シンポジウム趣意書

「歴史の中の記憶~そのかたち、メッセージ、解釈~」

 本シンポジウムは「歴史の中の記憶」と題して過去や現在の出来事が、いかにして集合的記憶ないしは公共の記憶として認知され受け継がれてきたのか検討することを目的としている。その際にわれわれは、歴史上にみられる一連の記憶の形成過程を、記憶のかたちとしての「モノ」、刻み込まれた文字・図像をはじめとするメッセージ、そして相異なる解釈コードという三つの次元が重層的に重なり合い、凝集した一つの記憶の場として捉えている。こうした議論の前提に立ちながら、記憶の構築の意図と過程・普及・受容の一連のプロセスを検討し、以下の三点をシンポジウムにおける論点として呈示してみたい。

①記憶のかたちとメッセージ

 ある出来事を公共の記憶として残し、継承する方法としては、石碑、口頭と書物、パンフレットなど、さまざまな記憶のかたちが想定されよう。相互の記憶のかたちを比較してみた場合、たとえば文字テクストとは異なるかたちを持つ記憶(たとえば銅像や石碑)は、文字テクストに示された歴史や記憶と比べて、受容に際して解釈の幅が大きくなることが想定されるだろう。情報の発信者の側に立った場合、彼らはあるメッセージを記憶として石碑や書物に組み込みながら、「過去」や「伝統」をいかに創出し後世に伝えようとしていたのかを明らかにしてみる。

②記憶の共時性

 もとより、記憶には個人的な記憶も想定可能であるが、ここでは過去や現在の出来事が、いかにして集合的記憶ないしは公共の記憶として認知されるようになるのかを論点としたい。しかしながら、公共の記憶の形成過程は複雑なものとならざるをえない。そもそもある出来事が記憶としてテクスト化される時点において、いわゆる歴史叙述の構築性を帯びることになるからである。その意味でH.ホワイトらの「メタヒストリ」の議論をそのまま受け入れることはできないにしても、「ありのままの過去」と「公共の記憶」との間の乖離は認めざるをえないであろう。

 むしろ本シンポジウムでは、次の点に注目してみたい。すなわち、ある出来事が記憶として相対的に多様なかたちでテクスト化されることにより、異なったヴィジョンを描き出す多様な記憶が併存することになる。つまり公共の記憶が形成されていく際には、同時にこうした公共の記憶たり得ない雑多な記憶が併存しているのである。そこでまず、様々な記憶の中で、いかなる争いや操作を通じて、ある記憶が「公共の記憶」としての座を獲得することになるのか。「公共の記憶」の成り立ちかたに注目してみたい。

 第二に「公共の記憶」が、人々の間で共有されることによって、ある過去の出来事が、現在における共同体の秩序創出、安定化目的の手段として活用される事例の検討も重要な課題となろう。

③記憶の通時性

  公共の記憶が成立しても、それは必ずしも固定的なものではなく、時代的・政治的・文化的な環境が変化する中で、常にその解釈に変化が生じる余地を残していることを論点としたい。先述のように記憶は決して単数ではない。多くの場合、雑多で相互に対立する記憶が交差しており、それらを統合していく過程で、ある種の記憶が歪曲されたり抑圧されたりすることは避けられない。ある場合にはそれは暴力をともなう衝突にも発展しかねない。ゆえに記憶をめぐる抗争は、記憶の正統性をめぐる政治的な抗争にもなりえるのである。

 したがって情報の受信者は、様々な記憶の形を通じて同時代ばかりでなく,過去に発せられた情報を、自己の立ち位置からいかに解釈したのか、あるいはそれらが、その後にいかに読み替えられていくのか検討してみたい。

 「歴史の中の記憶」をめぐるこうした議論を展開するために、本シンポジウムでは、三つの報告を用意した。

 まず日本史からは羽賀祥二氏が「一九世紀日本の記念碑文化」と題して報告を行う。一八世紀末から一九世紀初めにかけて、日本各地で記念碑の建立が始まった。記念碑には多様な種類、形態が存在しているが、その建立の意図は、公共性の領域において功労があった歴史的事績・人物を社会的に表彰し、その功労を後世に記憶として残し、また功労者の道徳性を模範とすること、また公共の安寧を侵害する厄災の犠牲者を追悼し、将来への戒めとすることにあった。記念碑には、空間性、象徴性、共同性、反復性という性格が内包されている。くわえて記念碑は戦争や災害の死者と関連を持つことから、宗教的な意味合いを持っており、したがって「招魂」・「供養」という宗教的観念と行為が記念碑に強く刻印づけられているのである。本報告では、記念碑の持つ宗教的性格を通じて、日本における記念碑文化の特質が考察されることになる。

 

 東洋史からは上田新也氏が「ベトナム・フエ近郊村落における文書保存~村落文書よりみたタンフオック集落の過去と現在~」と題して報告を行う。現在、ベトナムの古都フエの周辺村落における地方文書の収拾・保存のプロジェクトが進められており、その結果、集落によっては三〇〇年以上にわたり文書が蓄積・保管されていることが明らかになりつつある。本報告では、そのような集落の一つである清福集落の事例を取り上げる。同集落では各種の公文書を中心とする膨大な史料が、亭に保管されている。しかし亭は単なる史料の保管場所というわけではない。清福集落の亭は開耕神である潘粘を祀るコミュニティの中心的な施設でもあり、同集落における共同体意識の形成に重要な役割を果たしてきたと考えられる。本報告では清福村落内に蓄積された地方文書の検討を通じて、集落そのものの変遷や発展を考慮しつつ同集落における共同体意識の形成と変遷を明らかにし、亭に集積された文書群が持つ記憶のかたちとしての意義を考えたい。

 西洋史からは前野弘志氏が「ある碑文の歴史~いわゆるデルフィの蛇柱碑文の場合~」と題して報告を行う。前四七九年、プラタイアの戦いに勝利したギリシア人は、勝利を感謝して、神々に様々なモノを奉納した。デルフィのアポロン神への奉納物は、三匹の蛇が絡みあった形の青銅製の柱に支えられた黄金の鼎であった。この奉納物は、現在もイスタンブールの戦車競技場跡に立っており、この碑文に関するエピソードを伝える文書史料も複数つたわっている。

 例えば、プラタイアの戦いを指揮したスパルタの将軍パウサニアスは、この記念碑に、自分の武勇を喧伝する二行連詩を刻ませたが、それを知ったスパルタ当局は、すぐさまその詩を削り落とし、代わりに戦いに参加した全てのポリスの名を刻ませた。また、ペロポネソス戦争中の前四二七年、プラタイア人がスパルタ人に降伏し、その戦争裁判の際、プラタイア人が五〇年も前に刻まれたこの記念碑の碑文に言及して、自分たちの助命を嘆願している。第三次神聖戦争中の前三五四年、この黄金の鼎がフォキス人によって溶解され、戦費に変えられてしまう。残された記念碑の青銅製の支柱は、その後コンスタンティヌス帝によって新都コンスタンティノープルの戦車競技場に移設され、旋回部分の目印とされた。現在もこの支柱は競技場跡にのこっている。本報告の目的は、この記念碑の長い歴史をたどりながら、碑文による記憶の形成過程の一事例を提供することにある。

 広島史学研究会大会シンポジウムで、「歴史の中の記憶」について本格的な議論を行うのは初めての試みであり、会員諸氏の活発なる議論を期待するところである。