2021年度 西洋史部会発表要旨 |
1、古代エジプト末期王朝時代におけるアッシリア・ペルシャ支配の記憶
広島大学 宮本 彩芽
古代エジプトは末期王朝時代以降、たびたび外国人による支配を受けることとなった。しかし、この当時の具体的な状況を伝える史料はあまり存在せず、ヘロドトスの『歴史』が第一級の史料として現在まで広く利用されてきている。征服の記憶を伝えるエジプト側の史料としては、神官や書記などのエリート層による外国憎悪や救世主待望の文学作品や儀式文書がある。そのひとつがUrk. VIである。Urk. VIは第30王朝~プトレマイオス朝初期に作成された2巻のパピルス文書からなる儀式文書集で、伝統的に外国を表象してきたセト神による冒涜と神々による彼の断罪が描かれているものである。この儀式文書は作成年代からアッシリア・ペルシャへの反感を表したものと推測される。
本報告ではアッシリア・ペルシャのエジプト征服の記録とヘロドトスの『歴史』、エジプト人による外国人憎悪の文学作品、そしてUrk. VI内に描かれているセト神の冒涜を比較し、Urk. VIの性質について考察していく。
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2、Ostia研究の今とその特異性
上智大学名誉教授 豊田 浩志
私もその一員の日本隊のオスティア遺跡調査は2008年に開始され、新型コロナ騒動まで毎年現地表面調査を行ってきた。その継続調査で従来知見をはるかに超える成果が得られたが、それ以上に最近の欧米の研究進展には驚かされる。今や深層ボーリング調査による古地質学的知見すら登場し、しかもそれが古代ローマ時代を考察する上でもヒントとなっているのだから侮れない。
さて、後79年のウェスウィウスの噴火により丸一昼夜で封印されたポンペイやヘルクラネウムと異なり、帝都ローマの外港オスティアは、紀元前4世紀の創建からマラリア蔓延で完全放棄される5世紀半ばまで存続し続けたので、先の2都市とは異なる性格を有している。すなわち発掘状況は放棄後の、尾羽うち枯らした挙げ句の都市景観なのである。
しかしいずれにせよ歴史学では庶民の日常生活の貴重な証言を残してくれているのも事実である。その最新トピックスを今回発表者各自の得意分野から紹介する。
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3、オスティア・アンティカ出土呪詛板に書かれた美容師たち
広島大学 前野 弘志
ローマの外港都市オスティア・アンティカ遺跡の共同墓地necropolisからは、現在までに4枚の呪詛板が出土している。本報告ではローマ門Porta
Romanaに入る手前すぐ左側の横道に少し入った所にある墓所A2から1910年に発見された呪詛板(CIL, XIV, Suppl, 5306)を中心に取り上げる。これは縦10.5cm×横10.5cmの鉛の板で、真ん中で縦に折られて閉じられた状態で発見された。開けると内面に9人の女奴隷の名前が刻まれていた。名前はほぼ一律に、個人名、主人の家名、女奴隷ser
(va)、美容師ornatrixの順に書かれ、呪文や呪詛の理由などは一切書かれていない。この呪詛板に関する研究は少なく、これまで家名に着目した研究、同職組合collegiumに着目した研究はあるが、彼女たちを呪詛した人物の心の内を扱った研究はないようである。そこで本報告では、女奴隷たる美容師たちの人間関係に焦点を当て、庶民の声無き声に耳を澄ませてみたい。
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4、オスティアの「性的」グラフィッティ―Domus di Giove e Ganimede (I,IV,2) を中心に
九州大学 奥山 広規
グラフィッティ(graffiti)といえば、当時の人口の大半を占めていながらも研究の俎上にのせることが困難な庶民層の実態に迫り得る稀有な研究資料である。なかでも「性的」なものは、その露骨さから忌避されながらも、生々しい肉声として注目を集めてきた。ポンペイでの研究がよく知られているが、本報告では、オスティア(現在のオスティア・アンティカ遺跡)の事例を、現地調査成果を軸に検討する。具体的には、オスティアの「性的」グラフィッティを概観した上で、それが集中する遺構「Domus
di Giove e Ganimede (I,IV,2)」に注目し、この遺構に「性的」グラフィッティが刻まれた意味やその果たしていた機能を掘り起こすことで、ローマ時代の当地に生きていた人々の実態の一端を明らかにする。そして、ポンペイとは時空間的に異なるオスティアにおける性的グラフィッティの特徴を見出すことで、ポンペイの事例のみで語られがちなグラフィッティという資料への理解や知見を広げたい。
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5、オスティア出土のキリスト教的カット・ガラス碗
藤井 慈子
帝政後期のローマ・ガラスには、無色透明な浅い碗類に、内側からみるべくカット装飾が施された200点以上のグループがある。その出土分布は、西ローマ帝国での流通が主だったことを物語っている。それらの意匠やカットの特徴に基づき、少なくとも4工房への再分類が試みられ、うち2工房については都市ローマにあったと目されている。
ローマの港町オスティアでは、人々の生活で用いられた様々なガラス製品が発見されているが、キリスト教的主題を有する上述の浅碗も数点報告されている。それらは、勝利のキリストまたは殉教者ラウレンティウスと解釈される十字架を担いだ人物像や、律法の授与図など、聖書場面にはない、4世紀半ばにあらわれた新たな図像レパートリーである。前者は、豪華な邸宅Domus del Protiro (V,II,4-5)の下水から発見されていることから、異教的彫像も発見されているこの邸宅の機能を問う資料となり、後者は、スペイン出土の類例もあり、当時の流通を物語る資料となるだろう。
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6、中世後期クレタの家産と封土―カタスティクムにおける「嫁資」の検討から―
広島大学 西本 祐紀
1234年以降、ヴェネツィア領クレタの都市政府は、カタスティクムと呼ばれる土地台帳を作成し、封土の譲渡に関するあらゆる情報を集積していった。その目的は、封土の所有者である領主に課せられた軍事義務の所在を明らかにすると同時に、登記を通じて、ヴェネツィアと領主の主従関係を明文化することにあった。従来の研究では、カタスティクムをクレタの統治システムに欠かせないものとして、行政上の観点からその役割が評価されてきた。しかし一方で、封土の譲渡の多くは、領主による財産の分配・相続という形式で行われていたように、私的な家族の領域とも重なり合うものであった。その意味で、カタスティクムは家産の継承プロセスの記録として読み解くこともできる。本報告では、封土と嫁資の関係を中心に、カタスティクムを家族史的な側面から検討する。領主の立場からカタスティクムはどのような意義を持っていたのか、そして家産の分配・相続のなかで、彼らは封土をどのように扱っていたのかを実証的に考察する。
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7、19世紀後半におけるインド茶の中央アジアへの流通
大阪大学 山内 瑞貴
19世紀半ば以降、植民地インドでの茶の栽培に成功したイギリスは、世界各地へインド産茶葉(インド茶)の販路を開拓していった。このインド茶の流通に関して、従来の先行研究では、主としてイギリスの公式/非公式帝国の事例が取り上げられがちである。いっぽうで、インド茶はイギリスの帝国の枠を超えた地域にも流通したが、この点は研究が十分に進んでいないと考えられる。
本報告では、19世紀後半以降、帝政ロシアが影響力を広げていった中央アジアを事例に取り上げ、この地域にインド茶がどのように流通していったのかを見てゆく。従来、英露対立の場として描かれる同地において、国際商業がどのように展開していたのかを知るための一事例を紹介・考察する。
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8、戦間期イギリスにおける消費社会の展開―若者と生活協同組合の関わりに着目して―
京都大学 浮網 佳苗
近現代イギリスの消費文化を理解するにあたり、消費社会が隆盛を迎えた戦間期における消費者の実践を検討する。とくに、国内最大規模の消費者組織である生活協同組合を取り上げる。戦間期の協同組合は組合員数を伸ばし、飛躍した一方で、成長著しい大手小売企業や百貨店との競争にさらされ、所得水準が上昇し消費者として存在感を増す若い世代を取り込むことに苦労していた。そこで、若い消費者をめぐって協同組合ではどのような議論や実践がなされたのか、そして、若い消費者や組合員は協同組合をどのような存在だと認識して利用していたのかを、協同組合が発行する機関紙や関係者による著作、パンフレット、全国紙などの史料を用いて検討する。19世紀以来、企業との差異を強調して発展してきた協同組合が、若い世代をめぐって従来の伝統の堅持と転換の間で苦悩する過程を明らかにすることで、協同組合という経済のしくみが持つ性質や困難、戦間期イギリスの消費社会の特徴を浮かび上がらせたい。
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9、ドイツ新聞学とジャーナリズム、エミール・ドヴィファト(1890‐1969)を例に
慶應義塾高等学校 木村 航
本報告では、ワイマール期からナチ期を経て、第二次大戦後も西ドイツで活動を続けた新聞学者エミール・ドヴィファト(1890‐1969)をとりあげる。ドイツのコミュニケーション学が、戦前の新聞学を母体に発展したことは日本で周知のところとなったが、同学がどのようなジャーナリズムの実践知を構想していたかについてはあまり知られていない。発表では戦前に時期をしぼり、彼の大学における新聞学講座やジャーナリスト職業教育についての見解を紹介し、それをジャーナリズム史のなかに位置づけたい。ベルリンを事例として明らかになるのは、新聞学をとりまくアクターが、編集者、出版人、大学関係者、そして官僚機構と様々であったことと、理想化されたジャーナリズム像の存在である。
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10、戦後ドイツにおけるナチ被害者団体による歴史認識の構築―ブーヘンヴァルト強制収容所の経験―
九州大学 平田 哲也
本報告の目的は、ナチス・ドイツ(1933‐1945)において設立された「強制収容所」の囚人たちの経験が戦後ドイツ史に何をもたらしたかを明らかにしようとするものである。特に、1937年に中部ドイツ・テューリンゲン州の都市ヴァイマル近郊に開設された「ブーヘンヴァルト強制収容所」に収容されていた共産党系の囚人、そして、彼らを中心に結成された「ファシズムの犠牲者」(OdF)と「ナチ体制の被害者同盟」(VVN)
といった戦後東西ドイツ各地に創設されたナチの被害者団体に注目する。1945年以降、ソ連占領地区ドイツ(SBZ)ないしドイツ民主共和国(DDR)=東ドイツにおいて、ブーヘンヴァルト強制収容所の元囚人の「主体性」が構築される過程に注目しながら、強制収容所の当事者がどのように東ドイツの歴史認識に影響を与えたのかを、西側占領地区ドイツないしドイツ連邦共和国
(BRD)=西ドイツとの比較から分析を加える。
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11、トルーマン政権期アメリカの人種をめぐる冷戦動員
北九州市立大学 川上 耕平
戦後アメリカにおける黒人の地位向上の道程は、1954年の「ブラウン判決」を起点に置き、公民権運動をてこに成立した1964年の「公民権法」を到達点とみなして叙述されることが多い。だが「ブラウン判決《以前》」にも、その萌芽となるような人種政策があったことへの関心は依然低いままである。そこで本報告は、この「ブラウン判決《以前》」にあたる、1940年代後半から50年代にかけての軍における人種政策に焦点を当てる。アメリカの軍隊では伝統的に白人と黒人が別々の部隊に配属されていたが、トルーマン大統領が1948年に「大統領令第9981号」を出すことにより、人種別部隊編制が禁止されるようになった。これは、最高裁判決のような司法府による解決でもなく、法律制定のような立法府による解決でもなく、「大統領令」という行政府による解決であったわけだが、そこにどのような作用が働いたのかということを検討する。
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