2021年度 文化財学・民俗学部会発表要旨
 
1、東三条殿東対川本重雄氏復元案に関する考察       

    広島大学 勝野  永


  東三条殿は、平安京における藤原摂関家が所有した邸宅の一つである。なかでも藤原頼通が造営した殿舎は仁安元年(1166)に焼失するまで100年以上存続したとされる。その間東三条殿では藤原摂関家の儀式が度々行われたため、絵巻物や日記に東三条殿に関する記録が多数残された。
 川本重雄氏は絵巻物や日記をもとに、東三条殿の殿舎を等角投影図によって復元している。その中で、東対は『年中行事絵巻』の描写より、南北棟の対屋に入母屋造の屋根を架け、南広庇南西隅に架かる部分の屋根のみを一段切り下げた形式としている。しかし、『年中行事絵巻』の描写を改めて確認すると、南広庇に架かる屋根には西第二柱上と西第四柱上に反り上がった軒付の描写があることなど、川本氏による復元案と『年中行事絵巻』の描写とは齟齬が見受けられる。本発表では『年中行事絵巻』における東三条殿東対の描写を再検討し、川本氏復元案との相違点を指摘することで、より正確な『年中行事絵巻』の理解を試みる。

 
2、紅型とバティックの関連性について      

     広島大学 アクバル・リズキ・デア・ハビビ

  沖縄県の染織、紅型の起源を先行研究では、14~15世紀にインド更紗、バティックの技法、中国印花布が影響を与えたとする。発表では当時の琉球とジャワに関する資料から関連性を再考したい。現存する紅型は15世紀の1点で型紙技法であり、バティックは見つからない。14~15世紀のジャワの石造像のバティック文様とこの紅型を比較するが同様とは言い難い。『歴代宝案』では宣徳5年(1430)に琉球からジャワへ初の交易開始許可が下るがバティック類の記載は確認できない。バティックとは王宮内で制作され門外不出の手描き技法で、信仰・儀礼に着用するものであった。『Sulalatus Salatin』等には15世紀後半マラッカ王が儀礼のためにジャワからバティック類を入手すると記録があり、技法伝播は19世紀以降である。『Carita Parahyangan』に技法がジャワ島内に16世紀以降に広まるとある。従って、バティックの技法が琉球へ14~15世紀に伝播し、紅型に影響を与えたとは言い難いと考える。

 
3、尾道市浄土寺所蔵 金銅火焔宝珠形舎利容器について       

    広島大学 伊藤 奈保子

  この舎利容器は総高14.2センチ、構成は下方より、六方隈入の円形の基壇、反花座、独鈷杵、輪宝、蓮華座、四方火焔宝珠の順で、宝珠を水晶製とする以外は銅製鍍金であり、宝珠内に舎利を2粒を納入する。現状で独鈷杵までの台座、輪宝、宝珠の3つに分解でき、刻銘はない。
 発表では、類例作品と比較検討しながら形状の詳細を述べ、浄土寺所蔵、足利直義の文書や寺史、所蔵作品からこの舎利容器の由来と用途を考察する。浄土寺伽藍は定証により喜元4(1306)年に再興とされる。定証は西大寺、叡尊の弟子であり、醍醐寺三宝院流の密教の流れをくむ。浄土寺はかつて真言律宗西大寺の影響が考えられ、東京国立博物館所蔵の金銅火焔宝珠形舎利容器(重要文化財、鎌倉時代)、西大寺所蔵の金銅火焔宝珠形舎利容器(重要文化財、建武2年)に並び、同所蔵の金銅火焔宝珠形舎利容器は密教の観想行のために用いられた密観宝珠形舎利容器と考えられる。

 
4、瑠璃光寺五重塔の地方色について

  広島大学 平  幸子

  五重塔のある瑠璃光寺は曹洞宗寺院で、山口市街の北端に位置し、周辺は市営の公園として整備されている。五重塔は、応永の乱で討死した大内義弘の菩提を弔うために弟盛見が香積寺の境内に嘉吉2年(1442)に建立したものである。江戸時代に香積寺は萩に移転したが、五重塔は移転されずに残り、代わって瑠璃光寺がこの境内を引き継いで今日に至っている。塔は、軒の出が比較的大きく、軒反りは軽快で、屋根勾配がきわめて緩く、しかも三重以上に縁、高欄がないため、塔身が細く締まって見え、恰好がよい。禅宗の塔の遺構としては、ほぼ全体が和様を基調とした装飾の少ないものである。日本における最西部に位置し中世に栄えた大内文化を示す遺構としての瑠璃光寺五重塔 から地方色文化を考察する。


 5、大友氏館中心建物に関する考察

  広島大学 中村 泰朗

  大友氏館跡(大分県大分市)は当地方の大名・大友氏が長らく本拠地とした邸宅の跡地であり、近年の発掘調査によって、館跡のほぼ中央部より当時の住宅建築としては広大な平面を有する建物の痕跡が確認された。発掘調査報告書によれば、上記の建物(同報告書に倣い中心建物と仮称する)が存した区画は礎石痕の残存状況が比較的に良好であった。また中心建物の年代は遺物などの検討から16世紀後半に比定できるという。
 16世紀後半の大名邸に存した建物については、現存遺構がほぼ皆無であることなどから、建築史学的観点からの研究がほとんど進められていない。仮に上述した大友氏館中心建物を詳細に復元することができれば、建築的構成を具体的に知りうる事例を増やすという意味で、同時代の大名邸に関する研究の進展に寄与するものとなる。そこで本発表では、発掘調査で見つかった礎石痕の配列を詳細に検討し、大友氏館中心建物の平面構成を可能な範囲で復元する。


 6、安芸高田市の法成寺鐘楼

  愛媛大学 佐藤 大規

  法成寺は安芸高田市向原町に所在する浄土真宗の寺院であり、境内に存する鐘楼は典型的な4本足の鐘楼で、安芸高田市の重要文化財に指定されている。この鐘楼の詳細な建築年代を示す史料はないが、虹梁の絵様や各部の風食から17世紀初期の建築と推測され、広島県内では最古級の4本足鐘楼と考えられる。また、この鐘楼は大正6年(1917)に仏護寺(本願寺広島別院)よりもらい受け移築されたという。仏護寺は、福島正則によって慶長14年(1609)に現在地に移転されており、推定される建築年代からすれば、この際に建築された可能性がある。福島正則が関係した建造物は現存例が乏しいこと、原爆によって仏護寺の江戸時代に築造された建造物は失われているため、法成寺鐘楼はその唯一の現存例ということ、垂木より上は取り替えられているがそれ以外は当初材がよく残っており保存状態は良好であることから、法成寺鐘楼は貴重な建造物と言える。


 7、慈光院の茶室から、石州好み(様式)についての考察
                                                                   広島大学 大下きよみ

  慈光院は、奈良県大和郡山市にある臨済宗の寺院である。
 この寺院は、寛文3年(1663)に小泉藩主片桐石州(貞昌)が亡くなった両親の供養のために創設され、8年後の寛文11年(1671)に二畳台目の茶室が付け加えられた。茶室の中で建てられた年まで伝わっているものは、外に一棟もない。
 茶室完成から2年後、延宝元年(1673)に石州は亡くなっている。したがって、石州が手掛けた最後の茶室と考えられる。
 慈光院茶室の構成部分をみていくと、床が亭主床となって、二畳の控えの間が付設されていること、天井の形態、柱の様相、袖壁やそれに沿っている中柱の形状、躙り口など、慈光院ならではの特徴が見られる。
 前回の取り組みでは、特徴を挙げることに終始し深められなかった。今回は、石州が影響を受けたと考えられる茶室等を取り上げ、比較検討しながら「石州好み」について考察をしていく。