2017年度 西洋史部会発表要旨

一、前三五〇年代におけるケルセブレプテスの動向

広島商船高等専門学校 小 河  浩

 オドリュサイ王国は非ギリシア系トラキアの国家であるが、近年のトラキア史研究の中でも重要性の高い分野である。文字を残さなかったトラキア人であるが、その中でも末期オドリュサイ王国のケルセブレプテスは、ギリシア系史料によく言及される人物である。歴史的にオドリュサイ人も含むトラキア人一般は、ギリシア系史料において非文明的かつ好戦的な種族とされてきた。しかしながら、近年の考古学的調査の進展により、従来のイメージは著しく変わりつつある。オドリュサイ王国は前四世紀の王コテュスの時代にアテナイとも対決した強国であったが、彼の暗殺によって三つに分裂した。コテュスの子ケルセブレプテスは、そのうちの東王国を支配したが、アテナイとの和平を無視してたびたび王国再統一を企む好戦的な人物であったとされている。しかしながら、実際に彼は和平条約を破ることなどなく、また王国再統一を試みたこともなかったことを明らかにする。

二、ヘレニズム君主と小アジアの諸都市におけるギュムナシオン

日本学術振興会特別研究員PD 波 部 雄 一 郎

 ギリシア諸都市がヘレニズム時代に諸王国に従属していたという見方は、近年では否定されつつあり、むしろ同時代とそれに続くローマ時代を東方諸都市の発展期とする見解が大勢を占めつつある。しかし、紀元前三世紀において諸都市がプトレマイオス朝やセレウコス朝などのヘレニズム諸王国の領域内に組み込まれていたことは事実であり、諸王朝がどのように諸都市との関係を構築したのかについては解明の余地が残されている。

 本報告では、プトレマイオス朝を事例として、ヘレニズム王国がギリシア都市をどのように影響下に組み込んだのかについて考察する。両者の関係を考える上で着目するのは、諸都市に設置された体育・軍事訓練機関、ギュムナシオンである。プトレマイオス朝による諸都市のギュムナシオンへの関与の問題を取り上げ、その目的を明らかにするだけではなく、ヘレニズム時代における王権と都市の関係について新たな視点を提示したい。

三、四世紀のヒスパニア・ガリアにおける教会会議記録の検討
―プリスキリアヌス論争の文脈を探る―

慶應義塾大学 林  皓 一

 三八五年頃、トリーアにおいて「異端者」プリスキリアヌスは処刑された。彼の告発と処刑の原因として、三位一体論、マニ教、グノーシス主義、禁欲主義など様々な主題が取り上げられてきた。各々の議論においては、多様な史料が用いられているが、史料の選択や強調がそれぞれの論者の主張に沿ってなされているということは否めない。しかし、「異端者」プリスキリアヌスを理解するためには、同じ性格の史料から分析を行い、彼をめぐる論争が同時代のいかなる文脈に置かれ得るのかを考える必要があるのではないだろうか。そこで本報告は、主に四世紀のヒスパニアとガリアにおける教会会議記録を分析し、同地域の教会において、歴史的に一貫して論じられる、あるいは地域性を示す問題は存在するのか、あるとすればそれは何であるのか、そしてそれはプリスキリアヌス論争と如何なる関係にあるのか、こうした問いの検討を行う。

四、五世紀後半におけるガリア教会とトゥール司教の「権威」

広島大学 上 杉  崇

 五世紀後半のガリアは、西ローマ帝国政府やローマ系の有力者たち、さらには西ゴート、フランクといった勢諸力が林立し、勢力争いを繰り返すという複雑な情勢であった。そうしたなかで、聖界においても、アルル司教座を中心として、五世紀前半にガリア南部で強勢を誇った、レランス修道院出身の司教ネットワークの優位が揺らぎ、ガリア教会内での首位権をめぐる争いが生じる余地が生まれた。

 こうした状況下で、レランスとは異なる、オーヴェルニュ地方出身者の司教ネットワークに属していたトゥール司教は、ガリア聖界の新たな中心となるべく施策を講じることとなった。本報告では、そうしたトゥール司教の取り組みのうち、特にガリアの聖人であるマルティヌスと同市との関係の強調について考察する。そのうえで、トゥール司教がガリア教会内での首位性を主張していくにあたり、いかにして自らの「権威」を構築しようとしたかについて検討する。

五、末期ビザンツ帝国におけるギリシア概念―ゲミストス・プリトンの異教思想を軸に―

福井県立大学 上 柿 智 生

ギリシア古典の継承が行われたビザンツ帝国において、ギリシア語話者正教徒の自称は「ローマ人」であって「ギリシア人」は異教徒を基本的に意味していたが、一三世紀以降「ギリシア」という名辞が自らの文化的伝統を肯定的に捉えるために、そして古代からの血縁的連続性を言い表すために用いられるようになる。この潮流の極致として一五世紀に活躍したのが哲学者ゲミストス・プリトンであった。異教信仰を軸としてギリシア国家の復興を構想したとされる彼の思想は、いま一人の知識人であるゲオルギオス・スホラリオスとの哲学論争、および彼による「プリトン一派」への迫害という事件を引き起こした。本発表ではこれらの経緯を両者の著作に依拠して検証することでプリトンの思想の内実と影響力を再検討し、当時のギリシア概念と「異教性」との間の摩擦の様態を明らかにしていきたい。

六、独仏戦争時のビスマルク外交とアメリカ合衆国

岡山大学 飯 田 洋 介

 プロイセン首相として、あるいはドイツ帝国宰相として外交政策を掌ったビスマルクがアメリカ合衆国に対して友好姿勢を強調し、最も政治的に接近したのは一八六〇年代後半、すなわち北ドイツ連邦成立時から独仏戦争までの期間であった。この時期のビスマルク外交に関する先行研究の関心は、主に①スペイン王位継承問題から独仏戦争勃発に至るまでのビスマルクの意図、②アルザス・ロレーヌ割譲に見られるような戦後処理をめぐる問題、あるいは③ドイツ帝国成立に向けた南ドイツ諸邦との交渉等に向けられ、この時期のビスマルクの対米政策については等閑視されている。北ドイツ連邦成立時の彼の対米政策について報告者は以前論じたことがあるので、本報告では独仏戦争時のそれに注目し、その実態とビスマルクのねらいを明らかにすることをその課題とする。ここから見えてくるのは、独仏戦争時における従来のビスマルク像とは幾分異なるものとなるだろう。

七、ヴァイマル中期における義勇軍経験とナチズム
―ハインツ・オスカー・ハウエンシュタインの叛乱―

九州大学 今 井 宏 昌

 第一次世界大戦直後、ドイツ革命のさなかに産声をあげたヴァイマル共和国(一九一八〜一九三三)は、国家による暴力独占に失敗した「弱い国家」であった。そこでは崩壊した正規軍に代わり、志願兵部隊「義勇軍Freikorps」が結成され、国内の治安維持や東部国境守備、そしてバルト地域での干渉戦争を展開した。しかしその一部は共和国に叛旗を翻し、過激な右翼暴力の担い手となっていく。

 かくして反共和派となった義勇軍戦士の少なからずは、のちにヒトラー率いるナチ党に合流した。だが一九二三年一一月のミュンヘン一揆失敗後、ヒトラーが「合法路線」へと舵を切ると、彼らは公然と党中央に対する批判を展開するようになる。本報告は一九二六/二七年のベルリンにおいて、そうした党内叛乱の中心人物となったハインツ・オスカー・ハウエンシュタイン(一八九九〜一九六二)に焦点をあて、彼の義勇軍経験と叛乱との関係について検討するものである。

八、全国禁酒法と二〇世紀アメリカの秩序形成

北九州市立大学 寺 田 由 美

 一九三三年一二月、アメリカ合衆国において一四年間にわたり禁止されてきたアルコールの製造・販売・運搬は、合衆国憲法修正第二一条の発効をもって正式に再合法化された。修正二一条の成立で廃止された合衆国憲法修正第一八条およびヴォルステッド法(いわゆる全国禁酒法)については、これまで研究者を含む多くの人びとが、アメリカの伝統から「逸脱」した「大失敗」の政策であったとの評価を下してきた。しかしこうした評価は、二〇世紀アメリカ国家の建設において禁酒法が果たした役割からわれわれの眼を逸らすことになった。

 本報告では、北部ではエスニックな労働者階級を、南部では黒人と「教育のない」白人を選択的にターゲットとし、また麻薬研究者の学知に支えられ、さらに連邦政府権力による強制を求めた二〇世紀初頭の全国禁酒法運動について整理する。その上でこれが、二〇世紀アメリカ国家の秩序形成にどのような影響を及ぼしたのかを考えてみたい。

九、東ドイツの余暇と政治―保養旅行から見える社会主義社会―

広島大学 河 合 信 晴  

 本報告は東ドイツの保養旅行の実態を検討することを通じて、社会主義体制下にあった社会の一端を提示する。保養旅行はこの国では余暇活動の中で、その斡旋がすべて公的機関によって担われていたことから、私的生活と公的生活の境界構造を探るうえで有用な研究対象といえる。本報告は保養旅行の需要の高まりがみられる一九六〇年代半ばから七〇年代を対象として、SED(社会主義統一党)の保養政策を検討し、政治が日常生活に及ぼしていた影響を明らかにする。その際、保養政策の主たる担い手と法律で規定されていた労働組合「休暇サービス」と企業保養所という公的組織の対立関係が、政策形成ならびに保養旅行の実態に与えていた影響、東ドイツの人々が保養旅行をめぐって行政機関との間でとった行動様式に着目する。そして、東ドイツにおいては、私的問題であるはずのものが公的・政治的議論の対象となっていた状況を描き出す。