シンポジウム趣意書

「モンゴル帝国と日本・ユーラシア南方海域」

 いまモンゴルと言えば、まず大相撲が頭に浮かぶ。史上最多三十九回の優勝を誇る白鵬を始めとする三人の横綱を含め、現在幕内だけで九人ものモンゴル出身の力士がいる。いまや日本の国技は彼らによって支えられていると言っても過言ではない。

 さて、そのモンゴルだが、現在歴史研究の分野、特に「海域アジア史」という新しい研究分野において注目されている。「海域アジア史」とは、従来陸の視点で区分された「東アジア」「東南アジア」「南アジア」などと異なり、海の世界だけでなく、海をはさんだ陸同士の交流、さらには海上と陸上の相互作用などを含む学問概念とされる。こうした視点で近年様々な研究がおこなわれており、その代表的なものが文部科学省科学研究費補助金特定領域研究として採択された「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成―寧波を焦点とする学際的創生」(二〇〇五~二〇〇九年度)と題する研究(通称「寧にんプロ」)であり、関連領域において多くの研究成果が蓄積・公開されてきた。

 広島史学研究会の大会シンポジウムでも、「海域アジア史」関連のものとして二〇〇七年度「中・近世期の港湾都市と海域世界のネットワーク―海・都市・宗教―」と二〇一一年度「一六~一七世紀の東アジア交易秩序と銀流通」が開催された。前者ではアジア海域ネットワークと地中海域ネットワークの比較や、海域ネットワークの中の海港都市の性格、そして海港都市における宗教的寛容の問題について、また後者では一五七〇年システムの射程や、近世東アジア海域の交易秩序と銀の流通、そしてウオーラーステインの「世界システム論」の再考といった角度から活発な議論がおこなわれた。

 これらはいずれも、「大航海時代」に始まる「世界の一体化」の時期を取り上げたものであるが、今回はその一つ前の時代、すなわち一三世紀~一四世紀、具体的にはアジア海域交流が活性化してユーラシア規模での交流圏が成立する時期を扱う。そしてそこで中心となるのが、モンゴル帝国の存在である。

 モンゴル帝国とは、言うまでもなくチンギス=カンを首長とするモンゴル族がモンゴル高原各地に展開する遊牧諸部族を統一して誕生した国家である。周辺諸国家を支配下に置き、中国北部やイラン東部まで領土を拡大した一三世紀前半には、単なる遊牧国家ではなく、多様な民族や宗教の人々で構成される複合国家となり、遊牧民・定住民双方に対して統治をおこなった。その担い手として、征服した国家の宰相や役人、そして商人が登用され、あわせてムスリム商人やユダヤ商人など様々な商人が築いた交易ネットワークを基盤に、ユーラシア大陸・インド洋海域規模で交易のネットワークを形成したと理解されている。

 また、モンゴル帝国がユーラシア大陸にまたがる覇権を確立したことで、それまで分断状況にあった交通路がつながり、各方面の往来が活発になったほか、元朝が南宋を支配下に置き、中国東南沿海地域の港湾都市を掌握したことにより、従来南海経由で中国に到達していた海商たちが元朝と直接関係を結ぶようになった。こうして北方アジアや中央アジアで活動する商業勢力が海上交易に本格的に乗り出すようになったことで、インド洋海域の海路と中央ユーラシアの陸路が結びついたと言える。そして、モンゴル帝国の海域への進出は、都市や港湾を支配下に組み込み、その地の有力者を掌握することで彼らの人脈(人的ネットワーク)の取り込みを実現したとされる。

 なお、研究動向の一部を紹介するならば、杉山正明氏が「中央ユーラシア」という地域概念を用いてモンゴル帝国期ユーラシアの有機的な連帯性を主張するのに対し、家島彦一氏は地中海東海域から南シナ海、さらに東シナ海までの海域を陸域も含めた連鎖的・重層的空間として「インド洋海域」世界を設定して陸域との連関性を主張している。

 さて、モンゴル帝国に関する課題としては、商人や宗教者との関係が挙げられる。

 モンゴル族はもともと遊牧民であり、家畜とともに季節移動をおこなう遊牧生活が基本である。遊牧民は、自身で商業や農業をおこなわないため、彼ら遊牧民にとって商人は大切な存在であった。すなわち、必要物資をもたらすとともに情報提供の面でも恩恵を受けていた。一方、商人にとっても遊牧民は、資金提供や安全保障の面で大切な存在であった。また、モンゴル帝国には様々な地域から多様な宗教者が集まってきたが、彼らも重要な存在であった。

こうした商人や宗教者は国境を越えて移動する場合が多く、なかにはユーラシア大陸やインド洋を横断する者もいた。宗教者が旅をする際には多数の商人と行動を共にする場合が多く、宗教者も教団経営のためには経済活動が不可欠で、その担い手が商人であった。そのため、宗教ネットワークと商業ネットワークが重複する場合もあったものと思われる。さらに、有力な商業勢力や宗教教団は、保護や優遇を求めて国家とも関係を築こうとした。したがって、こうした商人や宗教者たちが国家や社会とどのような関係を築き、政治交流や経済交流、そして文化交流においてどのような役割を果たしたのか、様々な角度から分析・検討する必要があろう。

 そこで今年度の大会シンポジウムでは、モンゴル帝国を対象に、現在その最前線で研究を進めている三人の方に御登壇願うこととした。

 まず議論の前提として、また考察すべき問題の所在を明らかにするため、舩田善之氏(広島大学)が「モンゴル帝国の拡大と対外政策─転機とその背景」と題して報告する。近年ではモンゴル帝国の周辺世界(アフリカ・ユーラシア両大陸を意味するアフロ・ユーラシア)に果たした役割について、改めて検討がおこなわれ再評価がなされつつあるが、本報告でモンゴル帝国の拡大と対外政策を論じる目的と内容は以下の通りである。

 ①チンギス・カンから孫のクビライに至る帝国の拡大過程を概述することによって、シンポジウム全体の議論の土台を提供する。②拡大を規定したモンゴル帝国の対外政策を考察する。従来、モンゴル帝国の拡大や統治政策を叙述する際、クビライの即位を転機と位置づけて理解する傾向にあった。報告者は、チンギス・カンの子であるオゲデイ時代を最も重要な転機とみなし、その背景を考察する。すなわちクビライの対外政策も、オゲデイ以降の対外政策を継承したものであったことを確認し、その上で、クビライ政権特有の事情もその対外政策に大きく影響したことを議論したい。

 第二報告は、「日本史から見た元代」と題して榎本渉氏(国際日本文化研究センター)が報告する。近年、学界ではモンゴル時代にユーラシア規模の交通・物流が実現し、文化交流が活性化したことが、強調されるようになった。そしてその背後にはモンゴルの広域的支配や商業重視の姿勢があったというのが、一般的な評価である。しかしその根拠の多くは、現実の交易の実態ではなく、モンゴルの政策、言い換えれば政権によって標榜された目標として語られたことでしかない。実際にそれが交流活性化にとってどの程度の意味があったのかを知るためには、交流の対象となる地域の状況を併せて検証する必要がある。

 本報告では、多くの同時代史料を有する日本という場をサンプルとして、この問題を考える。もちろん日本は、モンゴルによる外交的交渉や軍事的圧力に対して終始抵抗を続けた特殊な国ではあるが、その特殊性を自覚した上で検討をおこなう。さらにできることならば、日元関係をアジア史の中に位置づけたい。

 最後の報告は、向正樹氏(同志社大学)による「「モンゴル=システム」考─元朝とユーラシア南方海域」である。向報告では一三世紀から一四世紀前半までをピークに、ユーラシア大陸と周辺海域を覆うゆるやかな広域交易システムが出現し、ユーラシア南方海域には、いくつかのサブ=システムが、重なり合いつつ存在していた、とする通説を改めて検討する。本報告は、積極的な対外政策を推進した元朝が、このユーラシア南方海域にどの程度支配権を及ぼしえたのか、について問うものである。

 具体的にはモンゴル時代ユーラシア南方海域の交易システムの実態を探るべく、①元朝と南方海域諸国の間で交わされた二国間通交の持続時間、②元朝の南方海域諸国に対する政策の変遷、③各種往来の特徴とその変遷、④各種往来の記録の問題等について再検討する。

 今回のシンポジウムの考察範囲が限定的であることは否定できない。とりわけ西アジアのイスラム勢力やヨーロッパのキリスト教世界との関係については、報告を準備することができなかった。日本やユーラシア南方海域のみでは、個別的な議論と考えるむきもおられよう。だが、いうまでもなく個別具体的な研究の蓄積を通じてでしか全体は理解できない。またこうした課題を設定することで、ともすれば一国史的な枠組みでの議論に終始してきた各国史を、地域史として改めて考察することが可能となる。そして、地域史的な観点からの分析は、各国の個性を論じるための視座を鍛錬するうえでも、重要な示唆を与えてくれよう。さらに本シンポジウムは、今日のグローバル化したといわれる国際社会を理解するうえでも、重要な視点を提示することになると思われる。

 シンポジウム当日は、日本史・東洋史・西洋史の枠組みを踏まえながらも、新たな歴史学の可能性を追求するという立場から、積極的な議論が繰り広げられることを希望している