2015年度 日本史部会発表要旨 |
一、「駅家雑事」について
広島大学 西別府元日
中央集権国家としての律令国家による列島統治を実態化させたのは、都城から放射状にのびる官道と、その経路上に三〇里(約一六㎞)ごとに設置された七〇〇をこえる駅家であった。しかし、その駅家群の名称を現代に伝える『延喜式』が編纂・施行された一〇世紀後半からほどなく、官道・駅家の体系はその歴史的使命を終えて、中世的交通体系への転換が始まるとされる。こうした転換について、古代交通史研究のパイオニアである坂本太郎は、官営の駅家から、官営でない荘園の資力によるもの、あるいは「駅長」(宿の長者)個人の経営にかかるものへの転換として表現した。
この表現は、古代から中世への交通体系の転換について、一面では正鵠をえたものであったが、一〇~一二世紀の国家体制にひとつの時代性を認める立場からすれば、あまりにも単純化されたものといわざるをえない。律令国家体制は解体しても、あらたに確立した支配システムのもと、その実態化を反映したヒト・モノの移動は実現されていたのであり、その基盤としての国家的交通は意識されていたのではないかと考えられる。本報告では、このような問題意識のもと、平安中後期に散見される「駅家雑事」の語句に着目して、当該期の交通システムについて検討したい。
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二、国人領主毛利氏の家中支配について ―毛利元就による井上元兼誅伐をめぐって―
毛利博物館 柴原直樹
天文十九年(一五五〇)の井上元兼誅伐事件は、直後に毛利氏に対して提出された家臣二百余名の連署起請文とあわせて注目され、毛利元就による家中統制など、戦国大名「家中」の実態を解明する素材として、これまで多くの研究者によって論じられている。
この誅伐事件については、毛利元就が大内氏に提出した「罪状書」などから主に解明が進められてきた。それらによれば、元就は、元兼一族の横暴を三十年にわたって堪忍してきたこと、大内氏からの許可を得てからもなお、近隣の戦争などにより約十年、決行を先延ばしにしていたことが知られ、毛利氏家中内部において、元兼一族が大きな力を有していた点が指摘されている。しかし、井上氏の「力」が、具体的にはどのようなものであったか、そしてそれが、当時の毛利氏家中においてどのような意義を有していたのか、必ずしも明らかにされているわけではない。
本報告においては、毛利氏家中において井上一族が果たしていた機能を、実態に即して明らかにすることに努め、この時期における国人領主毛利氏家中の特質、および毛利氏による家中支配の歴史的な段階を解明したいと考えている。
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三、一六世紀の銀流通と社会浸透
広島大学 本多博之
一六世紀前半の石見銀山の発見・開発により、生野銀山をはじめとする国内銀山の開発が進み、大量生産された銀はまず貿易通貨として国外に流出するが、一六世紀後半になると国内でも高額貨幣として通用し始め、一五八〇年代にはその量的拡大が見られるほか、九〇年代には社会浸透をうかがうことができる。
すでに報告者は、戦時下の大名毛利氏が最前線の味方武将に現物での兵粮補給のかわりに銀を送付した事例(兵粮銀)や、安芸厳島社の遷宮費用として石見銀山の産出銀を利用したことを契機に厳島およびその周辺で活発化した銀流通について紹介してきたが、ほかにも多様な銀関係の史料がある。銀の流れを具体的に逐うことや、定点観測することは容易でないが、関連史料を組み合わせて分析することにより、「点」ではなく「流れ」「深まり」として銀の動向を明らかにすることが可能である。
そこで本報告では、これまでとは違った角度から銀の流通を検討し、銀の社会浸透について述べてみたい。
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四、越荷方下関設置と八幡ばはん改方
―異国船対応史の視点から―
広島大学・新居浜工業高等専門学校 鴨頭俊宏
享保三年(一七一八)異国船打払い事件を契機に長州藩は、その支藩領赤間関(現下関市)から一里も離れていない伊崎いざき(同じ市域)を直轄地とし、この地に打払いの軍務を統轄する赤間関在番所を設置した。八幡改方は、そこに在勤し抜荷を取締りつつ、大坂と長崎を情報面で結びつけるいわば公的伝達ネットワークの一拠点も担当していたのである。
この伊崎に別途、倉庫貸銀業で藩益を上げるべく設置された出先機関が越荷方である。先行研究では、主に金融・流通の視点から、幕藩制市場への影響や藩政改革の成否が検討されてきた。しかし、最幕末期慶応年間の史料によれば、越荷方出向の藩士も八幡改方のごとく公的な伝達ネットワークに関与していたのである。この史実をどう捉えればよいか。
そこで本発表では、下関越荷方(機関)と八幡改方(役職)の関係史を整理してみる。この作業をとおし、江戸時代に異国船対応などで展開した公的伝達ネットワークの本質と下関の位置とについて、新たな展望を示したい。
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五、第二次長州出兵における長州藩とイギリスの関係
大島商船高等専門学校 田口由香
本報告は、慶応元年(一八六五)以降の第二次長州出兵における長州藩とイギリスの関係を検討するものである。長州藩が幕府に対する恭順から抗幕体制に転換するなか、イギリスとの直接的な関わりがみられるようになるため、双方の史料を分析することでその関係を解明する。これまでに、元治元年(一八六四)の下関戦争前後における長州藩の対外政策とイギリスの関係を検討し、自由貿易帝国主義をとるイギリスが、下関戦争を契機として幕府の貿易独占廃止や諸大名との貿易開始によって自由貿易を拡大しようとしたことを明らかにした。幕末期における国際関係において、諸外国が諸大名の貿易参加を実現させようとしたのか、諸大名がその実現に動いたのかを明らかにすることは、諸外国と幕府・諸大名との関係を解明する上で重要な課題と考える。よって、本報告では、第二次長州出兵段階を対象として、幕府との対立を深める長州藩と自由貿易を求めるイギリスの関係を検討したい。
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六、列国議会同盟日本議員団の欧州視察と議会政治への「まなざし」
九州大学 伊東かおり
列国議会同盟とは、主権国の国会議員間の相互理解を深め、政治・経済・軍事・民族などの国際的な課題の解決にあたることを目的に、一八八九年に創設された国際団体である。日本は一九〇八年に衆議院が加盟してより現在に至るまで、同盟と百年に及ぶ関係を継続している。毎年一回(現在は春秋二回)の総会に派遣される代表団は、同時に欧米各国を訪問し、政財界の要人との懇談や議会の傍聴、各地への視察等を行っていた。議員のなかには帰国後にこうした経験をまとめて出版したり、講演を行ったりする者もいた。
本報告では一九三〇年代に焦点をあて、この時期列国議会同盟総会でも幾度か議題に上った「議会政治の危機」の問題に対して、欧州の現状をまのあたりにした日本の議員団が、何を感じどう考えたかについて検討する。周知の通りイタリアではファシスト党のムッソリーニが、ドイツではナチス党のヒトラーが、それぞれ政権を盤石にし、自国の議会主義体制を著しく弱体化させた。イギリスでは世界恐慌に対応する形で、労働党党首マクドナルドが挙国一致内閣を組織した。日本では五・一五事件を受けて斎藤実内閣が誕生し、結果として政党政治は終焉した。だが、議会改革や選挙粛正を求める声が止んだわけではなかった。日本のこうした政治事情を背負い、欧州各地を視察した議員の目には何が映ったのか。特に非革新派議員のこうした「まなざし」を見ていくことで、欧米の議会政治事情を通して自らの議会政治の将来へのビジョンをいかに描いたのかについて報告したい。
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七、家永教科書裁判と支援運動
―運動の論理と学術研究の関係を中心に―
広島大学文書館 石田雅春
昭和四〇年、家永三郎氏は教科書検定制度が違憲であるとして国を相手取り訴訟(家永教科書裁判)を起こした。その後、第二次訴訟(昭和四二年)、第三次訴訟(平成元年)が提訴され、三二年間にわたり裁判が続けられた。
この家永教科書裁判については社会の高い関心を集め、関連する書籍が多数出版された。これらの書籍の大半は、裁判で争点とされた検定制度の問題点や歴史的事実の評価、あるいは家永氏個人の思想に焦点をあわせたものである。このため家永教科書裁判は、現在では歴史教科書(歴史教育)、あるいは歴史認識の問題として理解されている。
しかしながら実際の裁判の経過をみると、支援運動の活動が随所にみられる。そもそも個人の力に限界がある以上、大規模な裁判を長期間にわたって維持するためには、支援運動の存在が不可欠であると考えられる。そこで本報告では、これまであまり着目されてこなかった支援運動の実態を明らかにすることにより、家永教科書裁判の評価について再考する。
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