2014年度 考古部会発表要旨

一、中島1号遺跡の発掘調査について

 東広島市教育委員会 津田真琴

 中島1号遺跡は、東広島市立高屋西小学校の所在する低丘陵の平坦部から南側、標高約二三五mの緩斜面に位置する弥生時代の遺跡である。

主な遺構として、土器棺二基、土器蓋土壙墓一基と石棺三基が検出された。このうち石棺一基は既に一度盗掘を受けており、蓋石がいくつか無くなっていた。この石棺をのぞく二基の石棺は土器棺と同じレベルから検出されたこと、その大きさから土器棺と同じく小児用と推測できること、狭い範囲に密集することなどから、いずれも同時期のものと推測される。

 遺物については、土器棺に転用された土器以外にはほとんど出土していない。これら土器棺に転用された土器はいずれも弥生時代後期の土器でそれぞれに作り方が異なっており興味深い。他遺跡の類例などと合わせて若干の考察を加え報告を行う。

二、陣が平西二号遺跡の発掘調査について

 東広島市教育委員会 杉原弥生

 陣が平西二号遺跡は、東広島市西条町下見地区の標高約二三〇mの丘陵上に位置する弥生時代の遺跡である。

主な遺構として、貼石墳丘墓と石蓋土壙墓が各一基、土壙墓が四基密集して見つかっている。貼石墳丘墓は、大部分がすでに掘削されており全体の形は不明であるが、方形の貼石墳丘墓とみられる。石蓋土壙墓は、貼石墳丘墓の背面掘削部を利用して作られており、付近の貼石を蓋石の目地を塞ぐために利用している。土壙墓群は、斜面を掘削して平地を作り、そこに土壙を掘っている。

出土遺物については、貼石墳丘墓の背面掘削部からは弥生土器と共に鉄鎌が出土した。土壙墓群の上層部からも弥生土器が出土し、土壙墓内からは石鏃が見つかっている。出土点数は大変少ないが若干の考察を加えて遺構と共に報告する。

三、長畑山古墳(三次市吉舎町)の調査成果について

公益財団法人広島県教育事業団埋蔵文化財調査室 山田繁樹

長畑山古墳は平成二十年に調査が行われ、今年度報告書が刊行される。今回、報告書を執筆するにあたって、いくらか気づくことがあったので調査成果と併せて報告を行いたい。

古墳は、三玉大塚古墳と馬洗川を挟んで向かい合う南側の丘陵斜面に立地し、横穴式石室を埋葬施設としている。築造時期は出土遺物から六世紀末~七世紀と考えられ、追葬は二回行われ、七世紀末頃に再利用されている。

成果として、一、石室石材の積み上げ前と積み上げ後に墓前祭祀が行われている。二、出土した鉄鏃三七点の内、二一点に棘状の関が認められる。三、墓前祭祀に使用された遺物と三回の埋葬に使用された遺物に時期差がみられない。などの点があげられる。棘状関の鉄鏃は、この時期の特徴とされるが確認例は少ない。被葬者像を考える上で、可能であればX透過撮影などを利用して資料の再調査を行い関の状況を確認する必要がある。

四、広島県の原始・古代の渡来系遺物について

公益財団法人広島県教育事業団埋蔵文化財調査室 伊藤実

広島県の弥生から奈良時代の渡来系遺物や遺構を集成すると、古墳時代中期(五世紀)にピークがあり、特に広島湾岸に集中することがわかった。時期的なピークは西日本一帯の他地域と同じだが、流入の窓口が広島湾にあったことが推測できた。またこのことは、渡来経路も瀬戸内海が主流だったことを示していると理解できる。

 ところが古墳時代後期(六世紀)になると、広島湾岸の渡来系遺物はほとんど明らかでなく、替わって備後南部と北部に点々と出てくる。これはその後の飛鳥・奈良時代も変わらず、広島県の沿岸部においては、渡来人や渡来文化流入の窓口が、古墳時代の中期と後期の境で、地理的に大陸に近い広島湾岸から、備後南部に変わったことを推測させる。

備後南部は、この時期以降吉備の一角を占めるようになる地域で、渡来人や渡来文化が吉備を大きな窓口として流入するようになる、という見方が可能かもしれない。

五、軒瓦から見た伯耆国庁と国分寺の造営

東広島市教委委員会 妹尾周三

 伯耆国衙と国分寺は、鳥取県倉吉市に所在する奈良~平安時代の国営官衙と国立寺院である。一九六九年から始まった一連の発掘調査によってその概観が明らかとなり、現在は国史跡に指定されている。

 このうち、伯耆国分寺については、出土した軒瓦を大まかにⅠ期(創建期・八世紀後半)とⅡ期(八世紀末~九世紀代)に分けて検討されてきた。しかし、隣接する国衙の中心施設、国庁においても国分寺でⅠ期に位置づけられた軒瓦が一定量出土したが、このことは無視され施設の変遷が考えられた。このため、近年の保存・活用を目的とした発掘調査において、多くの矛盾が指摘されているのである。

 発表者は、西国における律令制の浸透を屋瓦から検討しているが、今回は伯耆国庁・国分寺出土の軒瓦やこれに関係する伯耆国内の軒瓦の再検討を行う。そして、この結果から双方の造営過程を考えてみたい。

六、北広島町小見谷製鉄遺跡群の調査研究

比治山大学 安間拓巳

小見谷製鉄遺跡群は山県郡北広島町上石に所在する。国史跡吉川元春館跡の西方約一・五㎞のところを北流する小見谷川の流域約三㎞にわたって製鉄遺跡や炭窯跡が二〇箇所以上点在する遺跡群である。小見谷川下流域は吉川元春館建設に関連する文書中に見える「和浪の鍛冶」の居住地と推定され、遺跡群との関連が指摘されている。

遺跡群は一九九四年から実施された吉川元春館跡の調査、整備事業の際の分布調査により確認されていたが、二〇一一年から北広島町教育委員会、小見谷遺跡保存会のご支援・ご協力のもと、地形測量調査等の基礎調査を開始している。

今回は、これまでに実施した水釜迫製鉄遺跡や大草三号製鉄遺跡・炭窯跡などの調査成果を中心に、遺跡の状況とあわせて、遺跡群のもつ意味などについて報告を行いたい。

七、庄原市佐田谷墳墓群の調査について

辻村哲農

 庄原市高町に所在する佐田谷墳墓群は、弥生時代中期後葉から後期前葉にかけて築造された墳墓群である。一般国道一八三号道路の改良工事に伴って昭和六十一年に発掘調査が行われ、四隅突出型墳丘墓一基を含む計三基の墳丘墓が確認されている。

 この佐田谷墳墓群のうち、佐田谷2号墓及び3号墓の埋葬施設の確認を目的とした発掘調査を、平成二十四年度と二十五年度の二次にわたって実施した。

 調査の結果、佐田谷2・3号墓はともに中心埋葬をもち、いずれも佐田谷1号墓の中心埋葬に匹敵、あるいは1号墓を超える大規模な埋葬であることが確認された。当該期の墳丘墓において、このように大規模な中心埋葬はみられないことから、本墳墓群が弥生時代における首長権力の成立を示す重要な遺跡であることが明らかとなった。

 また、佐田谷3号墓の中心埋葬上からは吉備地域の強い影響をうかがわせる土器が出土しており、当該期の地域間交流を示す重要な発見である。

八、史跡二子塚古墳前方部石室の発掘調査について(二)

福山市教育委員会文化課 内田 実

 福山市駅家町大字中島・新山に所在する史跡二子塚古墳は,墳長六八mの前方後円墳で,周溝を含めた全長は七三mを測る。後円部石室は両袖式で玄室長六・八m,羨道長八・一mの全長一四・九mに加えて,長さ九・八mの石積側壁の墓道がつく。玄室幅は,奥壁部分の床面で二・一mである。

 二〇一三年度は保存整備計画について検討するとともに,整備に必要なデータを得る目的で前方部石室の発掘調査を実施した。調査の結果,前方部石室も両袖式であり,玄室長五・一m,羨道長七・五mの全長一二・六m,玄室幅は,奥壁部分の底面から三〇㎝の高さで二・〇mであった。今回の調査では床面まで掘っていないため,石棺・木棺の有無は不明である。また,羨道入口の墳丘裾部付近から,一五~三〇㎝ほどの石二八点,大型の須恵器甕,蓋杯,土師器高杯,鉄滓等がまとまって出土した。埋葬時あるいはその後の儀礼の跡と考えられる。

九、二〇一四年度帝釈大風呂洞窟遺跡の発掘調査について

広島大学大学院文学研究科 ※平尾英希 竹広文明

 帝釈大風呂洞窟遺跡は、これまでに一八次におよぶ発掘調査が実施されている。第一次~第七次調査で遺跡西側が調査され、六層の層序が確認されており、第三層~第五層上部において縄文時代の層が確認されている。また、第七次調査から遺跡東側の調査に取り掛かり、D─四・五・六区、E─四・五区、F─五区において最深部で第五層までの堆積状況や遺構、遺物の分布状況が明らかとなっている。昨年度の調査では、E─五区、F─五区およびD─六区の調査を行い、E─五区、F─五区の第四層において焼土面が三箇所で検出されている。

 本年度の第一九次調査では、第三層で調査を中断しているD─五区の調査を中心に行うとともに、昨年に引き続き、E─五区とF─五区、D─六区の調査を実施し、洞窟テラス東側における堆積状況や遺構、遺物の分布状況の把握に努め、その利用状況について検討したい。また、埋葬遺構の有無についても確認していきたい。