2010年度 西洋史部会発表要旨

1.ロベール・ギスカールの南イタリア政策

広島大学 中原 章裕

 11世紀前半に傭兵として南イタリアに到来したノルマン人は1130年、シチリア伯ロゲリクス2世を国王に戴くシチリア王国を建てるに至る。そして、王国の行政制度やその基盤は旧ビザンツ・ムスリム領といった従来のものを継承、これを織り交ぜることで統治制度として整備されていったのが、ギスカールの弟であるシチリア伯ロゲリウス1世とその息子ロゲリウス2世の時期に当たる。一方、2度にわたるバルカン出兵を行なう等、強大な力で南イタリアを統合したギスカールの時期はこうした制度が未整備で、彼の没後にその勢力は瓦解することとなった。その背景には、モンテカッシノ修道院との友好関係もさりながら、勢力拡大の過程で親族を各地の領主に配置し束ねるという支配を行なわねばならなかったというギスカール自身の限界が存在しており、この点を彼の発した文書から裏付ける。

2.14世紀クレタにみる法実践とエスニシティ

日本学術振興会特別研究員PD・神戸大学 高田 良太

 法や慣習はエスニシティを構成する要件であるが、言語や宗教と比べると社会史の分析の対象として扱われていない。制度の基盤となっているために、史料の表面に現れにくいことが一因であろう。しかし、法の境界地域に目を向ければ、法とエスニシティの関係が浮かびあがってくるのであり、中世後期のクレタはその一例である。

 13世紀、クレタ島はビザンツ領からヴェネツィア領へと編入された。ヴェネツィア都市法による支配においてビザンツ的法実践がどのような変化を被ったのか、あるいは変化しなかったのかを考えることが本報告の目的となる。

 ギリシア語の文書のほとんどは散逸しているものの、残存しているラテン語の文書の中には、ギリシア系住民が依頼して作成された文書や、ギリシア語文書からの引用がなされる事例がある。それらの分析を通じて、境界地域における法実践が実践者のエスニシティと密接なつながりをもつことを明らかにする。

3.新キリスト教徒系知識人リベイロ・サンシェスの教育論と社会改革論-18世紀ポルトガルにおける啓蒙改革の企図-

大分県立芸術文化短期大学 疇谷 憲洋

 18世紀ポルトガルには、ヨーロッパ規模で進行していた「啓蒙」をいかに受け入れていくかという課題があった。その中で、活動の場を国外に求め、そこからポルトガルの現状批判と改革の必要性を訴える知識人もいた。新キリスト教徒系の医師アントニオ・ヌネス・リベイロ・サンシェス(1699~1782)は、異端審問所の迫害を逃れるため1726年に出国し、オランダ、ロシア、フランスなどヨーロッパを渡り歩きながら著述活動を行う。さらにパリ駐在のポルトガル人たちとコンタクトを持ち、ポルトガルの啓蒙と改革についての様々な提言を執筆している。教育改革の開始に呼応して著された『若人の教育についての書簡』ならびに草稿「貴族教育論」を中心に、彼の教育論の方向性と射程、社会改革論について検討する。さらに、当時進行中であったポンバル改革との並行性や関係性についても、考察を加えたい。

4.立憲聖職者ピエール・ドリヴィエの結婚

鳥取大学 柳原 邦光

 フランス革命では、カトリック聖職者はきわめて困難な状況に直面した。とりわけ、非キリスト教化運動期(1793-94年)には、多数の聖職者が聖職を棄て、結婚している。その多くは強制の結果であるが、早くから革命に積極的に参加し、自発的に聖職を放棄したり結婚したりした聖職者もいる。ピエール・ドリヴィエ(1746-1830年)もその一人である。ドリヴィエは小村の司祭であるが、「飢えない権利」の観点から穀物取引の自由を批判し、私的所有権の制限さえ主張している。村の司祭として日常生活を観察することからこのような認識をえたとされる。本報告では、1792年11月に聖職についたまま結婚し、それに関する見解を2度にわたって印刷物の形で公表したことに着目する。ドリヴィエはなぜ結婚したのか、なぜ見解を公表したのか、聖職者の結婚にどのような社会的意味をみていたのか、これが検討課題である。

5.マルクスと学位取得 ― 1830/40年代ドイツにおける学位制度の一側面 ―

慶應義塾大学 神田 順司

 1835年冬学期から1年間ボン大学法学部に在籍したマルクスは、1836年冬学期からベルリン大学法学部に移り、1840年夏学期末まで8学期間同学部で学んでいる。しかし彼は1841年春に急遽ベルリンからイェーナ大学哲学部に学位論文提出先を変更し、そこで学位を取得している。だが、彼の取得した学位はアカデミーにおける昇進の道の閉ざされた形ばかりの学位であった。

 本報告ではマルクスのベルリン大学入学から学位論文作成およびイェーナ大学への論文提出先変更経て学位取得に至るまでの過程を、書簡や同時代史料ならびに大学文書館所蔵の学位規定や審査関連文書に基づいて考察し、そこから見えてくる当時のドイツにおける学位制度の実態を明らかにする。

6.19世紀後半イギリスにおける官僚制度改革と下級官吏の反応 

日本学術振興会特別研究員PD・京都大学大学 水田 大紀

 この報告では、1870-90年代のイギリスで行われた官僚制度改革と下級官吏との関係に注目し、改革に対する彼らの反応の考察を通じて、官僚制度の近代化に下級官吏が果たした役割について論じる。19世紀後半のイギリスでは行政機構の効率化と経費節減を目的に改革が行われた。この時代、官庁で経常的業務を行う下級官吏の役割はより重要になり、そのため彼らは改革を通じて様々な変化を経験した。彼らにとって改革は、生活を向上させ能力に見合う地位と給料を得るチャンスであった。しかし改革は予期せざる変化や女性官吏の雇用をめぐる官庁上層部との軋轢をも生み出したため、彼らはそのような問題を解決するために集会を開き対応を協議した。下級官吏たちは改革を通じて能力主義を受容する一方で、相互の団結や協働意識を強め、改革の成果を上層部との交渉の中で再確認していったのであった。

7.ナチ強制収容所におけるユダヤ人女性の生き残り戦術

広島大学 菅野 麻衣子

 戦後、アウシュヴィッツなどのナチ強制収容所跡地が記念館となったり、かつての被収容者の回顧録などが出版されてきた。ただ当初の生存者団体の中心は男性であり、研究者が対象としたのも専ら男性被害者だった。しかし近年、とりわけ一九九五年の収容所解放五十周年を記念した出版物が多く出され、ホロコーストにおける女性への関心が高まってきている。主に女性が収容されたラーヴェンスブリュック強制収容所やナチのジェンダー政策など、ホロコーストにジェンダーを絡めた研究が本格的に始まった。本報告では、ナチの収容所運営政策の転換が引き起こしたユダヤ人女性被収容者数の推移や、彼女たちが強いられた状況の変化について、ラーヴェンスブリュックを中心に見ていく。収容所で生き残るためには、ユダヤ人であること自体が不利だった中で、彼女たちはどんな行動をとっていたのか。生存者のインタビューをオーラル・ヒストリーとして用いながら、考察する。

 8.戦間期における「アンシュルス」「中欧」「ヨーロッパ」―独墺関税同盟計画に至る地域経済統合の射程―

九州大学大学院法学研究院協力研究員 北村 厚

 戦間期ヨーロッパ統合論の研究は、EC・EU前史としての意義を強く持った西欧中心の「パン・ヨーロッパ」論などに集中していたが、当時のドイツや中・東欧にも多様な地域統合論が存在していた。中でも1931年の独墺関税同盟計画は、「ヨーロッパ」経済統合への展望を標榜して登場したが、フランスからは「アンシュルス(独墺合邦)」や「中欧」に向けたドイツの野心の現れだとして強く非難され、挫折に追い込まれた。本報告では独墺作業共同体やウィーン商業会議所といった民間団体の地域経済統合構想を紹介し、これらと独墺関税同盟計画との関係を政策過程分析によって明らかにすることで、戦間期のドイツを中心とする地域経済統合論が持った「アンシュルス」「中欧」「ヨーロッパ」という多層的な射程の全体像を明らかにする。