2021年度 日本史部会発表要旨 
 

1、大隅乙万呂について

    宇部工業高等専門学校 菊池 達也

  
8世紀前半の南九州では軍事衝突が起こり、また、班田が実施されないなど律令制度の適用が部分的に遅れていたとされる。そして、そこに住む人々は隼人と呼ばれ、6年に一度「朝貢」することを強いられ、都で独自の奉仕を求められていた。一方同じ頃、都では、その南九州の地名を冠する姓を持つ人々が活動していた。その一人が、平城京左京三条二坊八坪東二坊坊間路西側溝から出土した木簡に記されている大隅乙万呂である。この木簡は、ある年の10月9日に、書吏が大隅乙万呂と大県起万呂に対して飯2升を与えたことを示す伝票である。また、出土した地点の西側で長屋王家木簡や二条大路木簡が発掘されており、これらの木簡群と関連したものである可能性が高い。
 そこで本発表では、大隅乙万呂がどのような人物で、なぜ飯を支給されたのか、周辺から出土した木簡群の研究成果と照らし合わせつつ探ってみたい。

 

2、室町期守護山名氏の備後国支配と奉公衆四番本郷杉原氏一族

    広島大学 木下 和司

  室町期の山名氏による備後国支配については、多数の研究実績が存在し、川岡勉氏が提示した「室町幕府―守護体制」論の論拠の一つとして挙げられているが、川岡氏の論旨から奉公衆は除外されている。この原因は史料的な制約が大きいためである。一方、奉公衆四番の杉原氏に関しては、『萩藩閥閲録』等に残る杉原氏関係史料に、守護と奉公衆の関係を示すものが残されている。備後地域の定説では、四番衆杉原氏惣領は木梨杉原氏、高須杉原氏は庶子家とされる。しかし、室町期の史料分析から、本来の惣領は備後国本郷庄を本領とした本郷杉原氏であり、木梨・高須両氏は庶子家であったことが判明する。本郷杉原氏を惣領とする視点から関係史料を整理すると、室町期の木梨・高須両氏の所領相続に関して、備後守護及び守護代の果たした役割が明らかとなる。
 今回は、備後国支配における守護・守護代と奉公衆の関係について報告する。また、近年、将軍と守護・守護代との間の重層的な関係が指摘されている。将軍・奉公衆と守護の間にも重層的な関係存在しており、この点ついても若干の考察を加える。


中近世における本願大願寺の活動


    県立広島大学宮島学センター 大知 徳子


  厳島の真言宗寺院・大願寺(亀居山放光院)は、大永年間(1521‐1528)より厳島関係文書に登場する。中世末期における大願寺は、神主家や大内・陶・毛利氏の保護の下で、「本願」として島内の社寺の造営・修理を担っていたことが、先行研究によって明らかにされている。大願寺は近世においても本願職としての活動を継続したが、史料的な制約もあって、近世の大願寺に関する研究は、これまで殆ど進んでいない。このため、近世において島内の社寺の造営・修理がどのようにして行われてきたのか、不明な点が多い。
 そこで、本報告では、まず中世末期において大願寺が大経堂をはじめとする造営事業を行った事例の分析を踏まえ、大願寺が近世において江戸幕府や領国主の下で、いかにして造営・修理事業の主導権(資金調達)を獲得・維持していったのかを、大願寺文書によって具体的に検証したい。

 
4、中近世移行期における知行宛行について―毛利就隆の分知をめぐって―

    毛利博物館 柴原 直樹

  
在地領主制が中世社会における特徴の一つであることは言うまでもない。しかし、在地領主をどのような存在とみるについては、古くからの議論にも関わらず、一致をみない部分が多い。統一政権の登場、石高制の確立とともに、国人領主をはじめとするかつての在地領主は、在地から切り離された存在となる傾向はみられるものの、有力な外様大名各家においては、万石規模の地方知行を認められた大身の家臣が一定数存在することも事実である。
 毛利氏は、国人領主の第一人者が周囲の在地領主層を統合して戦国大名し、さらには近世大名へと転身を遂げた典型とされる。また、支配下に収められたかつての在地領主の多くは地方知行を認められていることから、こうした在地領主の領主としての性格の推移を検討するには恰好の素材であると思われる。そこで本報告では、17世紀初頭における毛利輝元の次男就隆の分知について考察し、この時期の知行宛行をめぐる大名・家臣の意識の推移について明らかにしたいと思う。

 

5、使行録にみる慶長・元和・寛永度の朝鮮通信使


    広島大学 野宮 裕子

  
朝鮮通信使とは、朝鮮王朝から日本の武家政権に派遣された使節であり、江戸時代には12回日本に派遣された。日朝関係の友好を表象するという観点から、現代の日朝関係を反映して研究が進められてきた分野でもある。
 通信使は、帰国後の国王への報告書提出を義務付けられており、この報告書を「使行録」という。通信使研究において、「使行録」は部分的に活用されてきた。また、「使行録」以外の朝鮮通信使関係資料は、通行する各地に分散し、時期的にも偏って遺っている。そのため研究が分散的になり把握しづらい様相を呈している。そこで、通信使使行の度に一貫して書かれた「使行録」を分析することで、研究の地域的・時期的分散性を克服したいと考える。
 本報告では、回答兼刷還使という名目で派遣された慶長12年度(1607)から寛永元年度(1624)に記録された「使行録」を用いて、通信使一行と日本人各層とのやり取りを分析対象とし、交流や相互認識の実態について明らかにしたい。

 

6、朝鮮通信使迎接における萩毛利家の本分家と一門


   九州大学 吉田 智史

  
本報告は、朝鮮通信使迎接の実態解明という観点から、萩毛利分家と一門の役割を明らかにするとともに、迎接における本家・分家・一門の各家の動向や相互関係について考察することを目的とする。
 萩藩の朝鮮通信使迎接については、『下関市史』などによって全体像の解明が進み、赤間関と上関に名代として一門が各一名派遣され、長府藩や岩国吉川家が助役を務めたこと、延享度と宝暦度に長府藩が幕府から別個馳走役を命じられたことが明らかにされている。しかし、萩藩がどのような体制を組織して迎接を遂行したのか、また長府藩や岩国吉川家との役割分担についても具体的な検証は不十分である。そこで本報告は、分家や一門の分掌について通時的に分析する。あわせて迎接における各家の動向や相互関係について公儀役負担や「御家」の論理との関連から考察する。なお、分析の時期は天和度から宝暦度とする。


 

7、露使応接掛における親交意識と領土観

      大学 和田 真樹

  嘉永6年(1853)7月、プチャーチン艦隊が長崎に来航し、通商と国境画定を議題に交渉を求めた。この日露交渉には、川路聖謨や筒井政憲などの露使応接掛が活躍し、日露和親条約の締結に尽力した。
 従来の日露和親条約締結に関する研究は、日露友好を視角とする概説的研究と領土観や国境認識を素材とした個別実証的研究の二つの潮流が存在する。特に、前者においては、日露間の友好関係を、異文化交流のワンシーンとして描く傾向が強く、そのなかで、川路と筒井は「開明派」と評価される。しかし、近年では、昌平坂学問所の儒者に焦点を当てた思想史研究、人物史研究の進展によって、川路を「開明派」とする評価は否定され、評価の見直しが迫られている。また、日露交渉における「親交」と「領土」については研究潮流の相違から、分断して論じられる傾向があるため、川路と筒井の総体的な位置付けがなされてきたとは言い難い。
 そこで、本報告では、露使応接掛の中心人物であった川路聖謨と筒井政憲を取り上げて、露使応接掛の親交意識と領土観を、最新の研究視角を踏まえたうえで明らかにする。


8、第二次長州出兵における延岡藩の動向―芸州口への出兵を中心に―

   福岡大学 古林 直基

  第二次長州出兵は、幕末政治史において、幕府が敗退したことにより、その権威を失墜させ、幕府権力解体の上で、重要な転機となった戦争であると位置づけられている。この分野を牽引している三宅紹宣氏は、第二次長州出兵の戦況を精緻に分析した。しかし、分析対象は、実際に長州藩と交戦した諸藩に限られ、征長軍を構成した大多数の藩の実証的研究は進展していない。
 本報告で検討対象とする延岡藩(日向国、内藤家7万石)は、「御旗本御後備」として出兵し、芸州口討手応援のため広島へ派遣されるものの、実際に戦闘に参加することなく、解兵を迎える。
 これまで「譜代」であるというイメージが先行し、延岡藩は「忠実」な譜代藩であったと評価されてきた。本報告では、延岡藩を、征長軍を構成していた譜代藩として、①実際に戦闘に参加する可能性が高かった芸州口への出兵をめぐる動向について検討し、延岡藩がこの戦争に対しいかに対応したのか。②第二次長州出兵においても延岡藩は「忠実」な譜代藩であったのか、研究史上における同藩への評価について。以上の2点を検討したい。


 9、幕末維新期イギリスから見た天皇・将軍の地位

      長崎大学 田口 由香

  本報告は、幕末期から明治初期までを対象としてイギリス側の史料からイギリスが日本の天皇・将軍の地位をどのように見ていたのかを検討するものである。イギリスは幕末期、元治元年(1864)の下関戦争段階では幕府が正式な外交関係をもつ政権としたが、翌年には朝廷が幕府の上位にあり外交的発言権をもつとして条約勅許を要求、一方で慶応2年(1866)の幕長戦争段階では再び幕府が外交権をもつ政権とした(拙稿「幕末期イギリスから見た日本の天皇・将軍・大名の位置づけ」『東アジアの王権と秩序』汲古書院、2021年9月出版予定)。慶応三年の大政奉還段階では、石井孝氏が、駐日公使パークスが天皇宛の信任状を外相に要請したことから、将軍の「指導的地位」を予想しながらも「正式に天皇政府が幕府に代ったものと認め、天皇政府を承認する決意をした」としている(『増訂 明治維新の国際的環境』吉川弘文館、1966年)。本報告では、以上のような各段階におけるイギリスが見た天皇・将軍の地位について検討したい。

 
10、鎮将としての三条実美―和宮帰京問題への対応を中心に―

      広島大学 奈良 勝司

  王政復古政変に伴い、亡命先の大宰府から帰京して新政府に入り、副総裁となった三条実美は、慶応4年(1868)閏4月、「関東監察使」を兼職して無血開城後の江戸に赴いた。その後輔相となった三条は、新設された「関八州鎮将」の兼職を経て、7月17日、江戸の東京への改称と同時に「鎮将府」が設置され(10月18日廃止)ると、「鎮将」に任命された。明治以後は太政大臣のイメージの強い三条だが、この時期彼は、新たに新政府の統治対象となった江戸(東京)を統括する責任者として、その姿勢を問われる立場にあった。旧幕府の根拠地を占領してから東京奠都が打ち出されるまでの約半年のあいだ、現地の最高責任者はいかなる政治方針のもと、いまだ戊辰戦争が隣接する北関東や北陸・東北で継続中という騒然とした状況下の江戸(=敵地)の統治にあたったのか。本発表では、当該期の三条の動向を特に和宮帰京問題を中心に検討することで、江戸の民衆に対するまなざし、京都という伝統空間との距離感、皇族の扱いなどについて明らかにする。そしてそれは、草創期の維新政権が打ち出した大枠の方向性を、彼の個性を通して展望する作業ともなろう。


 11、元良勇次郎の倫理学からみる〈ポスト教育勅語時代〉の道徳思想

       韓国・東義大学校 藤野 真挙

  本発表は、明治中後期の東京帝大で心理学講座教授を務めていた元良勇次郎の倫理学説に焦点をあて、教育勅語発布以後から大正期にかけての道徳思想の展開を論じるものである。一般に、当該期における道徳思想は、東京帝大哲学講座教授の井上哲次郎に象徴される、観念論的な国民道徳論の展開から論じられることが多い。しかし、本発表で取り上げる元良は、自身の心理学説と関連させつつ、井上とは異なる実在論的な道徳論を展開していた。元良心理学の特徴は、実証主義的手法に基づいて、「個人」の「判断力」の働きを科学的に明らかにすることにあった。そして彼の倫理学説は、この「判断力」をいかにして社会的なものに還元するか、という関心から展開されていた。本発表ではこれらのことを言説史的に扱うが、このことによって、明治道徳思想のなかで登場した「個人」や「個性」といった諸概念が、大正道徳思想にどのように引き継がれていったのかの一端を示す。