2015年度 文化財学・民俗学部会発表要旨

一、上代日本と中国の古辞書に見える「庇」字について

広島大学 香村慶太

 庇の表記については、「庇」と「廂」の二通りが存在し、学術用語を見ても建築史学では「庇」字を、考古学や文学では「廂」字を用いる等、学会間で用字が統一されていない。奈良時代には正倉院文書に見られるように「庇」字が多く用いられ、平安時代に入ると両者の使用は拮抗するようになるが、「庇」と「廂」の建築語彙としての成り立ちや両者の異同についてこれまで明確にされているとは言い難い。

 本発表ではこのうち「庇」字をとりあげ、平安時代初期に成立した日本現存最古の辞書『新撰字鏡』の中で「接簷」「屋翼」「庇」「栄」「廕」の五漢語が「ヒサシ」と読まれていることを示した上で、これらの語が奈良時代初期成立の古辞書『弁色立成』から引かれたと考えられること、中国ではいずれの語も南北朝~隋唐期に建築語彙として用例が見られず、さらに時代の遡る漢代に成立した古辞書『爾雅』『釈名』および『礼記注』がその典拠と見られることを明らかにする。

二、菊花紋章の起源について

 広島大学 藤澤桜子

 天皇家の紋章として誰もが知る菊花紋章、いわゆる菊の御紋については、その知名度、そして何より文化史および政治史上の重要性が明白であるにもかかわらず、その起源・由来に関する議論は十分に尽くされて来なかった。

 もっとも、菊花を好んだ後鳥羽上皇による菊文の使用にちなむものであろうとの推測は古く江戸時代からなされており、大正時代に沼田頼輔の大著『日本紋章学』で改めて、後鳥羽の例が先例として引き継がれた結果と指摘されて以降、疑う者なき定説として広く知られている。

 しかし、承久の乱で失脚し、その後の天皇の選出においても後鳥羽色の排除が最重要とされたほどの人物である後鳥羽の個人的好みが、何故その後の天皇に受け継がれ、天皇家そのものの象徴となるに至ったのであろうか。通説では、この点に関する見解が一切示されていない。

 本発表は、研究史上初めてこの問題点を直視し、菊花紋章から鎌倉時代公家社会の様相を読み解くものである。

三、承久度鷹尾神社本殿の室内装束について

広島大学 山口佳巳

 鷹尾神社(福岡県柳川市)は、筑後国一宮高良大社の別宮である。建暦三年(一二一三)に社殿が焼失し、承久元年(一二一九)に遷宮が行われた。その承久度再建に際して提出された本殿の用材注文と遷宮時の指図が伝えられており、二〇一一年度大会において、それらを復元史料として三間社流造、段杮葺の本殿を復元した。遷宮時の指図を掲載した建保四年(一二一六)の「鷹尾社遷宮宝殿指図并用途直法等注文」には、本殿の室内装束についての記述が含まれており、本殿の建築のみならず、内部の装束も復元することが可能である。

 そこで本発表では、その注文を用いて承久度本殿の室内装束を復元的に考察する。特に神座が御帳台の形式をとることを指摘するとともに、その特色についても検証したい。鎌倉時代の本殿が室内装束も含めて復元できる例は珍しく、神社本殿の発展過程を考察する上で重要な位置を占めるものと言える。

四、カンカン堂国東塔について

中津市教育委員会 曽我俊裕・三谷紘平 豊後高田市教育委員会 大山琢央

 国東塔は大分県の国東半島一帯に分布する石塔の一種である。

二〇一五年四月から七月にかけて、豊後高田市小田原に所在するカンカン堂国東塔の調査を行った。塔身・蓮台・基礎の一部を欠く残闕であるが、高さ二メートルを越える大型の塔であり、格挟間や相輪の意匠は近隣に所在し、延慶三年(一三一〇)の銘を有する塔ノ御堂国東塔に類似するものの、わずかな意匠差からこれに先行する作例であると考えられた。

 カンカン堂国東塔が位置する小田原地区は一三~十四世紀にかけて大友氏の守護代であった小田原氏の本拠地であり、塔の造立にも小田原氏が関与したと考えられる。本塔を通じて国東塔の造立主体としての武士の存在について再考したい。

五、西明寺三重塔四天柱絵について

 広島大学 川俣愛

 西明寺は滋賀県犬神郡甲良町に位置する天台の古刹である。古くから一般に池寺という別称で親しまれ、金剛輪寺・百済寺とともに湖東三山の一つとして数えられている。その起源は承和元年(八三四)に三修上人によって開山されたと伝えられ、現在諸堂のうち本堂と三重塔が国宝に指定されている。

 塔は三間四方、檜皮葺であり、典型的な中世和様三重塔の姿をとっている。塔初層には四面に扉が設けられ、本尊の大日如来が安置された須弥壇を囲うように四天柱が配されている。この四天柱には金剛界曼荼羅成身会を構成する三七尊のうち、五仏を除いた三二諸菩薩が描かれている。諸尊については関口正之氏がその様式から制作年代がいくつかに分類できることを指摘しているが、その結論についてはまだまだ検討の余地がある。今回、同寺に伝わる絹本の両界曼荼羅も比較対象に加えて、新たにこの三二諸菩薩について様式面から制作年代や改変が行われた時代についての検討を行った。

六、「輝元公上洛日記」所載の略間取り図に関する考察

広島大学 中村泰朗

 「輝元公上洛日記」(山口県文書館蔵)とは、天正十六年(一五八八)に行われた毛利輝元による上洛の動向を記した日記である。輝元は上洛の間に多くの大名・公家邸を訪問しており、本日記にはその略間取り図が都合十五枚掲載されている。

 これらには上段の有無や座敷飾り他に列席者の並びが書き込まれており、日記本文を合わせて検討すると各殿舎の使用法を考察することができる。天正期にまで遡る御殿の例は、記録より分かるものを含めても数が限られているため、本日記所載図の検討は近世初頭の住宅史を明らかにする上で重要な課題の一つと言えるだろう。

 しかし本日記に対する建築史学的観点からの先行研究はなく、わずかに聚楽第大広間の図が部分的に引用されているのみである。そこで本発表では、それぞれの略間取り図について書かれている内容を詳細に検証することを目的とする。そして天正期における御殿の使用法の一部を明らかにしたい。

七、『片桐貞昌大工方之書』の復元による考察

 広島大学 大下きよみ

 『片桐貞昌大工方之書』は「昔之六畳敷」から始まって多くの茶室の略間取り図とその寸法が記述された冊子本である。題箋にある片桐貞昌(一六〇五~七三)は大和国小泉の藩主であり、茶の湯にも造詣が深く石州流の基となった。本書は貞昌が深く関与していると考えられているものであり、写本の時期の異なる『大工之書』とする異本が他に二冊ある。本発表では『片桐貞昌大工方之書』(国立国会図書館蔵)を底本として、翻刻をして寸法の記載されている茶室の復元を試みた。

 本書に図示されている茶室の考察を通してその変遷をたどり、貞昌に与えた影響を考えながら、最後に建てた慈光院の茶室について検討していきたい。

八、高野神社本殿について

広島大学 平幸子

 高野神社は安閑天皇二年(五三五)の創祀と伝えられる美作地方きっての古社であり、美作国の一宮である中山神社に次いで二宮と称された。現本殿は、寛文三年(一六六三)に再建されたものである。正面三間、側面四間の入母屋造、妻入りの主屋の正面に唐破風造の向拝を付けた中山造の形式である。中山造としては現存する中山神社、総社本殿に次いで三番目に古い。主屋の組物は出組を用い、年代の古い中山神社や総社の本殿が出三斗となるのに比べて装飾性を増し、さらに徳守神社が二手先、鶴山八幡宮が三手先と次第に装飾性が増大していく中山造本殿の過渡期的な例と言えるだろう。今回は現本殿の特質、梁間を四間とした平面形態について、中山造として古い遺構である中山神社、総社本殿と比較考察するともに、備中吉備津神社本殿の平面形態との関連性についても考えることとする。