2010年度 日本史部会発表要旨 |
1.辺境地域における版図拡大政策
広島大学 菊池 達也
近年、日本古代史分野の研究では辺境・境界の研究が活発に行われている。その中で南方の辺境・境界に居住していたとされる隼人は、八世紀を通して、古代国家によって北方の蝦夷とともに「夷狄」として認識されていたと理解されてきた。これに対し、一九九〇年代から、古代国家の隼人に対する認識には八世紀の前半に変化があったのではないかという意見が提示されている。
古代国家の隼人に対する認識が八世紀前半に変化するという考え方については賛成であるが、その認識がいつ変化したのかについては、具体的な提言がなされていない。
そこで、本報告では、隼人に対する認識がいつ変化したのかを考える前提として、隼人・蝦夷が居住する両辺境地域への版図拡大政策を具体的に見ていきたい。
|
2.摂関宇治入りについての一考察 広島大学 尻池 由佳
宇治は藤原頼通による平等院創建以来、摂関家と深く関わった地である。特に頼通没後は、摂関を継承する頼通嫡系子孫により様々な法会や儀礼が行われた。このような宇治と摂関家の関わりは、先行研究においては、摂関家衰退期とされる院政期・鎌倉期には衰退するものと考えられてきた。しかし、宇治における摂関家儀礼は、むしろ院政期以降に発展していき、鎌倉時代をほぼ通じて行われ続けた。殊に宇治入りは、白河院政期、藤原忠実によって創始されたとみられ、これを先例として後世の摂関たちに受け継がれた。宇治入りとは、摂関・藤氏長者がその就任後にはじめて平等院に参詣し、平等院を巡見、経蔵の宝物を開検する藤氏長者就任儀礼の一つであった。にもかかわらず先行研究は皆無に等しく、未だ宇治入りの意義を明らかにしたものはない。本報告では、宇治入りの創始・行事化過程・行列構成などの検討を通して、宇治入りの実態と意義について明らかにしたい。
|
3.十一・十二世紀の北部九州における中世的所領形成 広島大学 上吹越 務
北部九州における荘園の形成過程とそれに伴う在地領主層の動向に関しては、すでに工藤敬一氏や井上聡氏の優れた研究がある。ところが、西海道諸国に君臨する大宰府が、中世的所領形成にどのように関わってくるのかという問題に関しては、一つの国家行政機関としての大宰府の存在が捨象され、府官長による所領形成のための私的機関としての側面からのみ語られる傾向が強い。しかしながら、摂関期から院政期にかけての大宰府の動向は、相論裁定や管内寺社との関係を見る限り、未だ国家の一機関としての役割を残していたと考えられる。 そこで本報告では、大宰府機構の変遷を府官層の分析を通じて読み解き、九州における在地領主制の進展と大宰府、さらにはその背後に位置する王朝国家との関連について考察したい。
|
4.日元間の禅僧交流と九州の守護大名 新居浜工業高等専門学校 鹿毛 敏夫
中世日本社会の外交交渉において、臨済宗五山の禅僧が果たした役割は極めて大きかった。特に、室町幕府が国家外交の主体として成長した時期、五山派は日本禅宗界の最大勢力となり、幕府や朝廷と緊密な関係を取り結んだ。その基盤を作ったのは夢窓疎石であり、完成した五山の制度に幕府外交の実務機関としての性格を付与したのは春屋妙葩である。
夢窓や春屋による国家外交が清新な雰囲気を維持していた十四世紀の時期、西国の守護公権力の近辺ではどのような特質をもった国際交流が行われていたのであろうか。制度としての外交システムをいまだ持ち得ていなかった中世の時代、外交業務は専門技能として未分化の状態にあり、国家や地域公権力による禅僧を介しての諸外交活動は、彼らの宗教的活動や学問・芸術活動ととも密接につながっていたはずである。本報告では、九州の有力守護大名大友氏の対元外交に焦点をあて、禅僧を介した外国交流が十四世紀の鎌倉・南北朝期にどのように勧められていたかを考察するとともに、地域の大名権力が強大化する十六世紀にそうした禅僧の存在形態が社会的にどう変化していくかについても展望していきたい。
|
5.守護山名氏の備後国支配とその特質
毛利博物館 柴原 直樹
一般に戦国大名は、その権力の形成過程から、守護が権力を再編して戦国大名に転化する場合と、国人一揆の主導者が権力を集中させて戦国大名に転化する場合とに分けられるという。十六世紀中葉の中国地方に成立した戦国大名毛利氏は、まさしく後者の典型とされる。しかし、その場合でもなお前代の守護が保持していた公権力をどのように継承するかは重要な課題と思われるが、毛利氏の場合、とりわけその基本領国とされる備芸石三国におけるそれは、未だ十分に解明されているとは言い難い。
こうした実情は、毛利氏に先行する守護山名氏による備前石三国支配の実態、なかでも室町後期における実態が不明瞭であることに起因すると思われる。本報告においては、以上のような問題関心のもと、比較的守護大名山名氏の支配が浸透したとされる備前国における支配の解体過程を明らかにするとともに、戦国大名毛利氏を生み出す素地となったその支配の特質とは何かを解明したいと考えている。
|
6.中近世移行期の土豪と在地社会 ―石見国小石見郷を事例として―
広島大学 玉井 絵里香
中近世移行期における土豪層の研究は、戦国大名の権力構造を明らかにしうるものと捉えられてきた。領主制論の視角は、大名による在地支配の貫徹度に主眼が置かれ、土豪や在地社会の主体性が軽視されているという問題がある。一方で村落論の視角にも、大名権力と土豪との主従関係をどう捉えるのかという問題がある。
ところで移行期研究では、中世と近世の断絶・連続が議論されているが、これは中近世を通じた在地社会像を描くことなしには解明しえないと考える。したがって在地社会に視点を当て、土豪の視座に立った考察が重要となる。しかし、土豪が戦国大名ら上級権力に権力編成されていく事実を捨象しては、上級権力と土豪との関係を論じることは困難である。
そこで本報告では、石見国小石見郷を考察の対象として取り上げ、主に「岡本文書」を用いて岡本氏ら土豪の実態を明らかにする。また在地社会の変遷を追うことにより、中世から近世への断絶面・連続面を検討する。
|
7.文久期軍制改革について
広島大学 田村 幸香
長州藩では安政二年正月から神器陣の再編や銃陣操練等の兵制改革を開始されていたが、安政五年六月に兵庫港警衛の幕命を受けた事をきっかけとし神器陣の全廃と洋式への移行が決定され本格的な軍制改革が始められた。安政六年には西洋銃陣へと移行された。文久二年になると航海遠略策の公武合体策から徹底攘夷への藩是転換により防備を中心とした軍制改革が開始された。また攘夷実行の決定により、対外的危機意識が高まり軍制改革により武士土着法の取組が行われ、従来のように士卒藩士が城下へ群居するのではなくそれぞれ各地住居を構え、在地における郷土防衛が目指された。また、攘夷実行の決定を期に積極的な草莽層の登用が行われ奇兵隊をはじめとする諸隊の結成へとつながっていったと考えられる。そこで文久期軍制改革の中で諸隊結成への流れを考察する。
|
8.幕末期対馬藩における国内情報収集活動に関する一考察―宗家文庫資料の「風説書」を素材として―
九州大学 守友 隆
幕末期、諸藩は内憂外患の様相を呈する政情不安の中、それに対応するため、様々な手段を用い、情報収集活動を行ったことは論を俟たない。しかし、その情報収集の具体的方法については、薩摩藩・長州藩・佐賀藩・熊本藩・彦根藩などといった、幕末期政局において大きな役割を果たした藩以外については、史料上の制約、政治史研究の問題関心の深浅もあってか、十分な解明がなされているとはいえない。
また、幕末期を含む近世期全般を通じて、諸藩においては目付に類する役職の者が、様々な職掌のうちの一つとして情報収集に当たったことは確かである。本報告では様々な情報収集のなかでも目付のそれに注目する。しかし、目付がその任に当たるといっても、目付を中心にどういう活動がなされていたか明らかになっていない。
さらに、情報収集活動の成果物である「風説書」の分析を通じて、目付のもとで情報収集の実務担当に当たった藩士の実態解明を試みたい。作成には的確な情報分析能力を必要とし、一般の藩士が作成するのは難しかったと考えられる。なぜなら、「風説書」には情報の信頼性や収集活動にあたった上での判断を記さねばならなかったからである。では、どのような藩士が情報収集の任に当たったのだろうか。
そこで、本報告では膨大な藩政史料が残っている対馬藩の「風説書」から、幕末期の一つの藩における国内情報収集活動の在り方、どのような情報が集められたか、その情報がどのように藩政に反映したかを、目付と「風説書」をキーワードに考察することを目的とする。
|
9.薩長盟約の成立と展開 広島大学 三宅 紹宣 私は、先に「薩長盟約の歴史的意義」(『日本歴史』六四七号、二〇〇二年)において薩長盟約は、幕長戦争開戦の場合の薩摩藩による京都・大坂を固める後方支援、および長州藩の冤罪をはらすための薩摩藩の朝廷工作を約束する内容であり、高次の目標として皇威相輝く状況の創出を目指すものであったことを明らかにした。その後、宮地正人「中津川国学者と薩長同盟-薩長盟約新史料の紹介を糸口として
-」(『街道の歴史と文化』第五号、二〇〇三年)は、民間に流出した新出史料を用いて、薩長盟約は軍事同盟であることを補強した。また、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、二〇〇七年)は、薩長同盟は軍事同盟であるとしつつ、それは、慶応元年九月、長州藩主毛利敬親・元徳父子の薩摩藩主父子宛書簡が出された時点で成立したとした。 |
10.「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」をめぐる枢密院の動向 広島大学 櫻武 加奈子 近代日本女性史では、公娼制度の変遷や廃娼運動の展開に関する個別実証研究が蓄積されている。しかし、これらの動きを総合的にとらえる視点は定まっていないと思われる。そのような中、小野沢あかね氏は当時の婦女売買禁止の国際的潮流の影響を重視し、日本の公娼制度廃止への決定打になったとされている。今後は、そうした国際的潮流の中で日本政府がとった対応の意味をより深く考察する必要があるだろう。 一九二一年、国際連盟は「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」の批准を各国に求め、日本政府の全権委員は年齢制限などに留保をつけて条約に調印した。小野沢氏はこの条約問題についても、日本政府は国際的趨勢にあわせて条約を批准しようとしたものであり、その際条約と国内の公娼制度との矛盾の解決はなおざりにされていたことを指摘されている。 本報告ではこの問題に関する理解をより深めるため、条約批准に関する枢密院の審査委員会での議論をとりあげたい。 この審査委員会では平沼騏一郎ら委員がそれぞれの立場から政府の考えを質し、政府側が答弁を行っている。そして、最終的に審査委員会は留保の早期撤廃を要求している。質疑の分析を通じて、枢密院の婦女子売買問題についての認識をより明らかにしたい。 |
11.明治から大正期、地域公益法人の構造と展開 広島大学 平下 義記 近代日本における名望家層の社会事業については、政治史的文脈で論じられることが多い。これは、社会事業を支配の代償と規定、分析してきたことによる。しかし、同時代の社会経済的文脈のうちに位置づけて考察することも有効だと思われる。言い換えれば、個々の社会事業がとる形態の必然性(=要因)を腑分けして考察するべきではないか、ということである。 そこで本報告では、備後福山の義倉を事例としてこの問題に迫る手がかりを得たい。義倉は、近世後期に地域社会の豪農・商の共同出資によって成立し、明治中期の財団法人化を経て今日に至るまで活動をつづける組織である。 明治三二年の法人化以降、社会事業に対する補助出金が安定的に拡大していく。その背景を多角的に分析することが本報告の主題である。すなわち、義倉の経営構造と経営者の主体的意図、さらに同時代の社会経済状況からの規定性という三つの面から検討する。以上の三つの視点から、明治・大正期の社会事業を分析する。 |