2016年度 考古部会発表要旨

一、才免遺跡の発掘調査について

東広島市出土文化財管理センター 日浦 裕子

才免遺跡は、東広島市西条町寺家地区の北側、標高約五七五mの龍王山から南に向かって派生した低丘陵上に広がる弥生時代から中近世の遺跡で、標高は二三六~二四一mである。東側に広がる谷部では、弥生時代から古代(奈良・平安時代)を中心とした遺物包含層を確認した。

調査範囲の八区(低丘陵の南側)では、土坑六基、溝条遺構二条、柱穴などとともに積石塚を検出し、須恵器、土師質土器、石製品(砥石)、鉄製品(刀子・鉄釘)、古銭などが出土した。その中でも積石塚では、祭祀を執り行った際に供献したものと考えられる土師質土器(小皿)や刀子・古銭などを多数検出した。

積石塚は、現市道(旧街道)沿いに面しており、現在も地域住民によって祀られている「塞の神」の祠のほぼ直下で確認した。ここでは、この積石塚から出土した遺物を中心に、信仰や祭祀のあり方について報告する。

二、陣が平西2号遺跡の発掘調査について

広島文化財センター 濵岡 大輔

東広島市西条下見五丁目に所在する陣が平西2号遺跡は、陣が平山から派生した標高二四○m前後の低丘陵上に位置する遺跡である。隣接地は平成二六(二○一四)年に東広島市教育委員会によって調査が実施され、弥生時代中期末葉の木棺墓や弥生時代後期後半から古墳時代初頭頃の方形の貼石墳丘墓、石蓋土坑墓が確認されている。

平成二八(二○一六)年の調査では、主な遺構として木棺墓二基、石蓋土坑墓一基、箱式石棺墓三基(内一基は床面に板石敷き)、土器棺墓一基を検出し、古墳時代前期を中心とした様々な形態の墓を確認することができた。墓から出土した遺物は、土器棺に転用された直口壺のみであった。隣接地の調査成果と併せて墓域全体を検討し、報告を行う。

三、讃岐国分寺・国分尼寺創建時期の再検討

東広島市出土文化財管理センター 妹尾 周三

国分寺は、聖武天皇の詔によって各国に建立された国分僧寺と国分尼寺からなる官寺で、南海道の讃岐国では、現在の香川県高松市国分寺町に置かれていた。この讃岐国分寺の創建については、これまで天平九年(七三七)の造仏詔を受けて開始されたという見解と、小規模な前身寺院(仏教施設)が存在し、それを神護景雲年間以降(七七〇年代)に大規模な伽藍に再整備したという見解が示されている。しかし、こうした年代観は周辺諸国の国分寺のそれとは大きく乖離しており、古代において上国と位置づけられていた讃岐国の政治・経済、そして社会状況や地理的環境などからしても理解しがたいものである。また古くから前身寺院の典型例とされてきた美濃国分寺(岐阜県大垣市)の轍を踏むことはできない。

 そこで、この発表では、讃岐国分寺から出土した軒瓦を瓦当文様と製作技法の両面から再検討し、造営過程を明らかにするとともに、併せて讃岐国分尼寺の創建についても考えてみたい。

四、四拾貫小原弥生墳墓の再評価と課題

江津市教育委員会 今福 拓哉

四拾貫小原弥生墳墓は広島県三次市に所在する。三次盆地東部、馬洗川北岸の河岸段丘に位置する。一九六九年に潮見浩氏をはじめとする四拾貫小原発掘調査団によって発掘調査がなされており、塩町式土器が出土したことから弥生時代中期後葉を前後する時期に属することが明らかとなった。その出土遺物および実測図は広島大学考古学研究室で保管されており、実測図等の再確認を実施した結果、墳丘周辺の外表施設と考えられる石列の下部に墓壙が掘り込まれていた状況が想定できることから、複数基の墓壙を掘削した後に墳丘を構築し、貼石、周溝を施した墳丘墓であったと推測できる。

本発表では、四拾貫小原弥生墳墓を「墳丘墓」として再評価し、基本的構造について整理するとともに、江の川流域など周辺類似資料を踏まえた検討を行いたい。

五、佐田谷・佐田峠墳墓群の意義について ―周辺墳墓出土土器の様相から―

総社市教育委員会 村田 晋

庄原市佐田谷・佐田峠墳墓群では、これまでに弥生時代中期後葉から後期前葉にかけての墳墓計八基が調査され、四隅突出墓、方形台状墓、方形周溝墓、無墳丘墓といった多様な墓が築かれた。墳墓群の出土遺物を見渡すと、土器が主体になっていることがわかる。弥生時代中期後葉から後期初頭にかけて、この土器の出土位置が周溝内から墳頂部へと変化することが指摘されているが、墳墓群の土器相は、それ以外の面でも明瞭な変化をみせている。

こうした多様な墳墓の築造状況や土器相の変化について、備後北部周辺地域における墳墓遺跡の様相、特に出土土器の在り方に触れながら整理する。そして、単なる地域間の影響関係の中で理解できる部分、できない部分の把握を通して、佐田谷・佐田峠墳墓群の特質について考察を試みる。

六、村上海賊の城跡の現状について

尾道市企画財務部文化振興課 西井 亨

平成二八年四月、尾道市は今治市とともに「日本最大の海賊の本拠地・芸予諸島―よみがえる村上海賊の記憶」が日本遺産に認定された。芸予諸島を中心に活動し、日本の歴史にも深く関わった村上海賊に関連する遺跡は、尾道市内に数多く所在する。村上海賊は、時代によって警固衆、水先案内人、水軍等様々な役割を果たしており、その活動形態が城跡の機能にも関係しているのではないかと考えている。

島嶼部の城跡を概観すると、本拠地とされる青木・青陰・長崎・余崎城跡や航路に面した美可崎城跡、馬神城跡など、様々なタイプの城跡が確認できる。日本遺産の構成文化財でもある村上海賊の城跡の現状と今後の課題について報告する。

七、猪ノ子第1号古墳(県史跡猪ノ子古墳)の発掘調査等について

 福山市教育委員会 文化財課 山岡 渉

猪子第一号古墳(県史跡猪ノ子古墳)は福山市加茂町下加茂に所在する猪ノ子古墳群(五基)の一基であるとともに、備後南部地域に所在する横口式石槨四基の一つである。

福山市教育委員会では各種開発事業に伴い隣接する猪の子遺跡(弥生時代:包含地)と併せて、二〇一四年度に計三度の確認調査を実施するとともに、当古墳周辺の分布調査及び劣化・毀損した内部主体部・墳丘の保存整備事業及び状況調査を二度実施したのでその概要を報告する。なお、二〇一五年度からは継続的に劣化・毀損の進行状況調査を実施している。当古墳は周辺地形等から直径一四m、高さ三m程度の円墳とされてきたが、発掘調査の結果、幅約四.八m・深さ一mの周溝が羨道・石槨の接合部から約九mの地点を馬蹄形にめぐっていること(直径約一八m)、丘陵南側を大きく削平・造成した平坦面に、築造されていることが確認された。

八、亀居城跡の発掘調査

              広島県教育事業団埋蔵文化財調査室 恵谷 泰典

亀居城は、周防と安芸の国境付近にあり、福島正則によって慶長八年(一六〇三)築城が始まり、同一三年(一六〇八)完成したが、同一六年(一六一一)廃城となった。

亀居城関連遺跡(大竹市小方)は亀居城の麓に所在する遺跡で、平成二六年度の発掘調査では幕末を中心とした時期の町屋跡などを確認した。平成二七年度の発掘調査では、亀居城の郭(妙現丸)東側の斜面下で長さ一四mの石列を確認し、石列の南側では長さ一二m、高さ三mの石垣を確認した。石列は櫓台の基礎の部分と考えられ、石垣と直交するように連結すると推定できることから、共に城郭として機能していた可能性が高い。使用されている石材は、矢穴や刻印が認められるものが多い。確認した石垣などは近世末に描かれた亀居城の絵図にも記載があり、石材の大きさや材質、矢穴、刻印が亀居城のものと共通していることから、これらの遺構は亀居城の一部であると考えられる。

 

九、歴史的文化的景観・考古学的景観・埋葬地的景観-西都原古墳群と考古学的世界遺産-

広島大学 シュタインハウス ウェルナー

宮崎県西都原古墳群は、ほぼ完全に保護されている古墳群である。何世紀にもわたって、特にこの一○○年間はその状況があまり変わっていない。そのため、この古墳群は長い間、地域住民の中で地域の重要な歴史的文化的景観の一部として認識されてきた。古墳時代の精神的景観の痕跡さえある程度認識できる。近代的な開発に飲み込まれなかったこの歴史的な場所の雰囲気にはだれもが巻き込まれる。神話によっても守られた強い記憶の要素が含まれているため、「葬儀的景観」として分類できる。日本における世界遺産候補とされる沖ノ島や百舌鳥・古市古墳群と比較すると、考古学的な意義、維持状況、周辺遺産との関連や景観について様々な違いが明らかになる。

西都原古墳群とその関連遺産は周辺を含めて歴史的文化景観として保存されてきたわけだが、この発想を南九州において見つかる他の考古学遺跡、特に埋葬的景観(Burialscape)に広げて考究することが課題となる。

 

一〇、四川省・重慶市における陶俑の編年について―後漢代を中心として―

徳島大学 脇山 佳奈

四川省・重慶市は、後漢代においてそれぞれ蜀郡・巴郡という地域であり、これらの地域では他地域と異なる独自の陶俑の製作が行われた。これまでの編年は一九八七年に王有鵬によって第一期~第三期まで設定され、時代を経るにつれて俑の大型化や複雑化がみられることが指摘されている。それ以降、開発に伴う発掘調査の増加によって資料数が増加し、特に一九八五年以降は三峡ダムの建設に伴う発掘調査によって、重慶市の資料が急増した。二○一一年には重慶市涪陵区唐家坡、石院子後漢墓M1において「熹平元年造」の紀年銘をもつ陶俑が初めて出土した。

今回、紀年銘をもつ陶俑や塼墓の資料を基準として陶俑の編年を試みた。陶俑の大きさや女性用の髪型などを検討した結果、王氏の検討よりも早い段階に陶俑は大型化・複雑化することを確認することができた。

一一、三次市長宇根一〇号墳の測量調査成果報告 

広島大学 近藤直毅・佐々木尚也・永野智朗・名村威彦・真木大空

広島大学考古学研究室では、平成二八(二○一六)年三月、三次市三良坂町灰塚において長宇根一○号墳の測量調査を行った。近年、考古学研究室では三次市を中心とした古墳時代の帆立貝形前方後円墳の測量を継続している。測量調査の結果、墳丘はかなりの改変を受けてはいたものの、墳丘を復元した場合、帆立貝形古墳となり、墳丘全長一九.五m、円丘部一六.三m、墳丘高四.○m、方丘部全長三.二m、幅八.四mほどと推定することができた。

 また、攪乱部分から六世紀後葉前後に属する須恵器(蓋坏・高坏・提瓶・𤭯・甕)を表面採集することができた。表採した須恵器細片からは当時上下川流域や庄原市近辺に分布する須恵器床が用いられた古墳の可能性も指摘でき、六世紀に存続する帆立貝形古墳の実態の一端を明らかにすることができたと考える。