突出型墳丘墓として有名な佐田谷墳墓群の北側に隣接している。今までに五基の墳墓が認められており、その築造時期は佐田谷墳墓群をやや遡るようである。今回は昨年度の調査成果をうけ、三号墓の埋葬施設最終確認を行った。また、以前、庄原市教育委員会によって掘削された試掘トレンチの再確認を行い、三号墓の周辺に位置する四・五号墓の検出に努めた。四・五号墓の形態の確認やその埋葬施設の有無、さらには成立時期についての調査研究を行い、詳細な調査記録を作成した。

 以上の調査研究から、佐田谷・佐田峠墳墓群は初期四隅突出型墳丘墓の成立と時期的変遷を知ることができる非常に重要な遺跡であることを再認することができた。今後も当該墳丘墓の形態・規模・埋葬施設の様相の調査を継続していく予定である。

9.広島県における弥生時代終末期から古墳時代初頭の搬入土器について

広島大学  打田 知之

 近年の広島湾沿岸地域、尾道松江線に伴う発掘調査によって、弥生時代終末期から古墳時代初頭の土器資料は一気に増加した感がある。また庄内式土器研究会の活動、大阪府文化財センターの主催によっておこなわれた「古墳出現期の土師器と年代学」などの研究会により広島県以外の土器資料に関する知見も同時に増加してきたといえる。

 今回の広島史学研究会における発表では上記の新資料や既存の資料の再検討を踏まえ、弥生時代終末期~古墳時代初頭の他地域との交流関係や編年の並行関係を検討する予定である。寺澤薫氏らが言うとおり、古墳出現期の瀬戸内地方の交流が盛んとなるとされるのならば、その動向は広島県域においてもあらわれてくるはずである。

 なお、今回の発表の表題に「搬入土器」という単語を使用したが、発表者には土器の胎土に関する知識が不十分であるため、各遺跡で他地域の土器を模倣して作成された土器についても「搬入土器」という語を使用した。その点、ご了承いただきたい。

10.四川省における戦国から三国時代の鏡について

広島大学  脇山 佳奈

 中国四川省における戦国から三国時代の青銅鏡に関する研究である。現在、報告されている鏡資料は総数約二〇〇面である。盗掘が多く調査による出土量は少ない状況であるが、これらの鏡を時期ごとに、出土する地域・墓の種類・副葬品・被葬者像を要素として検討を行う。

 戦国時代は、蜀の中心である成都からの明確な出土例はない。一方で、蜀の西側の少数民族の居住地域からは、柄付きの鏡や素文鏡が出土する。前漢代になると、青銅鏡は、蜀郡のおかれた成都からの出土が目立つほか、郡や司尉のおかれた地域から出土する。後漢代になると、鏡の出土する地域に広がりがみられ、蜀郡・広漢郡における出土が著しいことが分かる。三国時代の確実な出土例は確認されていない。また、漢代以降は、少数民族特有の鏡は確認されていない。墓の種類については、崖墓・磚室墓・木槨墓が多くみられる。副葬品には銅印を伴うものもあり、身分の高い人物の墓に鏡が伴う例が多いと推定する。

11.埋蔵文化財行政と資格制度

府中市教育委員会総務課文化財係  土井 基司

 一九九四年、文化庁は「埋蔵文化財発掘調査体制等の整備充実に関する調査研究委員会」を立ち上げ,最初の研究報告では資格制度が今後の研究課題として位置付けられたが、具体的な検討は行われないままであった。そんな中,民間調査機関を結集して発足した「日本文化財保護協会」が、二〇〇七年に「埋蔵文化財調査士」などの資格を立ち上げる一方、二〇〇八年には早稲田大学が「考古調査士」などの資格を創設し、資格制度はにわかに現実の問題となった。そして、二〇〇八年度から二年間の予定で、上記委員会によって、資格制度が検討されることになり、「中間まとめ」が二〇〇九年三月に報告された。資格制度は、これからの考古学界や埋蔵文化財行政のあり方と密接に関係するものであり、その課題や展望を指摘・検討することで、活発な議論が盛り上がることを期待したい。