2009年度 西洋史部会発表要旨 |
1.十二‐十三世紀ポンテュー伯の文書と文書局 -伯の統治に関して- 九州大学 大浜 聖香子
中世フランスの君主の文書局は、二十世紀後期の社会史的制度史・統治史の潮流から、プロソポグラフィの対象として関心を集めた。本報告では北フランスの中規模伯領ポンテュー伯の文書集を用いて、十二世紀後期-十三世紀初期の伯文書局の作成文書の形式を検討し、文書局と伯の統治の展開を関連づける。
各伯の在位期の書式や形式の変化から、十二世紀までの伯文書には宗教的要素が多く、文書の法的効力の補強のため司教の協力を必要としたが、十三世紀には発給数の著しい増加や独自の書式の定着、簡潔性の高い形式の使用などから、伯の文書を用いた統治の恒常性が窺える
これらの文書は文書局の書記により作成されたが、彼らは伯の家政役人に属しつつ、種々の統治活動に携わる役人集団であり、十三世紀初期にはカンケラリウスと呼ばれる責任者の下、不完全ながらも文書局の整備化がなされた。
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2.十五・十六世紀ミュンヘンにおけるポリツァイの射程 -下級役人の活動と社会的背景を通じて-
大阪大学 柴垣 聡
本報告では十五・十六世紀のミュンヘンを対象として、統治権力の求める規範がどのような枠組みと回路によってどこまで貫徹されていたのかについて、都市社会の現場において当局による行政活動、すなわちポリツァイの行使を担った下級役人の活動と社会的背景の分析を通じて考察する。
それらの役人の社会的背景について、まず彼らが中・下層市民の出自であり、またその登用には地域における社会的結びつきが前提となっていたことが明らかとなる。さらに役人の怠慢や不正などその職務上の問題が指摘されるが、それは彼らがその立場・活動を通じて独自のソシアビリテを形成していたことと関係していた。彼らは公権力の代表としてポリツァイを行使する立場にありながら、実際にはむしろポリツァイを受ける側、地域社会の住民とともに生きる存在であった。このような役人の実態から、上からの規範の実現は十分に貫徹されなかったといえる。
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3.ワルシャワ公国時代の言論 -フランス型諸制度の導入をめぐって- 神戸夙川学院大学 梶 さやか 一八〇七年にナポレオンによって創設されたワルシャワ公国では、フランスの制度を模して司法・社会制度、行政組織の改革が行われた。憲法による隷属の廃止、民法典を含むフランス型の法典の導入、中央集権的な行政制度の整備などである。こうした改革は後世への影響も大きく、ポーランドの近代化を促進したという歴史的評価を受けている。だが、公国のエリートのなかには、国家の独立をナポレオンに負っていたとはいえ、彼が進めた制度の変革に大きな抵抗を示す者がいた。また、導入された制度が、実際には公国のエリートの利害にあわせて運用されたという側面もあった。本発表では、フランス型の諸制度の導入に対する態度を切り口に、ワルシャワ公国の政治エリート層の政治活動や言論活動を考察する。ポーランド分割前と比べて公国時代の政治・言論活動にはさまざまな制約があったが、公国において言論が展開された方法やその意味・限界についても検討する。
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4.ナポレオン体制期憲兵隊と民衆反乱 広島大学 藤原 翔太
ナポレオン体制期フランスでは行政の中央集権化ならびに恒常的監視システムが整備され、国家・地方関係に劇的変化が生じた。とりわけ、それは徴兵制の導入問題を中心に進行した。これに対して、民衆側で激しい抵抗が生じ、各地で徴兵不服従が蔓延することになる。それに対抗すべく、国家側は漸進的に徴兵不服従の鎮圧を強化していくが、その帰結として民衆反乱が生じるのである。本報告では徴兵に関わる民衆反乱を取り扱うが、その際、従来あまり考察されてこなかった国家側の鎮圧活動の担い手である憲兵隊に焦点を当て考察する。「下からの暴力(violence)」と「上からの暴力(force)」の関係性を読み解き、両者のせめぎ合いを考察することで、ナポレオン体制期の国家・地方関係のあり方を提示したいと思う。
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5.マルクス、エンゲルスとポーランド問題 -アルノルト・ルーゲを視軸として- 東京国際大学 勝又 章夫
この報告では、一八四八年革命期におけるポーランド問題を中心に、マルクス、エンゲルスのナショナリズム論を検討すると同時に、ヘーゲル左派の哲学者アルノルト・ルーゲのポーランド論と比較することによって、その問題点を明らかにしたい。マルクス、エンゲルスとルーゲはポーランドの独立を支持していたが、ルーゲが原則的な民族自決権の立場にあったのに対して、マルクス、エンゲルスの立場は民族自決権とは両立しがたいものであった。この背景にあったのは国家論の差異である。ルーゲが、民族的特殊性から生じた主権こそ国際法における自由をなすと主張したのに対して、マルクス、エンゲルスは国家を市民社会に従属させたため、国家建設の権利としての民族自決権を承認できなかったのである。
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5.一九世紀後半ロンドンにおける慈善組織協会(COS)の活動 広島大学 久間 雄太
イギリス福祉国家形成史に関して、従来の国家による福祉政策の拡大のみを重視する歴史研究は、直線的進歩の過程として理解されていた。しかしながら現在その全体性を明らかにする試みとして、福祉とは救貧法だけではなく、広範囲のボランタリーな活動を含む多層的な共同体によって支えられた構造的複合体であり、それらが重層的な福祉を提供していたという「福祉の複合体(mixed
economy of welfare)」論に基づく歴史研究が行なわれている。
十九世紀後半のロンドンにおいて、貧困状態からの救済希望に対処する方法は、救貧法によるものと慈善団体や個人による救済と慈善団体や個人による救済とに住み分けがなされていた。両者の仲介的役割を果たしていたのが慈善組織教会であり、本報告では同協会の活動報告書であるCharity
Organisation Reporterを分析しながら、ロンドンにおける「福祉の複合体」のありかたを明らかにしてみたい。
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6.中世イングランドにおける聖人崇拝と巡礼 -イースト=アングリアを中心に- 広島大学 山代 宏道
本報告は、中世イングランド、とくにイースト=アングリアにおける聖人崇拝と巡礼の問題を、崇拝された聖人のタイプや時代的・地域的特性といった視点から検討する。
背景として、イングランドではヴァイキングの侵攻やノルマン征服の時期であったこと、ヨーロッパ全域では十字軍遠征により東方から多くの聖遺物がもたらされ、聖人崇拝が盛んになる時期であったことが注目される。地方的聖人として、ベリー=セント=エドムンド修道院の聖エドムンド、クローランド修道院の聖ワルセオフ、ノリッジ司教座教会附属修道院の聖ウィリアムを取り上げ、かれらの来歴と性格を明らかにする。普遍的聖人として聖母マリアを取り上げる。
巡礼者の多くは悔い改めとともに奇蹟を求めて危険な旅に出かけた。イングランドの聖人崇拝と巡礼をめぐるローカルな事例をグローバルなキリスト教世界に位置づけてみたい。
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