2014年度 日本史部会発表要旨

一、延喜二年官符考 寛平・延喜の国制改革の再検討

奈良教育大学  今 正秀

 延喜荘園整理令を含む延喜二(九〇二)年三月十二・十三日の日付をもつ九通の官符からは、当該期の政策動向がさまざまに論じられてきた。かつては、これら官符をもって王朝国家体制への転換の指標とする見解も提示されたが、その後の研究では、これら官符は律令制復古策と解されるのが通説となっているといってよい。そのような理解に立てば、当時すでに律令制に基づく支配への復古を可能にする条件は存しなかったことは明らかであるから、延喜二年官符はそれを打ち出した政府の律令制への固執と、それ故の政策の無効性を物語るものということになる。

 しかし、これら官符を寛平・延喜の国制改革の動向のなかに位置づけてとらえ直してみると、異なった理解が可能となる。それは、近年その達成が否定的にとらえられがちな寛平・延喜の国制改革について再考することにもなろう。

二、戦国大名領国形成における起請文利用―肥前龍造寺氏を素材として―

九州大学  津江 聡実

 戦国大名研究において、大名と地域領主(国衆)との関係は重要な論点のひとつである。特に、地域領主から戦国大名へと台頭する勢力については、その領国形成過程において、他地域領主との関係の変化が勢力の自立化、また上位権力者として受容される重要な指標となる。そのため、この関係の変化に注目することにより、地域領主から大名勢力の成長過程を考察し、その特徴を検討することが可能である。

本発表では、肥前龍造寺氏の台頭期を素材として、特にその起請文の利用に注目したい。起請文は、戦国大名や地域領主間において、同盟や紛争解決などに政治的に利用される。龍造寺氏は、領国形成の際、地域領主に多数の起請文を発給させており、起請文による同盟、または従属関係の構築を重要視していたことが分かる。この起請文の利用の状況を整理し、その意義を検討することにより、戦国大名龍造寺氏の領国形成の特徴について論じる。

三、中世石見国益田をめぐる流通と益田氏

益田市歴史文化研究センター  中司 健一

 かつて岸田裕之氏は、中世の益田地域を支配した益田氏が朝鮮の虎皮や北方産の昆布を入手していたこと、博多に近い原・莚田や現福岡県宗像市の津丸・久末、さらには見島(山口県萩市)を領有していたこと、大谷氏を大将とする水軍を要していたことなどから、益田氏は「流通貿易に積極的に関与」していたとし、「海洋領主的性格」を持つと評価された。

 そして近年、島根県益田市の平野部では中世港湾遺跡の発掘が進み、特に中須東原・西原遺跡からは、大規模な中世港湾集落の遺構および多数の輸入・国産陶磁器が発掘され、他の益田市所在の遺跡での発掘成果とあわせて、様々な地域と結びついた中世益田地域の流通の実態が明らかになりつつある。これらの発掘成果は岸田氏の指摘を裏付けるものであったが、こうした考古学分野の成果の蓄積を踏まえて、文献史学の立場からもその実態解明をより進展させる必要がある。

 そこで本報告は、新出文書の紹介を兼ねながら、次の三点を具体的に明らかにすることを試みる。

 第一に、益田氏がどのようにして交易路を確保しようとしていたかを、大名権力である大内氏や毛利氏との関係、他地域の湊を持つ領主との関係、合戦による所領の獲得などから考察する。

 第二に、益田氏が交易に関与するに際して、実際に交易を担ったのはどのような存在であり、そのような存在が益田氏などとどのような関係を持っていたかを考察する。

 第三に、益田氏や益田地域の人々が他地域と交易するに際して、どのような地域資源を交易品としていたのかを考察する。その際、河川流通の重要性も考える。

四、頼春水の思想について

九州大学  伊藤 大輔

今回報告する内容は、頼春水の思想についての検討を予定している。頼春水は安芸国竹原出身の儒者であり、頼山陽の父親に当たる人物である。青年期に大坂へ遊学し、朱子学の講究に勤め、後に広島藩儒に登用され、当時の広島藩内教学を程朱学に統一した。この教学統一は寛政異学の禁による昌平校教学統一の先駆けとなるものである。

 今回の報告では、春水はどのような意図で広島藩内教学の統一について主張したのか、彼の理想とする、もしくは主張する藩内教育とはどのようなものなのかという事を彼の著作、意見書などから検討していきたいと考えている。すなわち、彼の教育観の検討となる。そして、身分による教育の違いといった点に注目し、また、他藩の儒者の藩内教学統一の主張とも比較検討していきたい。また、春水の教育観の素地となった思想上の影響についても触れていきたいと考えている。

五、日記・書状にみる当主弟の役割―美作国豪農有元家を事例に―

神戸大学経済経営研究所付属企業資料総合センター  加納 亜由子

本報告の目的は、生家に残った非相続人(いわゆる二男三男=当主の弟)の家族役割を再考することである。具体的には「当主の弟」の立場になった人物が豪農経営の中で果たした役割を明らかにしようとしている。

先行研究では「二男三男や当主の弟たちは家や村の中で一人前の扱いを受けなかった」と評価されている。ただしこの評価は、家の公的な側面・当主の立場を基準にした観念的なものに過ぎず、「一人前として扱われない」ということの具体像の解明が求められる。

そこで本報告では、豪農の二男として生まれ、家を相続しないまま、当主の弟・叔父の立場で生家に留まり続けた人物(有元左吉郎)に注目。彼が、豪農経営の中で当主の補佐的な役割を果たしたのではないか、という仮説を設定する。

「当主―弟の間で交わされた書状」の分析を通して、当主の弟が、当主の補佐的な役割・立場で豪農経営を支えていたことを明らかにする。

六、幕末期長州藩の対外政策

大島商船高等専門学校  田口 由香

 本報告は、文久三年(一八六三)の攘夷決行から元治元年(一八六四)の下関戦争までを中心に、長州藩の対外政策を検討するものである。下関戦争は、長州藩の攘夷決行に対する、英仏米蘭四国連合艦隊による報復攻撃である。先行研究では、諸外国は「日本における支配階級に攘夷の不可能なことを思い知らせ」(石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』)ることを目的とし、敗北した長州藩は「単純な攘夷の不可を悟」った(保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機』)と、長州藩の対外政策転換の画期として下関戦争を位置づけている。しかしながら、長州藩内では、後に久坂玄瑞が「攘夷之儀に付而は、始より成算のあることては無之、国体之立不立、大義之欠不闕とにこそあ」る(『木戸孝允関係文書』三)と述べたように、攘夷は勝敗にかかわらず「国体」を立てることを目的に実行された。本報告では、長州藩の攘夷とは何かを明らかにするため、その対外政策を検討したい。

七、長州藩奇兵隊の教育と戦術

広島大学  三宅紹宣

 長州藩奇兵隊については、明治維新史研究の重要な論点の一つとして長い間論争が行われ、膨大な研究を蓄積してきている。しかし、その多くは、奇兵隊が封建武士的か民衆的か、あるいは水平軸的要素と垂直軸的要素を抽出し、二つの要素の混在(田中彰『高杉晋作と奇兵隊』岩波書店、一九八五年)とそのあり方を論ずるなど、性格規定を巡っての解釈が中心であり、その実態はあまり解明されていない。なかでも、奇兵隊においてどのような教育が行われ、その戦術はどのようなものであったかは、ほとんど触れられることが無かった。

 報告では、有志として多様なレベルの者が入隊してくる兵士を育成し、その活力を引き出していくシステムを明らかにし、その教育内容について、主として生兵、小隊、大隊、散兵など各段階の教練書を分析することによって、奇兵隊の戦術の特質を明らかにしたい。このことによって、奇兵隊をめぐる論争を深化させる一助としたい。

八、大正初期の政教問題と安芸門徒―本願寺疑獄事件の検討を通して―

宮内庁書陵部  辻岡 健志

 大正期の政治と宗教の関係は、体系的な宗教法制の整備に至らなかったために問題を山積したまま新たな段階を迎えた。本報告では、明治期の政教関係の課題を浮き彫りにする意図から、大正初期に起きた本願寺疑獄事件の検討を通して政治と宗教組織の関係について考察する。本事件は大正三年(一九一四)、本願寺首脳陣が業務横領容疑から一斉検挙されるという刑事訴訟となった。大谷光瑞は法主を退隠し幕引きを図ろうとするも事は宗門内で収まらず、武庫離宮造営をめぐる本願寺からの贈賄も発覚して渡邉千秋宮相の引責辞任へと発展した。事件発覚の前後を通じて教団内外から本山執行部への批判が苛烈してゆき、特に代議士金尾稜厳を擁する安芸門徒は第四仏教中学の広島から武庫への強硬移転を機に、率先して本山批判を繰り返した。一連の事件に対する安芸門徒の本山改革運動に着目することにより、政教関係の分離線を曖昧にしてきた本願寺の歪みを顕わにする。

九、日本史教科書は近現代の対外戦争をどう描いてきたのか―戦前・占領下・戦後―

神戸学院大学  張 煜

 近現代の日本は、日清戦争から、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変から太平洋戦争、ほぼ十年おきに対外戦争を繰り返してきた。日本の歴史教科書では、この半世紀に及ぶ「戦争の時代」をどのように記述してきたのであろうか。

 本発表では、日本の近現代の歴史教科書がどのように対外戦争・対外軍事衝突(事変)を描いているのか検討していく。歴史教科書記述の変遷を、一九四五年の敗戦とその後のGHQによる占領時期を分水嶺として、それ以前の記述と、それ以降現在までの記述と、何が違い、何を継承していくのかを分析する。

 とりわけ、戦争・事変がいかなる理由で開始されたと記述するのか、その部分に着目しながら、現代の日本の歴史教科書の原点に迫ってみたい。

 1.戦前の歴史教科書が描く対外戦争の正当性

 2.戦後占領下の歴史教科書は、何を変えさせられるのか

 3.戦後の歴史教科書は、「戦争の時代」をどう描くのか