2010年度 東洋史部会発表要旨 |
1.南スマトラ・ランプンにおける地方行政政策とマルガ制 広島市立大学 藤田 英恵
マルガ(marga)とは、系譜に基づき、領域のはっきりした村落群からなる、スマトラ島南端ランプン地方における最上位の原住民社会組織のことである。ランプンがオランダ植民地支配下に入った一八五七年以降、マルガ制はオランダによる強い介入を受けた。二〇世紀初頭の報告書によれば、既にマルガ首長の存在自体が消えてしまった地域も多く、その下部組織である各カンポン(kampong)は自立して存在していた。
しかし二〇世紀前半にジャワを中心に地方分権化政策が進められる中で、マルガ制を再評価し、村落行政に活用しようとする動きが出てきた。一九二二年にランプン諸郡のための原住民自治体条令(Inlandsche
Gemeente Ordonnantie)が制定され、各マルガの領域及びその首長パシラー(pasirah)の権限等が定められた。しかしジャワ型のデサを外領に移出しようとしたこうした一連の動きは、ランプンの慣習に合致するものではなく、後に住民からの反発を招く原因にもなった。
本報告では、こうしたマルガ制を含めたランプンにおける村落共同体の変遷課程とオランダ植民地行政の介入について整理し、その問題点を明らかにしたい。
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2.戦時期における在華紡技術の中国への移転 島根大学 富澤 芳亜
本報告では、戦時期に日本の紡織用品工業が、在華紡を通して中国へ移転された過程を解明する。紡織用品とは、リング、トラベラー、木管(ボビン)など紡織工場の操業に不可欠な製品である。
近代中国機械工業の先行研究として、清川雪彦氏と島一郎氏の研究をあげることができる。両氏の研究はいずれも、上海市工商行政管理局等編『上海民族機器工業』中華書局、一九六六年を基礎資料とし、戦前の中国紡織機械工業について、大隆機器鉄廠などの自律的発展を認めつつ、阻害要因としての在華紡の存在を指摘した。しかし近年、上海市档案館所蔵の中国紡織機器製造公司档案を利用した、同社に関する研究の進展により、戦後の中国に「留用」された豊田関係の技術者が、紡織機器の製造に大きな貢献をなしたことが解明されている。 こうした先行研究を基礎として、本報告では、大阪大学経済学部所蔵綿業協会資料、神戸大学経済経営研究所所蔵内外綿資料、上海市档案館所蔵中国紡織建設公司档案、各社の社史などを使用し、在華紡を代表する企業だった内外綿における、紡織用品工業の中国への移転を解明する。
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3.一九五〇年代半ばの中国民主建国会をめぐって 広島大学 水羽信男
民主建国会(民建)は、一九四五年末に重慶で組織された。民建に結集したのは、日本の支配を受けることを嫌い、重慶など奥地へ移動した資本家たちと、中国の民主化を求めながらも、中国民主同盟の活動に違和感を持っていたと言われる知識人たちであった。学界で着目されることの少なかった民建について、報告者は研究を進め「共和国成立前後の民主建国会、一九四五―一九五三年」(久保亨編『一九四九年前後の中国』汲古書院、二〇〇六年)や「一九五〇年代における『民族資産階級』について」(『東洋史研究』六七巻四号、二〇〇九年三月)などを発表している。
本報告では、上記の研究などを前提として、一九五三年から一九五六年までの民建を取り上げる。この時期は人民共和国成立当初の「新民主主義論」における私的資本の発展を目指す方向が転換され、第一次五カ年計画のもと一九五六年の社会主義改造へと到る過渡期にあった。この時期においてもなお、民建の指導者たちが求め続けた「新民主主義」に基づいた中国の変革の道筋は、一九五七年の反右派闘争によって最終的に伏流させられることになった。本報告では民建のリーダーであった章乃器の思想と行動を中心に考察し、人民共和国の変質過程を概観することを目指す。
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4.唐・玄宗の封禅―唐代王権の構造について―
京都府立大学 笠松 哲 封禅とは、新たに王朝を創業した君主が、統治の成功を天地に祈念する儀礼である。唐代には、二代皇帝・太宗が封禅を計画するものの遂に実施することはなく、続く三代皇帝・高宗が実施した。発表者はこの高宗の封禅では、①従来の天地祭祀だけではなく、文武百僚および周辺諸族との会見儀礼が行われたこと、②この会見儀礼は『儀礼』覲礼篇に基づいて構成されたものであり、中国皇帝と周辺諸族との会盟機能を有するものであること、③これは東突厥などの周辺諸族が唐朝へ帰順してきたことが背景にあったこと、を明らかとした。高宗の封禅は会盟機能を有することで、中国皇帝と周辺諸族との君臣関係が締約され、中国皇帝によって天下世界の秩序が新たに成立することを明示するものであった。今回の発表では、高宗に続き、再び封禅を実施した六代皇帝・玄宗の事例を検討する。玄宗の封禅は、高宗の先例を踏襲するものであったのか、相異するものであったのか。封禅の分析を通して、太宗・高宗から玄宗にいたる唐朝前期の王権の構造に迫りたい。四明史氏は南宋時代の孝宗朝から理宗朝にかけて、史浩
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5.南宋寧宗・理宗朝の官界における四明史氏の動向―『四明文献』を手がかりとして― 北海道大学 小林 晃
四明史氏は南宋時代の孝宗朝から理宗朝にかけて、史浩・史彌遠・史嵩之三人の宰相を輩出した名族であった。四明とは現在の浙江省寧波市の雅称である。リチャード・デイビス氏や黄寛重氏の研究によると、四明史氏は史浩の世代までは宗族内部の団結を保持し、それを基盤として宗族の繁栄を達成したが、史彌遠政権の成立以降は宗族内部で激しい対立を生じさせ、そのことが史氏一族を衰退させる一因として作用したという。すなわち史彌遠の弟の史彌堅や同族の史彌鞏、姻戚の陳塤らが史彌遠の専制にきわめて批判的であったことが明らかにされているほか、史彌遠の次男の史宅之と族姪の史嵩之の間にも不和があったことが指摘されているのである。ところが明代に編まれた『四明文献』には、そうした先行研究の成果と齟齬しかねない史料が多数収められていた。本発表では『四明文献』所収の史料を主に用いることで、史彌遠政権前後の四明史氏の動向を追い、史氏一族の内部で本当に不和が生じていたのか否かを再検討することにしたい。
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6.今、なぜ、一九世紀半ばのジャワ島なのか?―「強制栽培制度」をめぐる諸問題― 名古屋大学 大橋 厚子
オランダ植民地政庁支配下のジャワ島おける「強制栽培制度」(一八三〇~一八七〇年)は、従来、夫役労働を強化して資本主義の発展を阻害した制度と見なされてきた。しかし近年、一八四〇年代以降のジャワ島では資本制企業が展開し、「強制栽培制度」は機能していなかったとの主張が見られる。本報告は、このような異なった評価を得る「強制栽培制度」について、グローバルな動向を視野に入れつつ地方の事例を検討する。南シナ海の国際貿易動向に位置づけるならば、「強制栽培制度」は、島嶼部東南アジアにおける数十年に一度の不況のなかで、植民地政庁が輸出農業開発を目的として実施した大規模な公共投資であった。そして政庁による砂糖企業および現地社会への便宜供与は、経済面で、ジャワ島経済の安定および農民の物質的生活の向上をもたらした一方で、政治社会面では、夫役労働強化によって彼らの労働裁量権・決定権を奪ったのである。
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