2014年度 東洋史部会発表要旨

一、儲安平「全体像」の構築を試みて―中華人民共和国初期の儲安平を中心に

大阪大学 林礼釗

従来の儲安平研究では、国共内戦期の『観察』時期と百家争鳴期の「党天下」発言時期に収斂された傾向が強く、共和国初期、とりわけ新疆取材時期(一九五四~五六年)についての研究はほとんど見当たらない。また『観察』時期から「党天下」発言時期までの儲安平についての評価は、従来の研究では必ずしも整合的なものとはいえない。二○世紀中国を代表する知識人・ジャーナリストの一人である儲安平の、実態に即した整合的な全体像の構築が求められるが、そのためには、先行研究で欠落している共和国初期の検討が必要である。例えば、なぜ彼は一九四九年前後に「中間路線」から革命路線へと転換したのか。なぜ彼はその後新政権に参加し、そして新疆へ取材に行き、社会主義建設を賛美したのか。さらに一九五七年に中共批判を展開した彼の「党天下」発言の意味とは何なのか。このような論点の解明なしに、儲安平の「全体像」は見えないだろう。本報告では、共和国初期の彼の言動の変化を考察し、一貫して「民主」を追求した知識人・ジャーナリストとしての、整合性のとれた「儲安平像」を提示したい。

二、内モンゴル民族主義運動における内部統一に関して―一九二〇~三〇年代の徳王と呉鶴齢の対立と協力

広島大学 ハムゴト

清朝時代を通して、「内属外藩の区分」‧「盟旗制度の確立」‧「チベット仏教扶植」の三政策により、「王公、ラマ僧、平民」からなるモンゴル伝統社会が形成された。清末新政から、清朝は従来の政策を一変させ、モンゴル社会への直接支配を試み、この課題は後の中華民国政府にも継承された。それゆえ、モンゴル社会の安定は破壊され、その内部統一も崩壊に至った。内モンゴル民族主義者たちはその「開墾」、「改省」に反発し、時には独立も志向したが、その行動はばらばらであり、この内部の再統一は清末から北京国民政府倒壊まで実現しなかった。しかし、一九二〇~三〇年代の徳王と呉鶴齢の対立と協力の繰り返しのなか、徳王ら王公と平民代表と言える呉鶴齢ら「穏健改良派」および白雲梯ら「強硬改革派」との最大限の内部統一が実現されたと考えられる。その成果は「蒙古地方自治政務委員会」であり、内モンゴルに統一した管理機構を樹立した。本報告では関係者の回想録、当時新聞雑誌、資料集などを利用して、その過程を検証したい。

三、近代中国における「学校管理学」について  

―易克臬(ゲツ)・謝冰訳『学校管理法要義』を手がかりに

南山大学 宮原佳昭

報告者は以前、民国初期の湖南教育界の重要人物である易克臬を対象に分析を加え、論文を発表した。そこでは、易克臬がその教育主張や教育政策において「管理」を強調し、それがヘルバルト派教育学に基づくものであることを指摘したが、このような彼の教育観がいかにして形成されたのかについては、史料の制約により分析できなかった。

 そのようななか報告者は昨年、易克臬が清末に翻訳を手がけ、民国初期にも引き続き出版された教育学教科書『学校管理法要義』の存在を知った。本書は日本の書籍を翻訳したもので、さらにその原書はアメリカで刊行されたものである。ここから、本書の内容を分析することで、「学校管理学」のアメリカから日本・中国への伝来や、その中国における理解のあり方、それが中国に与えた影響の一端を明らかにできるのではないかと考えている。

 以上の問題関心に基づき、本報告では、『学校管理法要義』の訳者・関係者、内容などについて、初歩的な検討を行いたい。

四、清朝外交官の国際認識と国際法観

宮城教育大学 箱田恵子

近代の清朝知識人の国際法観を論じる際、しばしば取り上げられるのが、駐英公使・薛福成が出使中に論じた「論中国在公法外之害」である。薛福成の出使期間中の国際認識や外交思想については、彼の日記の稿本(南京図書館蔵)が整理・刊行されたことから、これをより詳細に後付けることが可能となった。報告者は、前稿において、薛の稿本日記と二種類の出使日記の内容を比較し、出使日記の編纂過程を確認するとともに、そこに示された薛の外交構想とその前提となった彼の国際認識-ヨーロッパの勢力均衡秩序-について明らかにした。本報告ではそれらの知見に基づきながら、薛が利用した国際法解説書と「論中国在公法外之害」を照らし合わせ、薛の国際法観を勢力均衡論との関係から再検討する。あわせて、勢力均衡政策への対応が急務となった二〇世紀の清朝外交官の国際法観についても、見通しを述べたい。

五、オランダ植民地期インドネシアのバティック産業

和歌山工業高等専門学校 赤崎雄一

 インドネシアにはオランダ植民地期から現代に至るまで「民族産業」として理解されている産業が二つある。丁字入りたばこ産業とバティック(ロウケツ染め)産業である。特にバティックは二○○九年にユネスコにより世界無形文化遺産に認定され、現在、インドネシア国内外で非常に注目されている。

 バティック産業が急成長をとげた二○世紀前半、それがどのように展開し、地域社会にどのような影響を与えたのかという問題を明らかにすることは、歴史研究としての意義だけではなく、インドネシア社会と文化への理解を深めるという意義もあると考えるが、これまで詳細な検討がなされていない。本報告ではバティック産業の中心地の一つであるスラカルタに焦点を当て、二○世紀前半のバティック産業の展開を概観する。

六、ベトナム後期黎朝の地方支配小考―一六○九年のゲアンでの角倉船難破事件を素材に

新潟大学 蓮田隆志

一七世紀初頭は、日本とベトナム(北部の鄭氏政権・中南部の広南阮氏の双方)との直接交流が、前近代でもっとも盛んな時代だったが、近年、この時代の日越関係史研究が再び盛んになりつつある。その中で、北中部に位置するゲアンは朱印船の渡航地として、また鄭氏政権の南方支配の要衝として重要な位置を占めてきた。しかしながら、政権がゲアン地方をどのように統治してきたのか、その実態については、いまだはっきりしたことが分かっていない。

ところで、一六○九年に、鄭氏政権支配下のゲアンで角倉氏の運営する朱印船が難破し、多数の死者を出す事件が発生した。ベトナム側は生き残った乗員を救助して、翌年帰国させたが、これによって比較的多数の関係資料が日本側に残された。事件自体は戦前からよく知られてきたものだが、本報告では、事件に関わるベトナム側の処理過程の復元を通じて、この時代のゲアン地方における支配の一端を窺い見たい。