2015年度 東洋史部会発表要旨

一、五代後周朝再考

福岡大学 山根直生

 二一世紀に入ってからの宋代史研究の新動向に、中国大陸での唐宋変革説の受容と、唐五代ソグド研究の側からの北宋=「沙陀系王朝」との指摘、というものがある。前者については研究交流上での進展と評価できる反面、宋代以降の長期的歴史過程に基づく意義づけが優先されがちで、唐宋という同時代の流動的側面については看過される懸念がある。後者については、宋の趙氏や外戚の持つ沙陀系・ソグド系からの連続性については実証されたものの、漢人中心主義的・民族的とも評される宋一代の政治・文化的特性との関連は未だ問われていない。

 こうした問題に対し本発表では、五代後周朝(西暦九五〇~九五九年)の皇帝側近官に着目して考察する。外廷・外臣や彼らに関する官僚制度に重きを置いた従来の視座に対し、近年様々な時代史研究で、中国史上に遍在する側近官にあえて注目した再考が図られているからである。沙陀系王朝の一つでありながら契丹との対決を選択し、宋朝の漢人中心主義的特性を導くことになる後周朝の動向を追跡したい。

二、近代中国における紡織技術者養成について

                               島根大学 富澤芳亜

近年の中国紡織業研究の諸成果により、日本法人在華紡による中国法人紡の圧迫とされてきた両者の関係は、「対抗と協調」や雁行発展モデルとして見直された。すなわち一九二〇~三〇年代に中国紡は、在華紡など日本紡織業の技術や経営をキャッチアップできるまでになったのである。

 本報告では、こうした技術や経営の受け皿たる中国人技術者の養成について分析する。近代紡織工業では、各工程の責任者に高等教育機関卒の高級技術者を配置し、その下に属する各生産ラインに実業学校卒などの一般技術者を階層的に配置する。日本では、日露戦争後にこうした技術者の位階秩序が形成され、工業教育機関の側も階層的に編成されていた。一方、中国では、一九〇三年の「癸卯学制」により近代学制がようやく緒に就いたばかりだった。報告では日本や欧米各国への留学と、中国国内の高等教育と実業教育機関による紡織技術者養成を具体的に分析する。

三、戦後初期台湾の省籍問題──一九四五~四九年の大陸期刊・雑誌から見る

台湾・輔仁大学 許毓良

戦後初期の台湾は、大陸から来た人々にとって、全く馴染みのない興味深い島嶼であった。台湾の女性の美貌は彼らを魅惑し、「番人」の原始的な姿は彼らの興味を惹いた。しかし外省人が日本統治時代は「奴隷化の時代」であると表明すると、一連の対立が次々と表面化してきた。さらに外省人の官員が台湾の接収時に横領を行うや、「台湾人と外省人」は次第に対立の名詞となってきた。ここで特に注意すべきは、外省人の有識者が接収の当初、台湾人や台湾を非常に高く評価していたことである。彼らの台湾に対する第一印象は、法を遵守して秩序を守る社会であるということであった。内地の混乱を見慣れた外省人にとって、台湾人の素質の高さは容易に見て取れた。ところが、一九四七年の二二八事件は、台湾人と外省人とのあいだに深い亀裂を与え、その後、省籍問題が長期にわたって台湾に存在することになった。二一世紀の今日でさえ、選挙のたびに様々な政党や政治家が、二二八事件を持ち出して議論を繰り返している。かかる問題を検討しようとすれば、我々は一九四五年から四九年にかけての歴史から説き起こさねばならない。

四、一九一九年の東アジア国際環境とモンゴル―大モンゴル国運動と外蒙自治撤廃―

下関市立大学 橘 誠

 一九一九年。パリ講和会議が開催され、ヴェルサイユ条約が締結されたこの年は、東アジアでは朝鮮における三一運動、中国における五四運動の年として記憶されている。これらの運動は、ロシア革命の勃発や第一次世界大戦の終結という激しい国際環境の変動の中、ウィルソンが提起した「一四カ条の原則」に影響され、反植民地主義を唱えて起こった運動であったと説明される。同じ年、モンゴルではモンゴル族を統合した統一国家樹立を目指す大モンゴル国運動が起こる一方で、中国の宗主権下に享受していた外モンゴルの自治が撤廃されるという事件も発生していた。これら一九一九年の東アジアにおいて立て続けに発生した運動に共通する背景は、パリ講和会議への期待と失望であり、いずれにも日本が関与していたということである。本報告は、当時世界を席巻していたウィルソンの民族自決主義を手掛かりに、上述の諸運動がいかなる関係にあったのかを明らかにする試みである。

五、一九三〇年代末から五〇年代初頭におけるインドネシアの食糧流通政策―政府・銀行・精米業者の関係を中心に―

香川大学 泉川 普

 安定的な食料供給は、「国民経済」の形成・維持にとって必要不可欠である。現在、インドネシアでは、食糧調整庁(BULOG)が米をはじめとする食糧の輸入・買い上げ・販売を通じて、全国での需給関係の調整と価格の安定化に努めている。 

 このような食料流通への政府の関与はインドネシア近・現代史において、植民地期末期に始まり日本占領期そしてオランダの再占領、さらに独立後にも一貫して見られた。その際、重要な役割を果たしたのが精米業者であり、同時に彼らに対して融資を行う金融機関であった。

 本報告では、政府(植民地政庁および共和国政府)が食糧供給政策を実施する上で金融機関および流通業者でもあった精米業者の役割に焦点をあて、一九三〇年代末から五〇年代初頭までのインドネシアの食糧流通政策の実態を明らかにする。

六、ベトナム阮(グエン)朝時代における歴史人物の再評価をめぐって―潘清簡(ファン・タイン・ザンPhan Thanh Gian)を例として―

ベトナム国家大学ホーチミン市校付属人文社会科学大学 
グエン・ティエン・ルック(Nguyen Tien Luc)

 ベトナムではドイモイ政策の進展とともに、歴史人物への再評価の動きが見られる。阮朝重臣の潘清簡もその一例である。潘清簡(一七九六~一八六七年)は、嗣徳帝期の文人政治家(協辦大学士兼兵部尚書、礼部尚書、枢密大臣)である。彼はフランスのベトナム侵略拡大を防ぐため、サイゴン条約を締結し、やむなくコーチシナ東部三省を割譲した。その後、彼は同地返還交渉のため訪仏し、仏帝と直接交渉を行った。しかし交渉は不調に終わり、フランスがコーチシナ西部三省を占領した際、彼は服毒自殺した。

 ベトナム民主共和国成立以降、史学界は「民族解放史観」の立場から彼を「祖国の権利に背いた者」と批判してきた。しかし近年ではその評価は変化しつつある。例えば、二〇〇三年のベトナム歴史学協会シンポジウム「二一世紀から見た歴史人物 潘清簡」での報告では、「民族の歴史に多面的に貢献した者」などと高く評価するものもある。

 本発表では、潘清簡に対する代表的な論者の評価を整理し、その評価の基準における問題点を検討したい。