2016年度 日本史部会発表要旨

一、承和十一年卜筮を信ずべき朝議の検討

広島大学  弘胤 佑

 承和十一(八四四)年の「卜筮を信ずべき朝議」とは、承和七・九年に淳和・嵯峨両上皇が出した儒教的徳治主義の方針に基づく「卜筮を信ずべからず」との遺詔を反故にして、藤原良房主導のもとに「卜筮を信ずべし」との政府方針を示した朝議である。

 この朝議に関して、山下克明氏は災害・怪異(物怪)を卜筮によって「神霊の祟り」と観ることに公式決定し、祭祀・敬神で災異=祟りを解消することによって為政者の政治責任を回避する理論としたと評価している。また、松本卓哉氏を含めて先行研究では八世紀から九世紀にかけて災害の原因を儒教的災異思想から神霊の祟りに求めるようになったと理解している。

しかし、「朝議」以降も、災害の種類や規模によって卜筮重視の程度に強弱があることや依然として儒教的災異思想を前面に掲げた対策がとられていることに留意すれば、先行研究の「災異思想=徳政から神霊祟=敬神へ」という理解をそのまま受け入れるわけにはいかず、再検討する必要がある。

 そこで本報告では承和十一年「卜筮を信ずべき朝議」について、①朝議の内容を厳密に解釈してこの朝議の意図を明確にするとともに、②多種多様な災害・災異の事例にどの程度「神霊の祟り観」が当てはまるか、③承和年間の政治動向の中で政治責任を回避する理論を構築する必要性はあるか、という問題を立てて「朝議」と災害・災異の事例との関係を考察し、律令国家の災害観を再検討したい。

二、十五世紀の朝鮮通交者と交易品

広島大学  小松 篤史

太祖元(明徳三・一三九二)年に朝鮮王朝が成立して以降、日本からは大小さまざまな通交者が朝鮮と通交し、交易を行っていた。それらの通交関係は中宗五(永正七・一五一〇)年の三浦の乱の発生により一度終息を迎えることとなる。近年の研究では、朝鮮通交者それぞれがどのようにして通交権を獲得していったのか、その通交形態について明らかにされつつある。

 一方で、朝鮮通交における交易品については、今まであまり着目されてこなかった。しかしながら、交易品を分析することは、日朝関係の実態を経済的・政治的側面から描き出すうえで重要である。

 そこで本報告では、朝鮮通交における交易品に着目することで、朝鮮通交の実態について明らかにしたい。

三、中世石見国周布氏の権力構造とその性格

島根県古代文化センター  目次 謙一

 中世石見国那賀郡の国人領主周布氏は、鎌倉期に益田氏から分出して以降、慶長五年(一六〇〇)毛利氏の防長両国移封にともない石見国から退去するまで、一貫して石見国内の有力領主として存在した。応永三三年(一四二六)の漂着民の送還を契機に朝鮮国と通交したことで知られ、対外交渉史の分野でははやくから注目されてきた。また、近代以降に分散してしまった家伝文書を追跡し、その一部である新出周布家文書を紹介・検討した成果も着実に挙げられている。一方で、領主権力周布氏自体に注目した研究はこれまでにさほど多くないといえ、なお検討の余地を残していると思われる。

 本報告では、周布氏権力の基本的構成要素である所領と一族・被官の状況を再確認しつつ、中世石見国をめぐる地域経済構造にも目を配りながら、周布氏の歴史的性格の一端を明らかにしたい。

四、十六世紀における西国大名と足利将軍

広島大学  篠田 諒平

 応仁・文明の乱と明応の政変を経て、足利将軍の諸大名に対する影響力は低下したが、十六世紀に入ってもなお、各地の大名は西国を中心に将軍との関係を保っており、その代表的な事例が大名の要請による守護職補任・叙位任官や、将軍の大名間紛争の調停といえる。こうした両者の関係については、ここ十数年で研究が盛んとなり、足利義晴期をはじめとして、その関係は明らかにされつつある。しかし、ある一時期の事例を検討することが多いこともあって、大名と将軍の関係が戦国末期にかけてどのように変化していくのかが不明確であるなど、課題も残されている。

そこで本報告では、西国の有力大名の一つである豊後大友氏と足利将軍の関係について、足利義晴~義昭期における大友義鑑・義鎮父子の動向を中心に取り上げ、両者の儀礼的交流や、大友氏の領国拡大とそれに伴う大名間紛争における両者の関わりについて検討し、両者の関係が義晴期から義昭期にかけてどのように変化していくか明らかにしたい。

五、明石市立文化博物館所蔵播磨国絵図は正保国絵図か

明石市立文化博物館  加納 亜由子

 明石市立文化博物館では、「播磨国絵図」という縦一九四.〇mm×横二〇四.〇mmの絵図を所蔵している。この度、当館企画展「明石藩の世界Ⅳ―藩領の村々と大庄屋」のために当絵図を調査したところ、正保元年(一六四四)に江戸幕府の命で作成された正保国絵図の写しである可能性が高いことが分かった。

 正保国絵図の正本(江戸幕府が収納したもの)は現存しておらず、写しが国内各地に伝来しているという状況である。播磨国は、内閣文庫・京都府立総合資料館・ライデン大学などに写しが伝来しているが、それぞれ法量や描写の詳しさに違いがみられる。

 ところで、当絵図については、平成二七年六月二〇日(土)~七月二六日(日)開催「企画展 新収蔵品展」で、「江戸時代中頃」のものとして紹介した経緯がある。そこで、本報告では、当館蔵「播磨国絵図」の特徴を検討し、本絵図が正保国絵図の写し(未完成版)であることを明らかにする。

六、昌平坂学問所と藩儒の関係―広島藩儒頼春水昌平坂講義の事例より―

九州大学  伊藤 大輔

 寛政二年(一七九〇)の昌平黌での異学の禁など、寛政期は近世教学体制の一大転機にあたる時期であり、様々な視点より論じられてきた。そのなかで、当該期の幕府と藩の教学レベルにおける関係を明らかにすることは、寛政期以降の教学体制の意義を考える上で極めて重要な問題であると考えられる。

 以上の問題関心から、幕府の教学機関である昌平坂学問所と各藩に仕える藩儒との関係を考察していきたい。特に今回は広島藩儒頼春水の事例を主に検討していく。彼は寛政十一年(一七九九)に薩摩藩儒赤崎海門と共に、昌平坂学問所で講義を行うことを命じられているが、その背景には昌平坂学問所儒官である古賀精里、尾藤二洲の存在があった。本報告ではこの背景に注目しつつ、昌平坂と藩儒、双方の視点より一連の実態を復元することを目的とする。また、寛政期に藩儒が幕府教学機関で講義を行ったという事実の持つ意味についても考察を行っていきたい。

七、幕長戦争における長州藩とイギリスの関係

大島商船高等専門学校  田口 由香

 本報告は、慶応二年(一八六六)の幕長戦争における長州藩とイギリスの関係を検討するものである。本研究において、元治元年(一八六四)の下関戦争段階では、自由貿易帝国主義をとるイギリスが下関戦争を契機として幕府の貿易独占廃止や諸大名との貿易開始によって自由貿易を拡大しようとしたこと、慶応元年の第二次長州出兵段階では、イギリス駐日公使パークスが「貿易利益の障害」になる内乱を回避するため幕府と長州藩に和解を勧告したこと、自由貿易を拡大するために条約勅許の獲得を必要としたことを明らかにした。結果的に幕長戦争が開戦したことで、イギリスは対立する長州藩と幕府に対してどのような立場をとるのか、自由貿易帝国主義をとるイギリスの対日政策を解明するうえで、その関係性の推移を明らかにすることは重要な課題と考える。よって、本報告では、幕長戦争段階を対象として、イギリスと長州藩・幕府の関係を双方の史料から検討したい。

八、旧制浪速高等学校奉安庫に関する考察

大阪大学  菅 真城

 奉安殿・奉安庫に関する研究は、その中に保管されていた御真影・教育勅語の研究に比して著しく遅れている。奉安殿・奉安庫に関する制度史的研究は、御真影「奉護」をテーマとする小野雅章の研究(『御真影と学校 「奉護」の変容』東京大学出版会、二〇一四年)があるが、いまだ個別事例を積み上げるべき研究段階にある。本発表では、旧制浪速高等学校(以下、「浪高」)の奉安庫について考察する。

 浪高は、一九二六(大正十五)年に設置された大阪府立の七年生高等学校である。戦後教育改革により、一九四九(昭和二十四)年に大阪大学に併合され、一九五〇年に閉校となった。

 この浪高奉安庫が、二〇一〇(平成二十二)年九月、大阪大学イ号館(現大阪大学会館)の改修工事中に「発見」された。壁の中に塗り込められていたのである。全国的に見ても、他に類例をみない処置である。本発表では、このように特異な経緯を有する浪高奉安庫について、設置主体である大阪府の公文書を紹介しつつ、考察を加える。

九、復員・引揚援護における旧軍人の役割について

広島大学  神田 悠平

 終戦後の旧軍人に関する研究は、再軍備に伴う内外からの働きかけを主として、職業支援、戦没者の慰霊といった視点からも研究が行われて来ている。

 終戦後の海外からの復員と、旧軍人とその家族への補償は、重大な社会問題の一つであった。この問題への対応に主要な役割を果たしたのは、陸海軍省の後継組織である第一・第二復員省、復員庁であり、その後これを吸収・改編した引揚援護庁(局)である。これら官庁の実務は陸海軍から移籍してきた元士官を中心として行われ、その後の抑留者引揚や慰霊に関しては、旧軍人との関係を維持していた。

 本報告では、引揚援護庁の業務と、旧軍人との関わりについて、厚生省引揚援護局の内部史料と、引揚援護局次官を務めた美山要蔵(元陸軍大佐)関係史料を中心に据えて、戦後日本における旧軍人の動向と彼らの意図について考えてみたい。