2017年度 日本史部会発表要旨

一、八、九世紀の雅楽寮について

広島大学  山 本 佳 奈

 大宝職員令で設置された雅楽寮は、律令国家の国家儀礼のための奏楽・教習機関である。発表では、まず八世紀の雅楽寮について、天平三年の度羅楽の雅楽寮への導入と天平勝宝四年の東大寺大仏開眼供養会を手がかりに、渤海との国家間外交の開始・展開と関連づけて検討する。度羅楽は渤海との外交儀礼での奏楽のために渤海から導入したものと考えられ、奈良時代の雅楽寮は、律令国家の高度な文明性と「帝国」性を象徴し対外的に顕示する奏楽を担っていた。

 九世紀には、①大同四年・弘仁十年と②嘉祥元年の二段階で雅楽寮の改編が行われた。これまで①は外来楽に特化した奏楽機関化、②は律令国家の衰退に伴う縮小整備とみられ、矮小化された中華思想を表現するものと説明されている。しかし、①は儀礼改革の一環として行われた、大歌所や近衛府も含めた奏楽機関全体の再編の一部であり、その結果生じた余剰人員の整理が②である。この改編の背景には、新羅との朝貢関係の解消、渤海使の儀礼参加の停止など、律令国家の「帝国」性放棄を契機とした、「帝国型」律令国家儀礼(渡邊誠「日本律令国家の儀礼体系の成立と蕃国・夷狄」(『九州史学』第一七四号、二〇一六年)から、天皇と全官人との臣従関係を確認する宮廷儀礼への転換があった。

二、戦国期における上野由良氏の政治体制と権力構造

広島大学  藤 田  慧

 上野国新田領を本拠とする由良氏は、かつて横瀬氏と称した岩松氏の被官であったが、明応四年(一四九五)に主家より実権を奪った後、天正十八年(一五九〇)の小田原合戦後に豊臣秀吉によって常陸国牛久に移封されるまで、東上野の最有力勢力として存在し続けた。由良氏については古くは権力・家臣団構造の研究が行われ、また近年では北条氏領国外縁部に存在する国衆として位置づけられ、詳細な政治的動向が明らかになっている。その一方で、当主や家臣団の役割については未解明な部分が残されており、その政治体制や権力構造についてはなお検討の余地を残していると思われる。

 本報告では、特に由良成繁・国繁父子の時代を取り上げ、成繁・国繁とその家臣の役割、そして「長楽寺永禄日記」にみえる家臣を介した由良氏と地域のつながりに注目することで、由良氏の政治体制と権力構造について再検討を加えたい。

三、戦国期毛利氏権力における奉行人組織

広島大学  水 野 椋 太

 天文一九年(一五五〇)七月、毛利氏は井上氏一族の誅伐を行い、同年一二月に五人奉行制が成立するとされるが、これは、毛利氏権力の中枢部を構成する奉行人組織として研究史の中で位置づけられている。五人奉行制の通時的な検討は、既に松浦義則、加藤益幹両氏によって行われているが、両氏の研究においては、五人奉行制は公権力の行使機関として位置づけ、連署による文書発給に注目している。一方で、連署による文書発給は奉行人として重要な政務であったことは間違いないが、他の政務を行っていたことも見逃せない。特に、毛利元就・隆元期に注目すると、奉行人らは元就と隆元の意を受け、双方向の意思伝達を行っていたことが見受けられる。本報告では、このような意思伝達のあり方に着目し、これまでの公権力の行使機関とは異なる視点で、戦国期毛利氏の権力構造における五人奉行制を位置づけたい。

四、幕末期におけるイギリスと薩摩藩の関係

大島商船高等専門学校 田 口 由 香

 本報告は、慶応二年(一八六六)の幕長戦争から翌年の王政復古までを対象として、イギリスと薩摩藩の関係を検討するものである。幕末期国際関係では、フランスの幕府支持、イギリスの薩摩藩・長州藩支持という通説的見解があるが、イギリスと長州藩の関係を検討するなかで、イギリスは日本の政治変革に対して薩長両藩を支援しようとしたのか、という課題を明確にする必要があると考えるに至った。イギリスの対日政策は自由貿易の拡大であり、幕長戦争にも貿易を優先して中立を示すが、駐日公使パークスが薩長両藩を訪問するなど直接的な関わりがみられる。特に、薩英戦争・下関戦争を経験したイギリスが、薩長盟約を締結した両藩をどのように評価していたのかを解明することは重要であると考える。よって本報告では、イギリスと薩摩藩の関係に焦点をあて、パークスと薩摩藩との直接的な関わりや薩摩藩に対する評価など、おもにイギリス側の史料から検討したい。

五、明治初年の奈良県における文化財保護

広島大学 魚 谷 なつみ

奈良県は周知の通り、古代より多くの寺社が建ち並び、日本有数の観光地として今日もその姿をとどめている。なかでも奈良市にある興福寺と春日社は、ともに藤原氏一族ゆかりの寺社として、平安時代より神仏習合の風習のもと一体化していた。そうしたなかで興福寺は中世から近世にかけて藤原氏の子弟らを引き受ける門跡寺院として繁栄の時代を迎えていた。

しかし、明治維新によって「神仏分離令」が発せられ慶応4年3月には還俗令が出されたことで、興福寺は無住化していく。また廃仏毀釈の動きが表面化したこともあり、興福寺は廃寺となりその周辺の街は荒廃した。

本報告では明治初年における奈良の街の荒廃の状況と、それに対する県政ならびに民衆の対応、取り組みを分析することで、当時破壊され、失われつつあった奈良県における古器旧物、荒廃していた名所旧跡等に関する保存の過程を考察してみたい。

六、佐賀地域における地租改正事業と加地子処分問題

広島大学 森永啓介

地租改正の際に長崎県管轄下にあった佐賀地域では、旧佐賀藩のいわゆる「均田制度」を要因として地主・小作人間の土地所有権を巡って闘争が起こり、改正事業は難航した。

 この佐賀地域の加地子処分問題については、県当局への上申や訴訟関係史料等の分析を中心に闘争の経過が明らかにされており、地租改正は、藩政改革の影響を完全に断ち切って、単一の土地所有へ整理・統合したとして重要な意味があったとされている。しかしながら、加地子処分問題を生起させる直接の契機となった改正事業については十分な検討がなされているとはいえず、闘争の経過を事業の展開との関係から改めて考える必要がある。本報告では、改正事業の主体となった県当局が、事業の展開にあたり加地子処分問題の収束にどのように関わったのかを明らかにしたい。

七、日露戦後の海軍将校による執筆活動

九州大学 小 倉 徳 彦

 日露戦後の日本海軍は、弩級・超弩級艦の登場に代表される世界的な建艦競争に対応するため、多額の建艦費を緊縮財政の逆風の中で獲得する必要に迫られていた。このような状況のなかで、海軍は社会に対して様々な働きかけを行っていったのである。本報告では、このうち海軍将校による執筆活動に着目し、その実態を検討していく。具体的には、明治四十三(一九一〇)年前後に相次いで著作を出版し、海軍充実に関する持論を展開した、小栗孝三郎・佐藤鉄太郎・水野広徳という三人の現役海軍軍人の活動を取り上げる。先行研究には、佐藤・水野のパーソナリティーに注目したものが存在するが、彼らの同時代的な活動を総合的に理解しようとする研究は行われていない。よって今回の報告では、小栗をキーパーソンとして、彼らがどのような意図で執筆活動を行い、何を主張したのか、そしてそれが何をもたらしたのかを明らかにしたい。

八、戦前期農山村における中小商業者と産業組合の動向 深安郡山野村を中心として

広島市公文書館 伊 藤 公 一

 購買を事業の一部とする産業組合は、肥料や農具、日用品等をまとめて購入し、組合員に売却することで取引コストの削減を図った。しかし、こうした購買は短期間で規模を縮小させている例がある。その結果として長期間、組合の活動が忌避された村もあった。これらのことは単に個々の産業組合の経営的な挫折を意味するばかりでなく、農山村を取り巻く商業・流通の担い手たちが相応のパフォーマンスを示していた可能性を示唆していると考える。

 本報告では、主に一九〇〇年前後から一九三〇年代の農山村における産業組合の活動のあり方、商業者の活動期間、業態や取扱品目、他の副業と商業との関連性の問題などを取り上げる。これにより在村の中小商業者や、副業の一つとして商業を選択した人々が農山村において果たした役割について考察したい。

 

九、ベトナム戦争期における広島県の米軍基地と地域社会との関係―広弾薬庫を中心に―

広島大学 渡 辺 雄 大

 昭和四〇年代、ベトナム戦争に伴い日本全国で米軍基地の使用が活発になる。広島県では広・川上・秋月の三弾薬庫を中心に弾薬輸送が盛んになるが、関連する研究はこれまで皆無である。よって本報告では、主に広地区における地元民・自治体の意識や対応を、基地反対運動を展開した革新団体・学生の動きや、日本の防衛当局・米軍の対応と併せて見ていく。

弾薬輸送に対し、広地区民から不安の声が多く挙がる一方、無関心な住民も存在した。また呉市・広島県は、広弾薬庫の使用再開通告を受けると、それが工業試験場の誘致を妨げることを懸念し、弾薬庫の「全面返還」を防衛当局に要求する。しかし防衛当局が「一部返還」や弾薬輸送バイパス建設を提案すると、住民・自治体とも概ねこれに従う方向で動いていく。そのため広では、地元主体の基地反対運動は起きなかったと言える。

こうした地元の意識の背後にあったものは何か、地元にとって「基地」がどんな存在だったかを考えたい。