2021年度 日本史部会発表要旨 |
1、大隅乙万呂について 宇部工業高等専門学校 菊池 達也
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2、室町期守護山名氏の備後国支配と奉公衆四番本郷杉原氏一族
広島大学 木下 和司 |
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4、中近世移行期における知行宛行について―毛利就隆の分知をめぐって― 毛利博物館 柴原 直樹 在地領主制が中世社会における特徴の一つであることは言うまでもない。しかし、在地領主をどのような存在とみるについては、古くからの議論にも関わらず、一致をみない部分が多い。統一政権の登場、石高制の確立とともに、国人領主をはじめとするかつての在地領主は、在地から切り離された存在となる傾向はみられるものの、有力な外様大名各家においては、万石規模の地方知行を認められた大身の家臣が一定数存在することも事実である。 毛利氏は、国人領主の第一人者が周囲の在地領主層を統合して戦国大名し、さらには近世大名へと転身を遂げた典型とされる。また、支配下に収められたかつての在地領主の多くは地方知行を認められていることから、こうした在地領主の領主としての性格の推移を検討するには恰好の素材であると思われる。そこで本報告では、17世紀初頭における毛利輝元の次男就隆の分知について考察し、この時期の知行宛行をめぐる大名・家臣の意識の推移について明らかにしたいと思う。 |
5、使行録にみる慶長・元和・寛永度の朝鮮通信使
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6、朝鮮通信使迎接における萩毛利家の本分家と一門 九州大学 吉田 智史 本報告は、朝鮮通信使迎接の実態解明という観点から、萩毛利分家と一門の役割を明らかにするとともに、迎接における本家・分家・一門の各家の動向や相互関係について考察することを目的とする。 萩藩の朝鮮通信使迎接については、『下関市史』などによって全体像の解明が進み、赤間関と上関に名代として一門が各一名派遣され、長府藩や岩国吉川家が助役を務めたこと、延享度と宝暦度に長府藩が幕府から別個馳走役を命じられたことが明らかにされている。しかし、萩藩がどのような体制を組織して迎接を遂行したのか、また長府藩や岩国吉川家との役割分担についても具体的な検証は不十分である。そこで本報告は、分家や一門の分掌について通時的に分析する。あわせて迎接における各家の動向や相互関係について公儀役負担や「御家」の論理との関連から考察する。なお、分析の時期は天和度から宝暦度とする。 |
7、露使応接掛における親交意識と領土観
広島大学 和田 真樹 |
8、第二次長州出兵における延岡藩の動向―芸州口への出兵を中心に― 本報告で検討対象とする延岡藩(日向国、内藤家7万石)は、「御旗本御後備」として出兵し、芸州口討手応援のため広島へ派遣されるものの、実際に戦闘に参加することなく、解兵を迎える。 これまで「譜代」であるというイメージが先行し、延岡藩は「忠実」な譜代藩であったと評価されてきた。本報告では、延岡藩を、征長軍を構成していた譜代藩として、①実際に戦闘に参加する可能性が高かった芸州口への出兵をめぐる動向について検討し、延岡藩がこの戦争に対しいかに対応したのか。②第二次長州出兵においても延岡藩は「忠実」な譜代藩であったのか、研究史上における同藩への評価について。以上の2点を検討したい。 |
9、幕末維新期イギリスから見た天皇・将軍の地位 長崎大学 田口 由香 本報告は、幕末期から明治初期までを対象としてイギリス側の史料からイギリスが日本の天皇・将軍の地位をどのように見ていたのかを検討するものである。イギリスは幕末期、元治元年(1864)の下関戦争段階では幕府が正式な外交関係をもつ政権としたが、翌年には朝廷が幕府の上位にあり外交的発言権をもつとして条約勅許を要求、一方で慶応2年(1866)の幕長戦争段階では再び幕府が外交権をもつ政権とした(拙稿「幕末期イギリスから見た日本の天皇・将軍・大名の位置づけ」『東アジアの王権と秩序』汲古書院、2021年9月出版予定)。慶応三年の大政奉還段階では、石井孝氏が、駐日公使パークスが天皇宛の信任状を外相に要請したことから、将軍の「指導的地位」を予想しながらも「正式に天皇政府が幕府に代ったものと認め、天皇政府を承認する決意をした」としている(『増訂 明治維新の国際的環境』吉川弘文館、1966年)。本報告では、以上のような各段階におけるイギリスが見た天皇・将軍の地位について検討したい。 |
10、鎮将としての三条実美―和宮帰京問題への対応を中心に― 広島大学 奈良 勝司 王政復古政変に伴い、亡命先の大宰府から帰京して新政府に入り、副総裁となった三条実美は、慶応4年(1868)閏4月、「関東監察使」を兼職して無血開城後の江戸に赴いた。その後輔相となった三条は、新設された「関八州鎮将」の兼職を経て、7月17日、江戸の東京への改称と同時に「鎮将府」が設置され(10月18日廃止)ると、「鎮将」に任命された。明治以後は太政大臣のイメージの強い三条だが、この時期彼は、新たに新政府の統治対象となった江戸(東京)を統括する責任者として、その姿勢を問われる立場にあった。旧幕府の根拠地を占領してから東京奠都が打ち出されるまでの約半年のあいだ、現地の最高責任者はいかなる政治方針のもと、いまだ戊辰戦争が隣接する北関東や北陸・東北で継続中という騒然とした状況下の江戸(=敵地)の統治にあたったのか。本発表では、当該期の三条の動向を特に和宮帰京問題を中心に検討することで、江戸の民衆に対するまなざし、京都という伝統空間との距離感、皇族の扱いなどについて明らかにする。そしてそれは、草創期の維新政権が打ち出した大枠の方向性を、彼の個性を通して展望する作業ともなろう。 |
11、元良勇次郎の倫理学からみる〈ポスト教育勅語時代〉の道徳思想 韓国・東義大学校 藤野 真挙 本発表は、明治中後期の東京帝大で心理学講座教授を務めていた元良勇次郎の倫理学説に焦点をあて、教育勅語発布以後から大正期にかけての道徳思想の展開を論じるものである。一般に、当該期における道徳思想は、東京帝大哲学講座教授の井上哲次郎に象徴される、観念論的な国民道徳論の展開から論じられることが多い。しかし、本発表で取り上げる元良は、自身の心理学説と関連させつつ、井上とは異なる実在論的な道徳論を展開していた。元良心理学の特徴は、実証主義的手法に基づいて、「個人」の「判断力」の働きを科学的に明らかにすることにあった。そして彼の倫理学説は、この「判断力」をいかにして社会的なものに還元するか、という関心から展開されていた。本発表ではこれらのことを言説史的に扱うが、このことによって、明治道徳思想のなかで登場した「個人」や「個性」といった諸概念が、大正道徳思想にどのように引き継がれていったのかの一端を示す。 |