2009年度 日本史部会発表要旨

1.大宰府~肥後国府間の駅路の変遷について

広島大学  松村 一良

 大宰府(筑前国)~肥後国府間の西海道駅路については、木下良氏により大宰府から肥前・筑後国境線沿いに南下し、筑後国府を経て肥後国府に至るルートが復原されている。しかし、国の分割に際して駅路で連結される国名には都に近い順に前・中・後、あるいは上・下を冠することが通例である点を考慮すると、この復原ルートは筑後国から肥前国を経ずに肥後国に至ることとなり、いささか不自然の感を否めない。そこで本報告ではこの駅路ルート上に多数認められる駅路関連地名「車地(車路)」や筑後国府跡周辺の道路遺構の再検討を通して、七世紀末の令制国の分割・成立時には大宰府~肥後国府間の駅路は国名順の通り、肥前国府から島原半島~有明海~宇土半島経由で肥後国府に至るルートが正式駅路として認識され、筑後国経由ルートは南九州の令制推進のために設けられた鞠智城と大宰府を結ぶ軍用道路であり、鞠智城の機能停止後、駅路としての機能を引き継いだ可能性を指摘し、大宰府~肥後国府間の駅路の変遷過程について考察する。

2.下級官人出身法から見た九世紀の地方行政の展開

広島大学  加藤 弘輝

 かつて石母田正氏は「位階を保持する集団が、国家の官職を専有して、官位をもたないいわゆる『白丁』身分を統治するという形態」が律令国家の特徴であるとされたが、国衙による支配は国司や郡司らの官人だけでなく、白丁身分の国書生や郡郷雑任などが行政に従事していたことは通説となっている。これら国衙機構構成員に関する基礎的考察は先学によってなされているが、八世紀と九世紀の彼らをほぼ同質の存在とする理解がある。また国衙機構の変遷から在庁官人制への成立を解く方法が昨今の潮流であるが、九世紀以降の郡司制の変容や中央権門との私的結合による在地層の下級役人化問題等、当該期の地方行政については律令官人体系の問題からも迫る必要がある。さらに国衙機構の変遷というものを、国衙機構で働く者に対する国司の編成方法、つまり「考課」の史的展開を国衙機構の変遷として捉える必要がある。

 そこで本報告では、国司による勤務評価の対象とその変化、それに伴う国衙行政のあり方の展開に検討を加え、さらに九世紀初頭において律令下級役人出身法が転換したことを指摘した上で、古代地方支配の特質を考察したい。

3.大内氏の「取次」制度

広島大学  中司 健一

 中世の権力の構造を考える際、「取次」制度を分析することは有効な手法と考えられる。

 本報告はこのような観点から、大内氏の「取次」制度を分析することで、その権力構造の一端を解明することを目的とする。

 時期は、基本的に大内氏当主が在国するようになり、その支配体制の整備が進み、確立されつつあったと考えられる政弘期に焦点を当てる。

 史料は主に「大内氏掟書」と「正任記」を用いる。大内氏の法令集である「大内氏掟書」からは、大内氏の「取次」制度の理念を明らかにしうると考えられる。さらにこの考察で明らかになった理念を踏まえて、文明十年の大内政弘の北部九州遠征に側近として近侍した相良正任の日記「正任記」からその実態を分析する。同書には多くの「取次」事例があり、その実態分析には格好の素材と考えられるからである。

 4.戦国時代の厳島神社における天神社建立の史的意義 ―棚守房顯の権力確立過程をめぐって―

県立広島大学  松井 輝昭

 厳島神社で年中行事として営まれた「月次連歌」は、厳島が大内氏の支配下に入ったころにはすでに確認できる。この連歌会は戦国時代以降も長く続いており、明治時代中頃まで行われていたことが知られる。なお、毛利隆元が弘治二年(一五五六)に天神社を建立すると、同所がそれ以降の「月次連歌」の会所になった。また、この連歌会に要する費用ものちのちまで、毛利氏から寄進された小山・西浦の年貢の一部が充てられた。しかし、棚守房顕が天正四年(一五七六)に「社家奉行」の地位を息子元行に譲ろうとしたとき、厳島神社内でこれに対する激しい反対運動が起こり、続いてきた「月次連歌」も天神社で開けないことがあった。本報告では以上のような厳島連歌史の流れをも念頭におきながら、天神社の建立が棚守房顕の厳島神社内の権力確立といかなる関わりを持ったかを探ることにする。

 5.伯耆国人南條国清について

鳥取県立公文書館 県史編さん室  岡村 吉彦

 名古屋大学文学部所蔵「真継文書」には、発給年不詳の南條国清書状が四通含まれている。国清の発給文書は管見の範囲ではこれが唯一である。この国清については、伯耆国羽衣石城を本拠とする国人南条氏の一族であると考えられているものの、従来の研究でほとんど取り上げられたことはなく、その人物像についても不明な点が多い。

 本報告では以下の二点について考察を行う。第一に国清書状にみえる花押や官途の比較から、彼が永禄年間以降毛利氏の傘下において活躍する南条宗勝本人であることを検証する。第二に「真継文書」所収の南条国清書状の年代比定を行い、これらの文書の出された時代背景および当時の因幡・伯耆を取り巻く政治情勢について整理するとともに、大内・尼子・山名の対立抗争下における伯耆国人の動向の一端を明らかにする。

6.近世江川流域における鑪経営

広島大学 笠井 今日子

 中国地方山間部において主要な産業として展開されていた鑪製鉄は、地域経済と密接な関係を有する性質から、中国地方山間部の社会を考察する上での重要なテーマの一つとしてとりあげられ、研究が重ねられてきた。

 その中でも石見地方の製鉄業は、大鉄師による大規模経営とは異なる経営形態が存在していた点で注目されてきた。近年では、石見地方内部でも地域によって経営形態の差異が存在することが指摘され、新史料を利用した個別研究が進められているが、石見地方における鑪経営の実態については未だに不明な点が多い。

 そこで本報告では、石見地方の内で江川流域を中心に鑪経営をおこなっていた濱原村西田屋を主な考察対象として設定し、同家における鑪経営を史料に則して検討を加えてみたい。

7.日英史料による文久期長州藩の政治動向

大島商船高等専門学校 田口 由香

 文久期の長州藩は、「開国」から「攘夷」と目まぐるしく対外方針を転換する。この時期の長州藩の政治動向を解明するには、なぜ長州藩が「攘夷」方針に転換し、実行に移したのかを明らかにする必要がある。報告者は、長州藩の「攘夷」という諸外国を排除する対外方針には、国家体制改革を意図する国内的要因が含まれていたと考えている。しかし、「攘夷」は対外政策であるため、長州藩側の意図だけでなく、実際に「攘夷」を受けた諸外国側がどのように認識していたのかを明らかにすることが重要である。特に、攘夷決行後に長州藩との関係を深めるイギリス側の史料から、客観的な分析ができると考える。イギリス側史料には、「日本関係外交文書」(英国公文書館蔵)やアーネスト・サトウ蔵書(ケンブリッジ大学図書館蔵)などがある。よって、本報告では、日本側史料とイギリス側史料を相互に照らし合わせることで、実証的に長州藩の政治動向を解明したい。

8.諸隊会議所の役割について

広島大学  田村 幸香

 諸隊会議所は長州藩において元治内乱の際に、設置された臨時の会議所である。諸隊会議所は内乱終結後に藩庁公認となった。幕長戦争においては、藩庁と諸隊を結ぶ機関として機能する。藩庁公認となる事により各諸隊は個別に藩庁の直接統制下に組織され、諸隊会議所は意思の形成機関から藩庁と諸隊あるいは諸隊間をつなぐ中継連絡機関となった事が指摘されている。しかし諸隊会議所設置後は諸隊が連携して藩庁と関わっており、諸隊解散にいたるまで諸隊の中心的機関として置かれており、さらに会議規則も定められており諸隊長官による会議が藩庁公認後も行われている事もあり、諸隊会議所での意思形成が行われなくなったという点に関して疑問が残る。

 そこで、本報告では藩庁とのつながり・諸隊間のつながり等を総合的見ることにより諸隊会議所の役割・性格について検討する。

 9.明治前期の小作料率に関する一試論

広島大学  平下 義記

 日本地主制史研究において、小作料の多寡・徴収形態などが重要な論点とされてきたことは論を俟たない。方法論的には、皆納率を経年的に分析すること、あるいは反当小作料を村別で比較することなどがなされてきた。

 しかしこのような方法論においては、如何にして小作料が決定されていたのか、その含意は何か、といった問題を論じることが難しいと思われる。もっとも、この問題については史料的制約によるところが大きい。すなわち、収穫高に占める小作料高の割合(小作料率)を、小作人別・小作地一筆毎に検討することに耐えうる史料がほとんどの場合現存しないことに起因している。換言すれば、個々の事例から帰納的に議論することができないのである。

 そこで本報告では、広島県惠蘇郡奥門田村の栗本家を事例に、この問題を論じてみたい。同家には、地主・小作人立会坪刈による収穫高記録である「収穫出来高見積帳」と、小作人・小作地別の実納小作料高を記録した「掛ケ米領収帳」とが、断片的ながら現存する。これらの史料に具体的検討を加え、研究史に寄与することが本報告の眼目である。

10.明治中期におけるドイツ監獄学の受容とその展開

九州大学  赤司 友徳

 明治一四年、刑法の施行に先立って、刑事法の執行を担保する監獄則が施行された。実際にはそれに基づいた監獄の運用は財政的に難しく、また刑法施行後なおも増加する犯罪に対して内務省は何らかの改革に着手せざるを得なかった。まさにフーコーの言うように「監獄は誕生した瞬間から、その改革を迫られる」状況にあった。

 そこで、内務省は監獄改良のために明治二二年ドイツの監獄官僚であったクルト・フォン・ゼーバッハを監獄官練習所の教師として招聘し、監獄改良の主導的役割を期待した。ところがゼーバッハが二四年に死去したため、以降は訳官であった小河滋次郎が彼の遺業を継承し、改革の中核を担うこととなった。

 本報告ではゼーバッハの監獄学と日本において実践しようとした監獄改良がどのように小河の主導する監獄行政に受容されていったのかを明らかにしたいと考える。具体的にはゼーバッハと小河の監獄論を比較しつつ、それが行刑政策にどう反映したかについて検討したい。