2009年度 東洋史部会発表要旨

1.清代北京における朝貢使節の交流

九州大学  沈 玉慧

 清代において朝鮮と琉球がお互いの間に直接使節を派遣することはなかった。したがって、両国間における情報のやりとりは極めて限られていた。そうした状況において重要な役割を果たしたのが、北京における両国使節の交流である。彼らは清への朝貢の機会を利用し、筆談や会話によって、様々な情報収集を行っていた。

 しかも、朝鮮は最多の朝貢回数を有しているが、琉球はこの次に多い。さらに、筆者の統計によれば、清代を通じて、両国の使節が出会った回数は四十回以上に及ぶ。したがって、一七世紀以降における朝・琉両国の交流の全体像を解明するためには、従来なされてきた個別の交流事例に関する研究のみではなく、その網羅的な研究が必要であると考えられる。

 本稿は朝・琉両国使節の交流事例を通じて、彼らが具体的に相手国の使者にどのような印象を持ち、その国情についてどのような情報を得たのかなどの問題について基礎的な考察を行うことにしたい。

2.清末新政期における軍制改革 -軍事機構の再編整備を中心に-

広島大学  鈴木 昭吾

 清末に実施された洋務運動、変法運動、新政などの諸改革は、対外戦争での敗北を契機として開始された事もあり、軍制改革は重要な課題となった。特に一九〇一年から開始された新政期軍制改革は、改革の範囲や方向性において画期的なもので、この時期に成立した制度や養成された人員は、その後の中国における軍事制度の基盤となり、後々まで大きな影響を与える事になった。

 新政期軍制改革における課題の一つが、軍事機構の再編整備であった。清朝では、当時のドイツや日本の軍制を参考にして、軍事権限を軍令権と軍政権に分離し、両者を中央政府に新たに設立された軍事機構である陸軍部や軍諮処によって一元的に掌握する体制の確立が目指された。軍事権限の一元的掌握の試みは、それまで地方官僚である総督や巡撫が保有していた軍事権限についても中央に回収する必要性を生じる事になり、この問題をいかに解決するのかも重要な課題となった。本報告では、新政期軍制改革における軍事機構の再編整備を見る事で、改革の方向性と新たに構築された制度の枠組みについて考察してみたい。

 3.清末預備立憲時期における国税・地方税分割の財政改革

広島大学  土居 智典

 中国のように広大な国土と膨大な人口を有する国では、中央から全国の財政を掌握して国家の統一性を維持することは、近年においても非常に重要な課題である。しかし清朝時期にさかのぼると、財政の収入や支出を、どのように中央と地方で割り振るかという問題以前に、国税と地方税の区分が原則として存在しなかった。中央と地方の明確な区分無き一体性財政は、地方で緊急の財政支出をあまり必要としない時期においては、中央集権財政に見えるが、地方で大規模な叛乱が発生する清末になると、地方政府が税収を侵食しやすい「分散的」財政にも見える。このような財政のあり方を改めて、中央と地方の財政を明確に分ける「国地劃分」が開始されたのは、清朝最末期の預備立憲時期の財政改革においてであるが、本報告は、なぜこの時期にそのような改革が行われ、どの程度の改革を為し得たのかを明らかにし、民国期にまで継続していく改革の意義についての考察を行う。

4.清末から民国期にかけての広東・江西に跨るタングステン開発

広島市立大学  飯島 典子

 民国期の江西省は瑞金ソビエトの樹立等、どちらかと言うと江西一省が政治史上で語られる傾向があり、産業の発展が遅れていた江西南部が注目を集める事は殆ど無かった。しかし一九世紀末にタングステンの鉱床が同地で発見されたのを皮切りに、寧ろ広東人がその採掘を手がけ始め、第一次世界大戦時における需要の高まりもあって一九一八年以降次々に鉱床が発見された。これに対して江西当局の姿勢は鈍重とも言えるもので、タングステン鉱局の設立は一九三五年である。一九二六年以降江西南部では国民革命軍の北伐を皮切りに国民党と共産党の衝突が続き、江西南部のタングステン採掘業もこの複雑な政局に巻き込まれるが、中華ソビエトの下でも採掘業は続けられるなど、政治とは異なった経済の動きを見ることが出来る。ただ、第二次世界大戦中における中国と諸外国のタングステン流通・確保に関しては未だ解明されていない点が多く、その全体像を明らかにするのが今後の課題である。

 5.イスラム同盟とジャウィ・ヒスウォロ問題

和歌山工業高等専門学校  赤崎 雄一

 イスラム同盟は、一九一一年に設立されたインドネシア初の大衆的民族運動組織である。オランダ植民地であった二〇世紀初頭、この地域の人々にはまだ「インドネシア人」という意識が育っておらず、イスラム同盟の「イスラム」は既存の地域・民族の枠を超えた現地人の結束を示すシンボルとして使用された。したがって、この組織はイスラム指導者を中心とした宗教団体ではない。そのようなイスラム同盟が、組織としてイスラム教に関する問題を前面に出した活動を初めて行ったのが、一九一八年のジャウィ・ヒスウォロ問題である。預言者ムハンマドを中傷する記事が新聞に掲載され、その作者と編集者に対する抗議運動が各地で発生した。本報告では、この問題の経過・その影響に関して検討する。

6.ベトナムにおける家礼の編纂・刊行について

慶應義塾大学  嶋尾 稔

 一七-一八世紀のベトナムにおいて、『朱子家礼』喪礼に基づき、三種の家礼が編纂・刊行された。『胡尚書家礼』、『捷径家礼』、『寿梅家礼』がそれである。これらの葬礼を中心とする儒教的な礼制の初歩的マニュアルは、一八世紀以降のベトナムの社会・文化に小さからぬ影響を与えたとみられるが、研究は全く進んでいない。本報告では、まずベトナムの家礼の諸版本に関する基礎的な情報を示し、これらのベトナムの家礼と明代中国の家礼との関係、ベトナムの家礼相互の関係、およびベトナムの家礼の特徴を押さえたうえで、ベトナムにおける家礼編纂・刊行の背景、すなわち、編纂者の個人的属性、国家の文化政策、社会・文化的状況などについて検討し、さらに家礼書が如何にベトナム社会に受容されたかについて考察してみたい。このような家礼に関する基礎的な考察を通して、ベトナムの一八世紀をどう見るかという問題に迫る一つの新たな糸口を提供できればと考えている。