2016年度 東洋史部会発表要旨

一、領事裁判権との関係から見る中華民国期国籍問題

京都大学 郭 まいか

 中国の開港とともに設立された上海租界には、中国政府と条約関係にある外国の領事館が林立し、各国人が集まった。この上海租界において人口の大半を占める中国人は、外国人と契約関係を結び、広く商業に従事していたが、このことは同時に国籍を跨ぐ紛争をも増加させた。これに関して、各条約国には領事裁判権が認められるので、当該国家に所属する国民を保護する義務、ならびにその裁判権を領事館が負うことになる。しかし、こと上海租界のように法体系が複雑に入り混じる場では、国籍を異にする当事者が引き起こした紛争がどの国の裁判所に帰結するかという点が往々にして問題となった。租界にある混合裁判所、会審公廨(Mixed Court)とは、被告が中国人となる全ての案件を審理する機関である。しかし、一九二〇年代頃、外国籍を得ることで会審公廨の追究を逃れる中国人が多発した。この問題につき、上海を中心に検討を加えるのが当報告の目的である。

二、清末新政初期の政治制度改革構想

埼玉大学 宮古 文尋

 中国の近代的政治制度改革は、「戊戌政変により変法が挫折した後、立憲君主制を目指した清末新政を経て、辛亥革命を経験し、共和制国家である中華民国建国に至る」、という経過を辿ったと理解されている。国内外の代表的な清末新政研究における、政治制度改革に関する論考は、予備立憲の構想段階以降を検討対象として設定している。清末新政における政治制度改革は、一九〇五年以降始まったと解釈されていると言えるだろう。

 これ以前の時期、つまり、清末新政の開始段階における政治制度改革構想については、充分な検討が行われていないのではないだろうか。本報告では、立憲改革が検討され始める以前の政治制度改革構想はどのようなものであったか、そして、その構想は立憲君主制への移行が本格的に検討され始めて以降の構想と、方向性を異にするものであったのか、或いは同様のものであったのか検討したい。

三、歴史史料としての宋代題跋―『朱文公文集』巻八四「跋山谷草書千文」を素材として

広島修道大学 津坂 貢政

 ここのところ、報告者は宋代士大夫の文集中に多く採録されている題跋の歴史史料としての利用の可能性について検討している。書籍や書画・詩文を鑑賞した際の記録である題跋は、文房趣味が盛行した宋代以降にさかんに書かれるようになるが、その歴史史料としての活用は今日にいたるまで限定的な範囲にとどまっている。

 こうした現況を鑑みて本報告では、『朱文公文集』巻八四「跋山谷草書千文」を一例として取りあげ分析を試みる。南宋の朱熹が北宋の黄庭堅の作品に書きつけたこの題跋には、本来であればその書字に関わる評価が書かれるべきであるが、その内容はそうしたものとは趣を異にする。朱熹はここで、北宋紹聖年間の新法党による旧法党への糾弾、とりわけ旧法側の黄庭堅がその追及にいかに対応していたかを記す。

 本報告では、この題跋の構成と視点を仔細に考察することで、宋代士大夫をめぐる政治史・思想史の史料としての題跋の有用性の実例を示したい。

四、宋代士大夫家族の階層移動―蘇州范氏の計量分析―

高知大学 遠藤 隆俊

 本発表は、義荘で有名な蘇州の范氏を題材に、宋代における官僚、士大夫の階層移動と家族、宗族の関係を計量的に分析しようと試みるものである。近年の研究によれば、宋以後の宗族は科挙官僚輩出の基体とみなされ、士大夫の社会的流動性すなわち階層移動を回避する装置として宗族が設けられたと考えられている。確かに、宗族には理念的にそのような機能や役割がないわけではないが、現実問題として宗族の結合を強化した一族が科挙官僚を次々と輩出した事例はほとんどない。そこで本発表では、宋代士大夫の階層移動はどの程度の速度で起きたのか、あるいは起きなかったのか。その中で宗族はどのような役割を果たしたのかを、范氏の族譜や墓誌銘、伝記史料を用いて具体的に考察する。その際、宗族という枠組みだけでなく、房や家庭、家族の視点を導入することにより、宋以後の士大夫社会における家庭、家族、宗族の役割を体系的、かつ総合的に考える契機としたい。

五、金国における正旦・聖節の儀礼

岡山大学 古松 崇志

 一二世紀前半、女真族のうち立てた金国が、強力な騎馬軍事力を背景にマンチュリアより勃興して勢力を拡大した。金国は、契丹と北宋のあいだの澶淵の盟以来の平和共存関係を崩壊させたのちに、両王朝を相継いで滅ぼすとともに、高麗・西夏・南宋といった周辺国をあいついで服属させ、一三世紀の初めまで、以前からの多国体制を継続させつつユーラシア東方に覇を唱えることになった。本報告では、金国皇帝が毎年正月の正旦と聖節に百官と外国使節を集めておこなう朝賀・上寿儀礼および外国使節との対面儀礼をとりあげ、使者の参加する儀礼に現れる王朝間関係を検討して、当時のユーラシア東方における金国の覇権を儀礼の側面より明らかにすることを目指す。同時に、史料が僅少なために依然として不明な点の多い金国の王権の特質を考究する手がかりとしたい。

六、植民地期西ジャワの経済発展をめぐって

  広島大学 植村 泰夫

 インドネシア植民地経済史研究の中では、従来、一九三〇年代になると蘭領東インド経済の地域バランスが変化し、経済の中心がそれまでの中・東ジャワから西ジャワに移動したとされてきた。この議論には、現在のジャボデタベック(ジャカルタ大都市圏)の圧倒的な経済発展の基礎が、この時期に形成され始めたという含意があるように思われる。ただ、従来の議論では、そもそも西ジャワとはどこのことであり、その経済発展とは何であるのか、その背景にはどのような事情があったのかということについては、必ずしも十分には論じられていない。そこで本報告では、対象時期を植民地期に絞って、この経済発展の中味を、その地域性、発展の要因などの面から考えてみたい。