2017年度 文化財学・民俗学部会発表要旨

一、岩峰上の国東塔について

中津市教育委員会 曽 我 俊 裕

大分県の国東半島を中心とする地域に分布する石塔・国東塔の中には、大岩や急峻な峰上などの場所に意図的に造立されているものがある。

先行研究では経塚の立地と類似することや、『法華経』見宝塔品を典拠とする宝塔湧出場面の具現化といった指摘がなされていたが、近年、大徳寺本「五百羅漢図」に類する図像が存在することが発表された。

今回はこうした岩峰上に立地する国東塔と、立地が類似する日本や韓国の石塔を紹介しながら、その思想的背景として霊鷲山やそれに仮託された霊山の信仰が存在することおよび、それらの情報が中国や朝鮮半島から説話や絵画の形で伝来した可能性について考察したい。

二、平唐門の構造形式の変遷について

広島大学 山 口 佳 巳

 平唐門は、平入の単層門の妻面を唐破風造としたものであり、鎌倉時代後期の建築と推定される北室院表門を最古として、その現存遺構は少なくない。また、鎌倉時代以降の絵巻物にも散見される。しかし、平唐門について先学による体系的な論考はない。

 鎌倉時代後期から室町時代における平唐門は、いずれも本柱に女梁・男梁を落とし込み、本柱どうしは冠木で固め、本柱上部に板蟇股を置き棟木を受ける古代以来の棟門と同じ構造形式を採り、唐破風造の屋根を載せる。室町時代までは画一的な構造形式としていたが、桃山時代以降、急激に多様化する。本発表では、現存遺構を検証することにより、平唐門の構造形式の年代的変化、発展について考察する。特に、平唐門に特有の輪垂木と軒廻りの納まりに注目し、詳細に分析するとともに、その変化が構造形式を多様化させる一因となった可能性を指摘したい。

三、本蓮寺の番神堂について

広島大学 平  幸 子

三棟の鎮守社(番神堂)がある本蓮寺は、岡山県瀬戸内市牛窓町に位置する法華宗の寺院である。本堂は現存する最古の法華宗本堂として建築史上で有名である。寺は、町屋街より一段高い山裾を二段に造成した高台を境内として、上段には、室町時代の本堂をはじめ番神堂三祠と中門に加えて江戸時代の建築である三重塔、祖師堂、番神堂覆屋、鐘楼、鬼子母神堂、両祖廟、そして中段に客殿、庫裡、山門などがせまい中に立ち並んでいる。寺の鎮守社である番神堂は三棟の本殿からなり、番神堂東祠の建立年代は本堂よりやや早い。三棟とも小規模な建物であって、一宇の覆屋の中に並べて安置されている。中央のものが入母屋造、左右のものは流造である。少しずつ異なる細部意匠に注目して、これら三棟が移動したという伝えについて検証を加える。

四、片桐貞昌(石州)による慈光院の茶室について

広島大学 大 下 きよみ

 奈良県大和郡山市小泉町にある慈光院は、藩主片桐貞昌(石州)が寛文三年(一六六三)から同四年(一六六四)にかけて両親の菩提を弔うために、大徳寺玉舟宗璠を開山として建立した寺院である。慈光院の主な建物が出来上がってから七年後の寛文十一年(一六七一)に二畳台目出炉の茶室が作られた。建築年がはっきりしている数少ない茶室である。現在、重要文化財となっている。

 慈光院の茶室の特徴としては、手前座の横(勝手側)に床がある亭主床となっていることや、茶室に隣接して二畳の控えの間があり襖で仕切られているが、襖をはずして四畳台目として使用できることである。中柱は天井付近に少し曲がりがあるが全体的に変化の少ない丸太が使用されるなど、石州好みの茶室とされている。茶室建築の手本とされている「片桐貞昌大工方之書」に照らし合わせて、石州好みについて検証していく。

五、浄土寺露滴庵の建築年代に関する再考

広島大学 坂 本 直 子

 浄土寺露滴庵は、古田織部好み相伴席付三畳大目の茶室である。建築年代は、同時および藪内家に伝わる記録から、元禄から享保頃(一六八八~一七三六)と推定されている。

 相伴席付三畳大目の構成は燕庵形式と称され、京都藪内家の燕庵が本歌とされている。露滴庵は、現存最古の燕庵写しと評されるが、細部意匠は本歌との相違点が多いことが指摘されている。しかし、織部好みの同形式の茶室は数種類伝えられており、織部は細部意匠に違いのある同形式の茶室をいくつか造ったと考えられる。

 本報告では、細部意匠から同形式の茶室を系統づけ、そこから露滴庵は燕庵ではなく竹林院の茶室の写しであることを論証する。そうであるならば、藪内家の記録は露滴庵の建築年代に関する傍証にはならない。そこで、細部意匠の時代的傾向の分析結果から、露滴庵の建築年代について再考を試みる。

六、花車の成立 ―花籠を載せた車の構造的特徴―

青山学院女子短期大学 山 田 岳 晴

 花車は、牛舎の車台に類似した、花籠を載せた車である。牛での牽引は想定しておらず、概要は絵画資料によって知ることができる。花車の文様や意匠、図の起源を探った論考はいくつかあるが、絵画資料の存在をもって、花車の成立とみなすことには疑問がある。

 そこで本考察では、絵画資料に描かれた花車について、規模や形式など、構造物として見た特徴を検討して、花車の成立とその過程について考察を行う。

 江戸前期、杉戸絵等に見られる初期の描かれた花車は、基本的に牛車の車台であり、榻(しじ:牛を外した時に軛を載せる台)や綱の意匠から動かす意図がない。江戸中期になると、唐子が曳く空想的要素の高い花車が描かれ、別に、花器や玩具など人が曳く想定の小型立体物の花車を描くものが登場する。江戸後期に至り、曳行する山車として祭礼図における構造物の花車が登場する。こうした絵画資料の実体から、構造物の花車の成立が江戸後期であることを指摘する。

七、江戸時代のからくりを用いた蒔絵硯箱について

広島大学 沖 本 美 幸

 江戸時代、蓋内部へ水銀を込め、それを水に見立てて水車が回る蒔絵硯箱が流行する。水車を施した細工はからくりと称するものであり、文具を収める硯箱に躍動感をもたらしている。本発表では先行研究の三点に、新資料を加えた計六点の作品紹介、及び考察を行う。

 各作品の共通点は、水車のからくりは蓋に表され、どれもが水辺の風景であり、五点が灌漑用、一点は水車小屋がモチーフとなっている。また六点中二点は古典文学の『源氏物語』第四五帖「橋姫」、李白の漢詩「望廬山瀑布」其二を表現し、他一点は宇治橋が表される。水車の材質は象牙と考えられ、水を受ける柄杓の数は八、十、十二の三種、型は柄杓型と槌型がある。また水を模したからくりは水車の他に滝の例もある。硯箱にからくりが施される理由について、当時からくりの仕掛けとの関連を考察したい。

八、インドネシアの日本陶磁器―色絵鷲文大皿を中心として―

広島大学 アルピナ・パムガリ

 江戸時代の十七世紀後半、インドネシアは日蘭の磁器貿易に関与していた。現在、島嶼部各地の発掘調査から、出土品が日本陶磁器の肥前磁器であると特定されている。

一方で、日本陶磁器の出土品や伝世品の研究は、管見の限り考古学的な報告が中心で、美術の視点から論が進められたものは存在しない。調査によって、先行研究が全て伊万里と判断する出土品の中には、それ以外の陶磁器が含まれることが判明した。また日本陶磁器を所蔵する博物館においても「有田・伊万里」の判別が付いていないことがうかがわれた。

 そこで本発表では、インドネシアの博物館及び個人が所蔵する日本陶磁器を対象として、具体的な分類を美術的観点から行いたい。特に花鳥画の文様が入った作品に注目して、同時代の花鳥画の影響を検証し、インドネシアの日本陶磁器の特質について考察したい。

九、日本の温泉文化に関する研究―道後温泉を中心に―

広島大学  ワンサン・ハナフィア

 日本には三一一五カ所の温泉地が存在するが、これほど多くの温泉を保有する国は他に例がない。日本は火山国である地質を生かし、「温泉文化」という独特な文化を生み出してきた。

 中でも、道後温泉は開湯伝説や『風土記』に記述をもつ、歴史ある温泉地である。温泉の建造物としても、道後温泉本館は明治二七年(一八九四)に建てられ、平成六年(一九九四)重要文化財の指定を受けている。調査によって、内部には国内唯一の皇族専用の部屋「又新殿」が設けられ、この第二階層が現在事務所に使われているが、かつて「御納戸」と呼ばれる部屋であったことが判明した。

 本発表では、日本の温泉文化の概要、沿革、伝統的な温泉地について道後温泉を中心に考察を行う。さらに道後温泉本館の又新殿及び御納戸の役割を明らかにする。