2014年度 文化財学・民俗学部会発表要旨

一、柱頭組物における尾垂木からみる日中古代寺院建築の関係

 佘 晏穎(広島大学)

尾垂木は中国建築様式の特徴として日本に伝えられたとされている。柱頭における尾垂木について、古代日本寺院建築の遺構からみると、二手先では尾垂木なし、三手先では尾垂木一本つきという規律がある。また、三手先以上の多重組物は天竺様・唐様を除き鎌倉時代以前にはない。しかし、日本の飛鳥・奈良・平安時代と同じ時代である中国の唐宋時代における建築基準では、二手先は尾垂木一本つき、三手先は一本あるいは二本の尾垂木つき、四手先は二本の尾垂木つきと定められている。また中国の現存遺構からみると、三手先が少なく、二手先と四手先のほうが多い。

本発表は日本と中国の古代寺院建築及び文献資料を検討して、柱頭組物における尾垂木の日本への伝来と変遷を中心にして、日中古代寺院建築の関係を明らかにしたい。

二、古代日本の輦輿について

 藤澤 桜子(広島大学) 

 天皇の乗物たる輦輿に鳳輦と葱花輦の二種があり、略儀の行幸用である葱花輦に対し、鳳輦が正式の乗物とされていたことはよく知られている。しかしながら、その認識はきわめて漠然としたものに過ぎず、実態は明らかにされて来なかった。鳳輦・葱花輦それぞれの存在意義を正面から問うた論考は管見の限り存在しない。

本発表では、従来あまりに当然視されてきたこの点に着目し、そもそも鳳輦・葱花輦はいつ成立した形式であるのか、葱花輦は従来言われてきたような「略儀の行幸用」の乗物に過ぎないのか、鳳輦と葱花輦の間の格式差は実際のところどの程度であったのかといった問題を取り上げ、従来の見解とは逆に、葱花輦こそが古来の形式であったことを指摘するとともに、鳳輦の成立は朱雀朝にまで下ることを証明する。なお、天皇の乗物に新式のものが必要とされた背景に政治的事情があったことは言うまでもないが、その成立による影響も大きかった。

三、『年中行事絵巻』に見える寝殿造対屋及び対代の正面庇について

 山口 佳巳(広島大学)

 平安時代から鎌倉時代にかけての貴族の邸宅である寝殿造については、現存遺構はないものの当時の記録や指図、絵巻物を資料として復元が行われてきた。なかでも『年中行事絵巻』は、寝殿造の邸宅等で行われる年中行事が描かれていることに加え、建物の描写も詳細であり、その資料的価値が高く認められている。

 『年中行事絵巻』に描かれた東三条殿東対において、正面庇の屋根中央を一段切り上げた姿は、寝殿造対屋の特徴的な意匠としてよく知られるところであるが、その架構まで具体的に検証されたことはない。

 そこで、『年中行事絵巻』の描写と先学による成果を踏まえながら、東三条殿東対について、復元平面に対応する合理的な架構を考察し、特殊な屋根形式が単なる装飾的な意匠ではなく、本来は構造上不可欠なものであった可能性を示したい。また、正面庇の屋根中央を切り欠いたように描かれた法住寺殿西対代についても同様に考察し、その特殊な屋根形式とした要因を推察したい。

四、北スマトラ、ビアロ・バハル周辺出土の守門像について

 伊藤 奈保子(広島大学)

 北スマトラ、パダン・ラワス(Padang Lawas)地方には、現在十六の遺跡が点在しており、代表的な遺跡であるビアロ・バハル(Biaro Bahal)の収蔵庫には、周辺から出土した石像数躯が収められている。今回、その中から守門像を取り上げ紹介する。守門像と推察できる作例は七躯で、いずれも砂岩製である。

 中部ジャワ期の守門像は、多くの作例が蹲踞の姿勢をとり、持物に棍棒と、羂索を意識した蛇を握り、冠帯、耳飾、胸飾などの装飾において花紋や円形を用いるのに対し、ビアロ・バハルの収蔵庫で確認できる作例は立像、展左の姿勢で、棍棒の先を下にして両手で柄を握るか、片手で棍棒を執り、もう片手は拳を握っている。装飾については髑髏や蛇が主に用いられる。顔面表現も目を大きく見開き、牙をむき出すなど目鼻立ちが際立っており、肉身も量感がある。全体的に、中部ジャワ期の均衡のとれた彫りの浅い自然さに比べ、力強い彫刻がなされている。装飾、顔面・肉体表現において、東部ジャワ期の守門像に近いことがうかがわれる。

五、東大寺鐘楼における十三世紀から十四世紀に伝来した新建築様式

                                      尚 成紅(広島大学)  

日本の社寺建築は和様、天竺様、唐様の三つに分かれている。和様は十世紀の国風化に伴い形成され、天竺様は十二世紀末に重源によって日本に伝えられた。唐様は十四世紀初に禅僧によって日本に伝えられた。しかし、十三世紀から十四世紀前期にかけて東大寺鐘楼のような特別な建築が存する。東大寺鐘楼は重源の跡を継いで東大寺の大勧進職となった栄西が承元年間(一二〇七~一〇)に建てた。和様、天竺様、唐様と違い特別な建築様式を使っている。同様式は東大寺法華堂礼堂と東福寺三門にも見られる。それら十三世紀から十四世紀の間に日本に伝えられた新建築様式の特徴とその源流などを明らかにする。

六、日本の唐様建築と中国同時代の建築の細部意匠の比較研究

                 晏 鈺(広島大学) 

唐様は十三世紀末に中国から伝わった日本の社寺建築様式の一つである。

先行研究では、唐様は中国の江蘇省南部から浙江省にかけての南宋末から元ごろの様式に近く、これらの地域に存在する中国五山の建築様式に影響を受けたことが指摘されている。一方で、中世唐様建築の細部意匠には差異があることも指摘されている。

中国では一般的に地域差と年代差によって大きく建築形式が異なるが、唐様の伝来に関しては、その点が深く言及されてこなかった。

本発表では、日本の唐様建築と中国同時代の建築における拳鼻の形やその使用部位、尾垂木の形やその架構の違いなどを中心に考察し、意匠差が生じた理由として日本に伝来した唐様が、従来指摘されている南宋と元だけでなく、遼や金の建築形式からも影響をうけた可能性を指摘したい。

七、国東塔についての試論‐納入孔を中心に‐

 曽我 俊裕(広島大学) 

国東塔は大分県の国東半島一帯に見られる石塔の一種で、最古の作例は弘安六年(一二八三)の岩戸寺宝塔である。宝塔の一種と考えられており、蓮台及び塔身に納入孔を開ける点が特徴とされる。

先行研究は意匠や形式を中心に論が進められており、悉皆調査を含む多くの研究成果が存在する。一方で、多くの国東塔は「如法経」のために建立されたことが銘文から判明しているが、詳しい用途に関しては触れられていない。従って他地域の如法経塔や宝塔とは納入孔及び塔身内部の構造が明らかに異なるが、その点に関しては充分な論考はない。

本発表では、納入孔を中心に近畿地方の石造宝塔の形式と比較検討し、大分県南部や瀬戸内海沿岸に分布する同様の塔身構造を有する石造宝塔との関連性にも触れながらその特徴を考えたい。

八、吉川八幡宮本殿について

 平 幸子(広島大学)

 

吉川八幡宮は、天安元年(八五七)創祀と伝えられ、京都の石清水八幡宮の別宮となった神社である。現在の本殿は、応永二年(一三九五)の再建と伝えられるが一般には室町後期とされている。

本殿は、五間社の大規模な建築であって、入母屋造の身舎の正面に庇を葺き下ろす構造形式となっている。身舎の組物は出組を使い、ほぼ和様で統一されているが、回縁は、天竺様の一手法である挿肘木を取り入れており備中吉備津神社本殿の形式を受けているとも考えられる。本殿の正面に建つ切妻造妻入りの拝殿は後世の建築である。

現本殿の特質について、室町の再建で、同じ備中国であり且つ地理的にも近い吉備津神社本殿の影響について考察する。

九、『江府御天守図』に関する考察

 中村 泰朗(広島大学)

『江府御天守図』とは、徳川家光創建の江戸城寛永度天守を描いた差図として著名である。本図には各階平面の指図および建地割図が記されており、そこに柱間間隔や各部の寸法が詳細に書き込まれていることもあって、同天守を研究するための極めて重要な資料として評価されている。

本図は図中書き込みによって百分の一の大きさで描かれたとされているが、百分の一という近代図法に用いる縮尺ではなく、一間(六尺五寸)を六分五厘で描いた、いわゆる六分五厘計図であると考えらえる。その他、七尺という柱間間隔に対して柱などの部材が比較的大きく描かれている点など、重要な問題点も多く残されている。

そこで本発表では、本図に対して詳細な検討を加え、さらに同時代の城郭建築との比較を行うことで上述の諸問題点について考察する。

十、中国と日本の孔子廟の比較研究

 韓 効含(広島大学) 

孔子廟は孔子を祀る建築であり、中国では「祠堂」とされ、日本では一般的には「霊廟」とされている。

中国の孔子廟は、当初は小規模のものだったが、後世、儒学の発展につれ、権力者により曲阜孔廟が次第に増築され、全国各地にも多くの孔子廟が建てられた。蘇州孔廟や北京孔廟などが有名である。これらの孔子廟もまた国廟・家廟・学廟という三種類に分けられる。

一方、日本では儒学が伝来後、徳川将軍家の好学により、孔子廟の多くが官学校や藩学校の中に建てられ、中に聖像あるいは聖画が安置されている。また多久聖廟や湯島聖堂は有名な存在で、中国風ではあるが日本独特の構造になっている。

本発表では、中日の孔子廟が、それぞれ霊廟や祠堂の中でどのような範疇に位置付けられるか、建築形式や配置などについて、特に多久聖廟と曲阜孔廟を中心として比較し、両者の共通点と相違点を論じたい。

十一、砥部焼の戦後復興について

 曽我 しずく(広島大学)

 砥部焼とは愛媛県砥部町で安永六年(一七七七年)以降生産されている磁器をいう。現在は日用雑器を中心に制作しており、厚手の白磁に呉須の染付が産地イメージとして定着している。しかし窯業開始当初は、有田焼を模した色絵をふんだんに用いた献納品が多く、現在とは作風が大きく異なっていた。すなわち現在の形式が一般化されたのは戦後からである。

この変容は、一般的に柳宗悦が創始した民芸運動の影響とされるが、詳細については未だ考察がなされていない。現段階では、第二次世界大戦以降、廃れた産地を復興させるべく全国から招聘した指導者の影響があったと考えられている。

本研究では、砥部焼の文様の変容について、また民芸運動をどのように受容し、発展させて現代砥部焼を確立させたのかを検証し、砥部焼の定義とその特性を明確化することを目的とする。陶工への聞き取り調査、作品のデザイン・技法の分析などを中心に砥部焼の戦後史について考察する。